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支え合う祈り

2019年度は祈りについて少々重きをおいて、聖書に耳を傾けてきました。詩篇からも順々に学んでいますが、それとは別にも学んできました。今回はその3回目。イエス様のゲツセマネにおけるお祈りから学ばせていただきましょう。ということで、3月29日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章36-46節から、「支え合う祈り」と題してメッセージでした。

祈りの支えを求められた 36-38節

イエス様が十字架につけられる前夜。イエス様と弟子たちは最後の晩餐をすませゲツセマネに来られました。12弟子の1人、イスカリオテのユダはすでに食事の席を外して共にいません。じゃあ11弟子が一緒?他にも弟子はいました。ここに何人いたかはわかりません。しかしイエス様はその弟子たちに『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい』と言われました。さらにペテロとヤコブとヨハネの3人と先へ進み、彼らには『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』と言われ、1人先へ進まれます。『すわる』という言葉には「任命する」という意味もあります。弟子たちの配置は、「最前線」に赴くイエス様を援護する布陣のようです。また『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』は「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである」です。体の死ではなく魂の死。最後の審判まで、私たちの肉体の死はあっても、魂の死はありません。魂の死は罪による究極の滅びを意味します。それを肩代わりする十字架がイエス様に迫っていました。その十字架が「最前線」。イエス様はなぜ3人の弟子を他の弟子とは別扱いされたのか?えこひいき?私たちにとって親しい人とそうでない人の違いは何でしょうか。お互いどれだけわかり合っているか?ではないか。会話や祈りは生活習慣です。その中で関係は深まり、支えられ、励まされる。イエス様も同じ。イエス様は神の子。お一人で何でもできた。でも一世一代の大勝負、全人類の救いがかかる十字架に向かうために、たくさんの弟子の祈り、より身近な弟子の祈りの支えを求められたのです。

繰り返し祈られた 39-46節

イエス様は最初『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』と祈られ、次に『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』と祈られ、そして『また行って、三度目に同じ言葉で祈られた』とあります。最後には『立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた』と立ち上がられた。祈りが短い。2度目はもっと短く、3度目は内容すら記されない。神の子だからといって悩みを隠さず、格好いいことも言わず、言葉巧みでもない。とても素直で簡潔。そして「魂が死ぬほど」の状態から『立て、さあ行こう』と毅然とした態度へ変化した!弟子たちは座るだけ、いるだけ、眠るだけ。不意を突かれ、混乱し、逃げ出した。イエス様は『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい』と言われました。祈らないと誘惑・不安・恐れが入り込む。「四六時中祈り続けるなんて無理!」ですか?イエス様は『ひと時も』と言われました。ひと時でいい!イエス様が十字架に向かう直前の祈りですらこれなんです。祈りは神様との日常会話。生活習慣。どんな場所でも、どんな時にも、どんな事態でも、イエス様のように素直で簡潔な祈りを繰り返せばいい。祈る中で、変えられ、整えられ、前進できるのです。

神の子でさえ祈られ、祈りの支えを必要とされました。私たちにおいて何をか言わんやです。祈らなかった弟子たちのあられもない姿は祈りの大切さを教えてくれます。イエス様のようにしっかりと立って、前進するために、自分のためにお互いのために祈りましょう。そうやって教会の全ての営みは、じりじりと前進し、福音は伝わり、神の家族の輪が広がるのです。

4月5日(日)は棕櫚の主日礼拝。ルカによる福音書第23章32-38節から、「ゆるしの十字架」と題してメッセージです。

納骨堂の清掃

3月22日(日)の午後、納骨堂の清掃に出かけました。

きれいになりました。

今年のイースター召天者記念礼拝、墓前礼拝・納骨式は4月12日(日)です。

自由の福音の真理〜信仰による

私たちは自由を願います。でも「あなたは自由です」と言われた途端、何をしていいかわからないということがないか。長い休みがあっても、ゲームばかり?動画ばかり?「ああ暇だ。何にもすることがない」なんて言ってない?ある程度の決まり事、ノルマ、義務、マニュアルがあればどうでしょう。それさえやっていれば楽?考えなくてもいい?周りからも認められる?安心?でもそれって本当に自由?このことについて、パウロは自由の福音の真理を語り始めます。とうことで、3月22日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章15-16節から、「自由の福音の真理〜信仰による」と題してメッセージでした。

