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すべてが終った

2024年3月24日(日)

今日から受難週に入ります。この日、群衆に歓迎されてエルサレムに入られたイエス様でしたが、金曜日には十字架におかかりになります。十字架上で語られたイエス様の言葉に心を向けて、私たちも心のうちに十字架を目撃したいと思います。3月24日の礼拝は、ヨハネの福音書19.28-42から「すべてが終った」と題してメッセージです。

すべてが終った

 新改訳では「完了した」、別の訳では「すべてが終った」と訳されているこの言葉は、完成、達成したときに使われます。

イエス様が完了してくださったのは、私たちが永遠のいのちを持つためのすべてのことです。イエス様は父なる神を解き明かすお方として来られ、バプテスマのヨハネはイエス様を「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。イエス様は自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うために来たと言っています。イエス様は父なる神様のみこころを完全に行い、私たちが永遠のいのちを持つためのすべてを完成、完了してくださったのです。

わたしは渇く

イエス様はすべてのことが完了したのを知ると「わたしは渇く」と言われました。これも聖書(詩篇)の預言ですが、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」言われたイエス様が渇きをおぼえられたのです。確かにこのときイエス様の肉体は限界を迎えていましたが、この渇きは父なる神様との関係におけるものです。これが十字架であり、罪の恐ろしさなのです。

イエス様は到底私たち自身ではどうすることもできない罪とそこから来る死を一身に引き受けてくださいました。この救いは完成したので、何も付け足さなくてよいのです。

二人の弟子

十字架を目撃した二人の弟子がイエス様の遺体の引き取りを願い出ます。アリマタヤのヨセフとニコデモです。かつて彼らかはその立場上、隠れるようにしてイエス様に近づきましたが、ここでは大胆に近づいています。

イエス様の十字架は罪を教え、こんな自分も愛され、赦されていることを教え、共に十字架を負う者となるよう今も私たちを導いています。

3月31日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書20.19-29から「復活が与えたもの」と題してメッセージです。

息子たちの名を担う祭司

2024年3月17日(日)

神様がイスラエルの民のただ中に住まれる幕屋には仕えるために特別に選ばれた人たちがいました。それが祭司です。聖書には祭司が何をするかよりも先に、祭司が着るべき服について教えられています。この服の意味とは何でしょうか。3月17日の礼拝は、出エジプト記28.1-43から「息子たちの名を担う祭司」と題してメッセージです。

神様に仕えるための服

 幕屋で神様に仕えるために、どのような服でも、普段着でもいいじゃないかと思うかもしれません。しかし、特定の職業にはふさわしい制服があるように、エジプトの手からイスラエルを救い出し、海を分け、荒野でマナを降らせる神様に仕える服があるのです。豪華な衣装ですが、決して人に見せるためではなく「わたしに仕えるため」の服なので、神様の知恵の霊に満たされた人によって作られます。大祭司も祭司もこの服を着ることなしに祭壇に近づくことはできませんでした。もし誤って着ずに近づけば打たれるほどのものでした。

イスラエルの名を担う服

大祭司の服には特徴があります。それはエポデの肩当てとさばきの胸当てにイスラエル十二部族の名前が記されていることです。大祭司がこの服を着て仕えるとき、神様がイスラエルを心に留め顧みてくださるためです。大祭司はイスラエルのために神に祈り、イスラエルに神様の言葉とみこころを伝える役割がありました。こうした大祭司の働きによってイスラエルの人たちは、聖なる力ある神様を知り、神様と共に、神様のために生きることを学んだのです。

大祭司イエス

大祭司がいるのはイスラエルだけではありません。聖書は私たちにも大祭司がいると教えています。それがイエス・キリストです。復活されたイエス様は今も生きて、天において私たちのためにとりなし祈っていてくださいます。もし私たちが不十分だと思ったとしても、神様が私たちを見捨てることはありません。イエス様が祈っておられるからです。私たちの弱さに同情し、気持ちを分かってくださる大祭司は、信仰がなくならないようにと、これまでも、これからも祈っていてくださいます。大祭司の祈りに感謝するとともに、私たちもまた大祭司イエス様のとりなしの祈りに心を合わせたいと思います。

3月24日(日)の礼拝は、ヨハネの福音書19.28-42から「すべてが終った」と題してメッセージです。

祭壇を作る

2024年3月10日(日)