神様に義とされる

パウロは福音の真理について、義と信仰から始めます。『わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが』と記しますが、選民思想で異邦人を差別しているのではありません。ユダヤ人は元々神様も律法も知っています。『律法の行い』とは、割礼・食事に関する規定・年間の祭事・その他生活全般を指します。律法は元々、神様によって、エジプトの奴隷状態から救出されたイスラエル人に与えられたもの。彼らにとって選ばれし・救われし・自由にせられし者の誇り・証し・勲章のようなものでした。一方ガラテヤ教会の人々は神様も律法も知りませんでした。律法が言う罪を罪とも思わず生活していました。そういう意味でパウロは『(私は)異邦人のような罪人ではない』と言ったのです。しかしガラテヤ教会の人々も自由の福音によって自由な者となりました。じゃあこれから何をしたらいい?となった時、『ある種の人々』『にせ兄弟ら』『割礼の者ども』がやって来て「ほら!こんなにやるべきことがあるよ」と『律法の行い』を提示したのです。「これはわかりやすい」とガラテヤ教会は飛びついた!しかし律法は年月を経て、ユダヤ人が意識するしないに関わらず「これを行わないと神の選びから外れる。義とされない」というノルマ・義務・マニュアルになり果てていました。義には二種類あります。一つは自らの行いで証明する義。もう一つは裁判官が宣言する義。『律法の行い』は前者に使えそうですが、元々神様に選ばれてエジプトから救出されたユダヤ人の生活であって、義を得るためのものではありません。ユダヤ人も私たちにも必要なのは後者です。私たちの行いに関係なく、とにかく神様に宣言していただく義。それが聖書の言う義。私たちの救いに必要な義なのです。

イエス様の信仰による

だからパウロは『わたしたちもキリスト・イエスを信じた』と告白するのです。そして『キリストを信じる信仰によって義とされる』のです。直訳は「キリストの信仰によって義とされる」。日本語訳だとイエス様を信じる私の信仰で義とされる、と理解できます。しかしイエス様ご自身の信仰で私たちは義とされる。イエス様の信仰?この『信仰』は「真実」という言葉でもある。「神の真実」という時に使われます。神様の真実にイエス様が信頼されたことで、イエス様の真実が現されました。それが十字架の救いです。そのイエス様の真実に私が信頼することで、私も神様に受け入れられる。神様とイエス様、イエス様と私、私と神様が真実と信頼で一つになっている。神様の真実が信仰を通して私まで貫いている。それが義とされるということ。十字架こそ神様の真実の現れ。イエス様がその十字架につけられるということは、神様への完全信頼の証し。神の親子の真実と完全信頼の合体によって私たちへの義が現れた!だから私たちもイエス様への完全信頼、100%の信頼だけが必要なのです。イエス様への信頼ある所に常に神様の義があるのです。いかなるノルマ・義務・マニュアルも入り込む余地はないのです。それは救われてからも変わらないのです。

「信仰がもっと強くないといけない」「信仰がまだまだ弱い」と、信仰さえ行いのように扱っていませんか?信仰は本来、最も力の抜けた状態。親の懐や背に子が身を委ねるようなもの。私たちも神様の懐にくつろぎ、イエス様の十字架に身を任せるだけでいい。神の親子の真実と信頼は底なしです。私たちはこの神の親子に創造された者。だから神様は私たちを信頼しておられる。命がけで。「あなたは私が造った。だからあなたを信頼している。私を、イエスの十字架を信頼してくれると。そこに私の義・救い・自由がある」。

3月29日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章36-46節から、「支え合う祈り」と題してメッセージです。

卒園式がありました

水曜日に天授ヶ岡幼稚園第66回卒園式がありました。

ご卒園、おめでとうございます。

私も皆さんの祝福をお祈りをさせていただきました。

『願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように』。民数記第6章24-26節

イエス様の家族

今ほど家族とは何かを問われている時代はないと思います。かつては、「夫は、妻は、親は、子どもは、家族は『こうあるべきだ』」というものがあったのではないでしょうか。しかし今はそれが崩壊。なんでもありの模索状態ではないでしょうか。そしていろんな問題が露わになってきました。しかし問題ばかりではありません。危機が好機。ピンチがチャンス。家族を見つめ直す良い機会。ということで、3月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章31-35節から、「イエス様の家族」と題してメッセージでした。

人の家族 31-32節

イエス様のうわさはあちらこちらに広がり、多くの人々が「癒してもらいたい」「お話を聞きたい」とイエス様の元に殺到するようになりました。イエス様と弟子たちは休む暇がありません。イエス様の母マリヤと兄弟・姉妹たちが、イエス様が『気が狂った』と思って『取押さえに』やって来ました。父ヨセフの存在はありません。ヨセフは早くに死んだのではないかと考えられます。権威あるお父ちゃんがいればすぐさま家に連れ帰ることができる?この時イエス様は30歳ぐらいです。首根っこつかまれて連れ帰られるような年齢でもありません。『気が狂った』とは「正常な位置から外れる」ということ。ならば正常な位置に戻してやればいい。しかし彼らは『取押さえに』(支配しに)来た。「自分が正常だと思う範囲」に引き戻すために。私たちにもないか?私たちそれぞれには、本来あるべき立ち位置、最もふさわしい立ち位置、その人が本当にその人でいられる立ち位置がある。それは神様が用意しておられる。しかし本人も家族も知らない。認めない。そしてそれぞれ自分の「こうあるべき」と思う範囲に押し込め、支配しようとすることがないでしょうか。

神の家族 33-35節

イエス様は『家』におられました。イエス様がカペナウムに戻られると使う家、福音宣教のベースハウスだったようです。そこには人々があふれていました。年齢も、性別も、身分も、職業も違う人々。罪人と言われた人も、汚れていると言われた人も、そうでない人もみんな一緒に座っている。それって当時ありえないことです。垣根がなくなっている。一つ屋根の下にみんないる。ただいるだけじゃない。『神のみこころ』を行おうとしている。それまで彼らがどんな人だったか、何をしてきたかは問われません。今、そしてこれから『神のみこころ』を行う人々。イエス様はそんな彼らを『わたしの母、わたしの兄弟』と呼ばれたのです。ここに全ての家族の原点があります。アダムとエバから始まる家族を創造されたのは神様です。その子孫である私たちも皆神様に創造され、それぞれに神様から目的、役割、立ち位置が与えられている。それは他人を見ていてもわからない。神様の私への『みこころ』を知らなければならない。そのためにイエス様がおられる。イエス様は神の子。神様と私たちをとりつぐ立ち位置。だからイエス様の招きに応じ、イエス様に聞き、イエス様に従う。それが『神のみこころ』を行う家族なのです。

神様の用意された立ち位置なんて堅苦しいと思いますか?私はかつてそう思い込んでいました。清く、正しく、孤高の世の旅人としてのイメージ。家族も世も仮の住まい。聖か俗かでいえば俗。だから疎外感があった。教会も奉仕をがんばる所。でも病を得てイエス様にゼロから向き直ることになりました。イエス様に「私に来てまず休むんだ。力を抜いてくつろぐんだ。私と共に、君自身を喜び楽しんでごらん。私が与えた家族を喜び楽しんでごらん」と言われているようでした。神様の用意された立ち位置は、私の想像する喜び以上、満足以上、豊かさ以上。家族も教会もイエス様を中心に、誰もがホッとする場所、元気になる場所、そこで得たものを出て行って分かち合いたくなる場所。それがイエス様の『家』、『神のみこころ』を行う家族の営み。それは血のつながった家族か、そうでないかは関係ないのです(結局母マリヤも弟たちもイエス様の弟子になっていきます。それは後の話し)。

3月22日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章15-16節から、「自由の福音の真理〜信仰による」と題してメッセージです。

自由の福音の後退

パウロが生み出したガラテヤの諸教会が、『違った福音』を語る『ある種の人々』に急激に傾き、自由の福音・キリストの恵みの内・福音の真理から急激に落ちて行きました。パウロは「どないしたんや!」と、息せき切って、玄関に飛び込んでくるような勢いで手紙を書き始めました。しかしここにきて、もっと深刻な問題があったことが記されます。世界最初の教会、エルサレム教会の『重だった人たち』・イエス様の直弟子・教会の柱である大御所ペテロが後退してしまった!ガラテヤの諸教会は生まれたてで福音を十分理解していなかったかも知れない。でもペテロは違う。「どないしたんや!」と叫びたくなります。ということで、3月8日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章11-14節から、「自由の福音の後退」と題してメッセージでした。

自由の福音に与っても 11-13節前半

ペテロはユダヤ教社会に育ったユダヤ人。そしてイエス様の弟子。模範的な所もあり、大失敗もあり。でもイエス様昇天後、聖霊様が降り、迫害をものともせず大胆に福音を語り出した。そんな時夢を見る。清くないとされる食材が天からおりてきて食べなさいと言う。ペテロは拒みます。すると『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』という声。そんな夢の後、異邦人コルネリオ一家の救いに立ち会います。すると『割礼を重んじる者たち』から異邦人と食を共にしたと批難されます。ペテロは先の夢とコルネリオの救いに触れ、神様が異邦人にも同じように救いをもたらされることを彼らに理解させました。ペテロもパウロと同じく、神様の啓示によって働き、神様の権威によって臆せず語り、理解を得ています。でも今回。アンテオケで異邦人クリスチャンと『食を共にして』いたのに『ヤコブのもとから』『割礼の者ども』が来たら、『割礼の者ども』に合わせて異邦人クリスチャンから離れてしまった。彼らに振り向いた瞬間、『恐れ』が生じ、ペテロが生まれ育ち馴染みに馴染んだものの見方・考え方・行動にあっという間に引きずり込まれた。かつて、荒れ狂う湖の上をイエス様が舟に向かって歩いて来られた時、ペテロは大胆にもイエス様めがけて湖の上を歩き出しました。でも『風を見た』瞬間『恐ろしくなり』沈み始めた。イエス様を見ている時は沈まなかった。目をそらした瞬間沈み始めた。それと同じ。私たちにもないか?ちょっとしたことが引き金になり、無意識のうちに、あっという間に、過去の自分に戻ってしまった、過去の過ちを繰り返してしまった、悪いクセが出てしまった、人に指摘されるまで気付かなかった、なんてことが。

自由の福音に与り続けるために 11,13節後半

『恐れ』は伝染する。異邦人宣教の雄バルナバまで引きずり込まれた。パウロはみんなの前でペテロを「なじり」ます。この言葉は「抵抗する」という言葉です。まさに自由を守る抵抗。パウロはペテロたちの行動を『偽善の行為』と記します。「本心を偽った行動」「神の前に仮面芝居している」という言葉。他の何者かに支配され、操り人形のようになっている。そこに自由はもはやない。クリスチャンになりたての異邦人がペテロの振る舞いを見ると当然困惑します。「今まで私らと一緒に食事してくれていたのに急に知らん顔?異邦人あかんの?私らもユダヤ式にした方がいいの?それともこういう人がいる場合はこう、ああいう人がいる場合はああ、と切り替えた方がいい?」。コロコロ変わる福音?誰の福音?それって『違った福音』ではないか?パウロは言います。『福音の真理に従ってまっすぐ歩いていない』。言い換えれば「福音の真理に従ってまっすぐ歩きなさい」。難しい?いえ。最もシンプルな原点。イエス様に向いて聞いて従うことです。ペテロはパウロに言われて、それが痛いほど良くわかったと思うのです。なぜなら彼は、そのことを何度も経験してきたから。自分かわいさのため何度も失敗した。それでもイエス様はその度に手を差し伸べられ、ペテロは何度もその手をつかみ直し、立ち直り、前進してきたから。信仰の長い短いに関係なく、私たちも同じ弱さがある。同じく恐れやすい。だからこそ、福音の真理に常に向き直り、従い直し、まっすぐ歩き直すのです。

自由の福音の後退。あのペテロでさえ後退した。ならば私たちにおいて何をか言わんやです。でも恐れるな。自由の福音を前進させるためにこの手紙はある。いよいよ「福音の真理」の詳細に入っていきます。

3月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章31-35節から、「神様の家族」と題してメッセージです。

自由の福音の権威

パウロは熱心なユダヤ教徒であり教師だった。教会を撲滅しようとした。でも心底、神様を信じ、従い、良いことをしている!と疑わなかった。でも復活のイエス様に出会い、自由の福音に打ち砕かれ、自由の福音の使徒となった。生育や学歴や社会的地位は関係ない!ただ神様の啓示、イエス様という啓示によった!とパウロ。でも。単なる自己主張を「神は私に示されたのだ!」と権威づけしようとしているだけじゃないか?案外、私たちが自由だと思っていたことが不自由だったり、クリスチャンのつもりで言っていることが、昔馴染みのものの見方・考え方・行動の押しつけだったり。本当にそれは神様からの権威なのか?ひとりよがりか?紙一重と言えるわかりにくい問題に光を当てましょう。ということで、3月1日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章1-10節から、「自由の福音の権威」と題してメッセージでした。

神の啓示によって与えられ 1-2節,6節

パウロは復活のイエス様に出会って後、しばらくアラビヤや故郷に退いていました。そこをバルナバに見出され、アンテオケ教会で活動開始。二人は宣教旅行に出かけ、ガラテヤ教会を生み出します。そして帰ってきたところ、異邦人クリスチャンへの割礼の是非を問う問題が起こり、パウロ、バルナバ、テトスはエルサレム教会へ出かけました。そして本会議の前に『重だった人たち』『柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ』とのやりとりがあったようです。ヤコブはイエス様の弟。ケパはペテロでヨハネと共に十二使徒のメンバー。生のイエス様と生活した、最初の教会の中心的存在。ヤコブ、ペテロ、ヨハネたち、ユダヤ社会にある教会が正当な流れなのか?パウロ、バルナバ、テトスたち、異邦人宣教の前線教会は違う流れなのか?パウロは神様の前ではそんなことは関係ないと言います。パウロは啓示によって自由の福音を信じ、啓示によって異邦人宣教に出かけ、啓示によってエルサレム教会に来たと言うのです。全て神様の啓示。だから権威がある!いやいや。だからそれが大丈夫かって話し。

人に示すことで確認される 2節,4-5節

パウロは上から「私こそが神の啓示を受けた!私が正しい!私に従え!」とは主張しませんでした。パウロが受けて、異邦人に伝えた『福音の真理』を『人々』と『重だった人たち』に示したのです。無駄にならないよう、丁寧に証しし、理解してもらえるよう努めました。その結果、異邦人クリスチャンであるテトスは、ユダヤ教的慣習の割礼を強いられることはありませんでした。しかしここに出てくる『人々』の中には、『にせ兄弟』と言われる人々もいたようです。第1章の『違った福音』をガラテヤ教会に持ち込んでかき乱す『ある種の人々』とも重なります。ヤコブ、ペテロ、ヨハネ。パウロ、バルナバ、テトス。にせ兄弟、違った福音を持ち込むある種の人々。どれも違うように見えて同じ教会にいる。どこの教会にも入り込んでいる。その違いを見分けるものは何か?それが『福音の真理』。パウロはそれを丁寧に証ししたのです。そして『重だった人たち』はそれをはっきり認めたのです(割礼も福音の真理も、パウロはこの手紙で後に詳しく触れていきます)。

互いの役割を果たすために用いられる 7-9節

ペテロもパウロもお互い『福音の真理』に立つ者であると共に、「それぞれ役割が違う」ことも認め合うことができました。パウロだけに啓示と権威があるのではなく、神様が教会全体に一貫した啓示を与え、それぞれの役割に沿って権威を付与されている。ある教会に、有名な牧師が牧会しておられた有名な大教会から転会して来られた方がありました。事ある毎に「あの牧師はこうしていた。あの教会ではそうしていた。なぜあなたは、この教会はそうしないのか。そうすべきだ」と訴えに来られました。その方はその教会にとって大切な存在です。でもその方の言うことだけを聞き、そのようにするとしたら?そこにはもはや、神様の大きさも豊かさもユニークさも自由もありません。神様に権威がある。神様のお心はぶつからない。私たちはその一貫性と調和の中にある。数いる牧師も教会(兄弟姉妹)も、それぞれに違った役割がある。神様のお心と私たちの違いを理解しないと問題が起こる。私たち全体の目的は、自由の福音(の真理)をあらゆる人々に分かち合うこと。そのために、それぞれが神様から賜った恵みに従って違った分を果たす。そのために権威は用いられるのです。

その権威が独りよがりなものかそうでないか。以上の三つのプロセスを通してわかってきます。すぐにはわからないし時間はかかる。私たちは『福音の真理』にしっかりと立ち、権威を謙虚に用い、それぞれ果たすべき分を丁寧に果たし、あなたでしか届けられない所に、この教会でしか届けられない所に、自由の福音を分かち合ってまいりましょう。

3月8日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章11-14節から、「自由の福音の後退」と題してメッセージです。

幸い。主の言葉で確かになる

世の中には言葉が洪水のようにあふれています。その割にと言いましょうか、だからと言いましょうか、その言葉に対する責任が伴わないことがあるのではないでしょうか。言葉の発信者がわからず、真実か嘘か判断がつきにくい。人を傷つけ、死に至らせることもある。その言葉にどんな責任が伴うか、影響があるか考慮せず、吐き出し、忘れ去っている。今日の詩篇はまさにそんな「言葉」がテーマです。ということで2月23日(日)の礼拝は、詩篇第12篇1-8節から、「幸い。主の言葉で確かになる」と題してメッセージでした。

人の言葉に迷わされるな 3-4節

ダビデは先代のサウル王に『忠信な者』でした。しかし妬まれ、命狙われ、人々に密告され、ダビデを助ける者は殺され、ダビデの側近にも裏切る者が出ました。『神を敬う』はずのイスラエルにダビデの安住の地はなく、誰も信用できず、気が狂いそうになりました。ダビデを追い込んだのはそんな人の言葉。『へつらい』とは「なめらかな」、『大きなことを語る舌』は「傲慢」を意味します。言葉が上手い。人を惹きつける。それはあくまで手段。その心は『ふたごころ』。裏がある。傲慢が隠れている。『主人』とは神様を「主」と呼ぶ時に使う言葉。「誰が俺たちの主なんだ?神なんだ?そんなものはいない。俺たちは言いたいように言い、やりたいようにやるだけだ」と、そういう人々が豪語する。ダビデは主に叫びます。『卑しい事が人の子のなかにあがめられている時、悪しき者はいたる所でほしいままに歩いています』。昔も今も変わらないのではないでしょうか。最初、みんな驚喜歓迎し、讃え、ついていく。でも段々、使役、虐げ、搾取が広がっていく。反対する者、おかしいと声を上げる者が消されていく。歓喜が恐怖に変わり果てる。最後にはその組織全体が崩壊する。それは国家とは限りません。身近な関係の中で、様々な形で繰り返されている。アダムとエバに話しかけたへびが、巧妙に事実と嘘をすり替えて、彼らから大切なものを奪い去ったことを思い出すべきではないでしょうか。

主の言葉で確かになれ 1,5-6節

『主よ、お助けください』。ダビデは開口一番叫びます。この『主』は先ほどの「主人」ではなく、神様の名前を表す言葉です。ダビデの主は神様。そして主の言葉を求めました。ダビデはなお叫びます。『「困窮者たちへの乱暴のゆえに、貧者たちの呻きのゆえに、いま、わたしは立ち上がる」と、ヤハウェが言って下さい。「わたしが救いに入れる、彼の証拠人として」と』(岩波訳)。面白いと思いません?「神様!こんな風に言って下さい!」と要求している。幼い子が「お母さん!僕を好きだと言ってちょうだい!」とお願いしているようなもの。母親は子に言われなくても子を愛している。でも子は要求する。それはわがままではありません。当然の要求。そして母親が「大好きよ」と言ってギュッと抱きしめる。その愛は子に伝わり、子は安心する。母親の思いと子の要求が、そこで見える形になるのです。神様とダビデ、神様と私たちも同じ。私が祈る。神様が応える。宣言、実行、形になる。神様の言葉は一度発せられると、たとえ火の中、水の中、全くブレずに、どんな時代や国や思想をも貫き凌駕し輝くのです。まさに『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のよう』。やがて世は火によって終わりを迎えます。しかし主の言葉は火によってますます輝く。信頼する者を固く保ち、永遠の安全地帯まで持ち運ぶ!弱く虐げられやすい私たちが確かにあり続けるのです。

幸い。主の言葉で確かになる。私も半世紀、主の数々の言葉で保たれてきました。しかし「こういう時にはこういう聖書の言葉」というようなお決まりの言葉はありません。聖書はそんな美味しいとこどりの格言集ではありません。神様に祈りつつ聖書に聞き続ける中で、その時々にふさわしい語りかけがあるのです。世の中の言葉も大切です。でもそれだけで答えを急がない。丁寧に聞きつつ振りまわされない。まずは、そして常に、主の言葉に立ち帰りましょう。主の言葉は埋もれない。なくならない。確かにあってますます輝きます。私たちを永遠に確かにするのは主の言葉です。

3月1日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第2章1-10節から、「自由の福音の権威」と題してメッセージです。

あなたは何に支配されているか

「支配」にどんなイメージがあるでしょうか。弱い者を力でねじ伏せ、何もかも奪い取ってしまう。そんなネガティブイメージがあったりもします。そんなネガティブイメージの支配は、実は身近で様々な人間関係の中に、巧妙な形や姿で入り込み、問題を起こしています。それは昔も今も変わりません。マルコによる福音書は『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』で始まりました。この『はじめ』は「支配」という言葉です。イエス様の福音の支配がどんなものかをマルコは綴っていきます。そして今日の箇所も支配のお話し。ということで、2月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章20節〜30節から、「あなたは誰に支配されているか」という題でメッセージでした。

取り押さえようとする身内

イエス様は忙しくなりました。そこで弟子たちを選ばれました。さらに働きは拡大しますます忙しくなりました。そんなイエス様の噂を聞いて『身内の者たち』がやってきました。イエス様の母や弟や妹たちです。イエス様の手助けをするために来たのではありません。『気が狂ったと思ったから』『取り押さえに』来ました。『取り押さえ』とは「支配する」という言葉。そして「気が狂う」とは「正常な位置から外れる」という意味。「母さん!兄さんやばいよ。騒ぎが大きくならないうちに連れ戻そう!」兄は正常じゃない!俺たちこそ正常だ!いえ。彼らは世間体を気にしました。イエス様の働きを自分の目で確かめることなしに、自分たちの常識の中に取り戻し、支配しようとしました。自分たちのメンツと安心のためです。「ああしなさい、こうしなさい。こうあるべきだ。あなたのために言ってあげている」。善意のようで実は自分の常識の範囲に収め、自分が安心するため。私たちにもそんなことがないか?

批判する他人

『エルサレムから下ってきた律法学者』がイエス様を批判しました。悪霊を追い出し、人をいやし解放することは良いことです。「悪霊から解放されて良かったね!イエス、君は若いのに良いことをしているね、ありがとう」と喜べるはずです。しかし。『彼(イエス)はベルゼブルにとりつかれている』『悪霊のかしらによって、悪霊どもを追い出している』と批判する。ベルゼブルとは当時、サタンを指す言葉であり、「住まいの主」という意味もありました。とにかく。悪霊さんたちが身内で猿芝居をしているだけだと言うのです。律法学者は支配者でした。自分たちが築き上げた常識・秩序・テリトリーが、突然登場した得体の知れない若造に壊されていく。良いことが行われていても喜べない。自分にできないから、自分にはないから、自分が支配できないから嫉妬する、陰口を言う、口撃する。それでいて自分のするべき事をしない。足を引っ張るようなことをする。殺意さえ抱く。私たちにもそんなことがないか?

自分は何に支配されているか

イエス様は律法学者を『呼び寄せて』、身内が争うなら自滅するだけだということを、サタンや国や家族を例に話されました。「お家騒動」なんて言葉があります。国という大きな「お家」から家庭という個人的な「お家」まで、今も様々な問題で揺れています。イエス様は「家に押し入る強盗」のたとえ話もされました。家の中で一番強い人を縛り上げなければ家財を奪い取ることはできない。話の流れ上、この『強い人』はベルゼブル「住まいの主」と重なります。ではベルゼブルを縛り上げるのはイエス様?ではイエス様が家財を奪い取る?家は私たち。その心を何が支配しているか?自分?悪霊?律法学者のような第三者?プライド?トラウマ?お金?嗜好品?ドラッグやギャンブル?自分が支配していると思っていても、いつの間にか自分でないものが、入れ替わり立ち替わり支配していないか?そして自分にとって本当に大切なものを奪われ、失っていないか?

律法学者は『聖霊』を『けがれた霊』呼ばわりしました。イエス様は彼らに『よく(アーメン)言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる』と言われました。優しい?確かにイエス様はそのために十字架にかかられるのです。しかし『聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる』と言われます。優しくない?聖霊は神様とイエス様と私たちをつなげる窓口です。聖霊なくして私たちの信仰告白も洗礼による神の子としての誕生もありません。聖霊を否定することは罪の赦しも救いも断固拒否しているも同じ。永遠に自らを罪に定めているのです。イエス様は律法学者を弟子たちと同じように『呼び寄せ』られました。でも彼らは従わなかった。人が解放され癒されることを喜ばなかった。指一本手助けしようとしなかった。彼らこそ、その心を支配していたものは何だったのか?

イエス様は奪うために来られたのではありません。取り戻すために来られました。様々なものに支配され、心奪われ、我を失っている私たちを。私たちが本来の自分を取り戻し回復し成長するために「支えて」下さいます。そのために必要な恵みを「配って」下さいます。それがイエス様の「支配」。寄り添い励まし力づけ、あなたがあなたらしく立ち上がれるようにして下さるのです。

2月23日(日)の礼拝は、詩篇第12篇1-8節から、「幸い。主の言葉で確かになる」と題して、メッセージです。

幸い。主に寄り頼む

この世界や私たちの身近な生活に「科学的」な光が当てられるようになりました。「廃れてしまった伝統的な生活習慣に大切な意味や効果があることがわかった」とか「みんなが良かれと思ってやっていることに意味はなかった」とか。「科学的」と言われるだけで信じてしまう。そして「昨日の非常識は今日の常識」「今日の常識は明日の非常識」と言われるほど目まぐるしく変化します。それは「科学的」な面だけではありません。教科書だって塗り替えられることはよくあることです。私たちはそんな心許ない常識に振りまわされていないか?そんな問いかけをしているのが今日の聖書。ということで、2月9日(日)の礼拝は、詩篇第11篇1-7節から、「幸い。主に寄り頼む」と題してメッセージでした。

誰に寄り頼むか 1-3節

この詩はダビデの危機的状況を背景にしているようです。先代サウル王には悩まされました。サウルは神様に選ばれた器でしたが、やがて心は神様から遠く離れました。ダビデの命を狙い、刺客を遣わし、人々に密告を促しました。しかしダビデはサウルに忍耐強く仕えようとします。そんなダビデを見かねて助言する人々があったようです。1-3節を口語訳的にわかりやすく言うと「ダビデというよりどころ、指導者を失ったら、正しい人々はどうすればいい?だから今は逃げるんだ」。しかしこれはこうも訳せます。「悪しき者によって社会秩序や世の常識がひっくり返っているのに、あなたに何ができる?逃げるしかないよ」。私たちはどうか?命狙われる危機的状況はないかもしれません。でも世の中の常識に流されていないか?「聖書にはこう書いてあるが世の中はそれを否定している」「聖書にはそれは罪だと書いてあるがみんな普通にやっている」「聖書には天地創造や奇跡が記されるが、非科学的なお伽噺の世界だと相手にされない」。自分がクリスチャンだと言えば何を言われるかわからない。返答できない。信仰のことは大切に胸にしまって適当に周りに合わせておこう。

私たちは主に寄り頼む 4-6節

ダビデは言います。『わたしは主により頼む』。人々はダビデこそ「基」「よりどころ」だと思っていた。しかしダビデは主こそ「基」「よりどころ」だと告白します。ここに『人の子ら』とありますが「アダム(土)」という言葉です。今までの「エノス(弱い)」とは別の言葉。主に向かず聞かず従わなくなったアダムの末裔。世の秩序・常識で覆われた人の子たち。神様はそんな人々を『みそなわし』ておられる。これは「見る」「行う」の二つの意味を持つ言葉。神様は何を見て何をされるのか?6節はこう訳せます。『主は悪しき者の上に鳥網を下ろす。火と硫黄と風は彼らの受けるべき杯だ』(口語訳以外)。ダビデを心配する人々は「あなたが鳥のように狩人に狙われているから山へ逃げよ」と言いました。しかしダビデは「私をつけ狙う者こそ、神様に鳥のように捕らえられ、相応の報いを受けさばかれる」と言うのです。私たちは、神様や聖書や信仰を嘲笑う人々を恐れる必要はありません。世の中が私たちに牙をむいても、それはやがて消え去る「アダム(土)の子ら」に過ぎない。私たちはダビデと同じく、全てを見ておられ、最終的かつ決定的にさばかれる主を「基」「よりどころ」とするのです。

主を仰ぎ見るに至る 7節

『主は正しくいまして、正しい事を愛されるからである。直き者は主のみ顔を仰ぎ見るであろう』。2節にも『直き者』とあります。主にまっすぐな者です。悪しき者に命狙われもしますが、この『直き者』こそ『主のみ顔を仰ぎ見る』に至ります。主の顔を見るとは救いを意味します。『仰ぎ見る』は『みそなわし』と同じ言葉です。私たちが主にまっすぐであり続けるなら、神様は私たちを見て、最終的かつ決定的に救われるのです。キリスト教会はこの2千年間、その時代の常識や科学的・歴史的見解に忖度し、振りまわされてきました。もしくはそれらのものとは縁のない宗教の枠に自身を押し込めようとしてきました。神様も聖書も信仰もその下に。しかし私たちは主が「基」「よりどころ」。主に『直き者』まっすぐな者でありたい。主に丁寧に向いて聞いて従う者でありたい。そこにゆるぎない秩序や常識がある。土にかえって終わりではなく、永遠にまっすぐ主のみ顔を仰ぐのです。その時、私たちも主と共に、全てを「みそなわす」ことができる。これ以上の幸いはありません。

2月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章20-30節から、「あなたは何に支配されているか」と題してメッセージです。


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