神様を礼拝するために、今は教会の玄関を通るだけですが、モーセの時代には通らなければならないところ、しなければならないことがありました。今日も幕屋を通して神様に近づくことのできる恵みをおぼえたいと思います。3月10日の礼拝は、出エジプト記27.1-21から「祭壇を作る」と題してメッセージです。

神様により高価なものをささげる

 「神様が人のただ中に住まれる。」このことは、創世記から黙示録まで貫かれている壮大なメッセージであり、神様の恵みです。神様がイスラエルのただ中に住むための幕屋が、25章から神様のことばが記されたあかしの箱に始まり、さまざまな備品や設計が語られてきました。27章では、祭壇、幕屋の庭の大きさが描かれ、ともしびのために上質のオリーブ油を使うように命じられています。より至聖所に近い方は高価なものを使用するよう命じられ、イスラエルを救う神様の素晴らしさ、きよさを表しています。

祭壇を通る

25章からこれまで、至聖所から段々と外側に向かうように作り方が教えられました。それは至聖所こそ神様が人と会い、語られるところ、幕屋の中心だからです。しかし、実際に人が入っていくとき目にするものはその逆です。つまり、門から入ると祭壇があり、そして一番奥に至聖所があるのです。祭壇を通ることなしに、幕屋に近づくことはできないようになっているのです。

いけにえを携える

詳しくはレビ記にありますが、祭壇ではいけにえの動物をささげます。傷のない動物に手をおき、その動物がささげられ燃やされることによって、その人の罪が赦されたことを意味します。それを毎度毎度しなければなりません。現代の私たちからすると残酷なように思えますが、神様を礼拝するためにはこれほどのことをしなければならないほど、神様はきよく、私たちは罪深い者であり、神様から遠く離れて生きていることを教えているのです。

神様が与えてくださった恵みは、このいけにえとしてイエス様が傷のない神の小羊としてささげられたということです。今や私たちは何の儀式もなく、自分の血を流すこともなく、神様の御前で礼拝をささげる幸いを得ているのです。

3月17日(日)の礼拝は、出エジプト記28.1-43から「息子たちの名を担う祭司」と題してメッセージです。

つなぎ合わされた幕屋

2024年3月3日(日)

神様がイスラエルのただ中に住むために造ることを命じられた幕屋について、25章のあかしの箱や机、燭台に続いて、26章ではその幕屋本体の設計図が記されています。なかなかイメージするのが難しい箇所ですが、神様が住まわれる幕屋はどのような造りなのでしょうか。3月3日の礼拝は、出エジプト記26.1-37から「つなぎ合わされた幕屋」と題してメッセージです。

幕屋を造らなければならない

 幕屋は十枚の幕で造るよう命じられます。幕屋に使用される糸やデザイン、寸法も指定されています。幕の長さが28キュビト、とありますので、会堂かそれよりも少し長い大きさとなっています。それらは5枚ずつつなぎ合わされ、そのつなぎ合わせたものも金の留め金でつなぎ合わせて、幕屋となります。

その幕屋をやぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮の天幕で覆います。荒野という環境で、丈夫な素材が用いられていることがわかります。

さらにその幕屋の壁や柱は木で支えられます。幕屋の中には垂れ幕が掛けられ、そこにはあかしの箱が置かれて、至聖所と呼ばれます。机や燭台の置く位置も決まっていました。これを神様が示されたとおりに造り上げるのです。

幕屋は教会のモデル

幕屋は、神が人と共に住み、神が人に語り、人の罪の赦しがなされる場所としての意味がありました。この幕屋は来るべき救い主イエス・キリストを示しています。幕屋の一つ一つはイエス・キリストを示し、イエス・キリストによって完全に実現したからです。

さらに新約聖書では、幕屋は「私たち」であると語られます。クリスチャン一人一人が御霊の住む神の宮ですが、その集まっている「私たち」の間に神は住むと言われているからです。幕屋は私たちの姿、教会の姿でもあるのです。

つなぎ合わされた幕屋

そう幕屋を見てみると、幕屋はつなぎ合わされていました。私たちもイエス様によってつなぎ合わされました。また色んな材料が用いられ、それぞれの役割があるように、私たちにもいろいろな人がおり、賜物があり、経験や奉仕があります。その造り主は神様であり、自分たちの好きなように造ってよいのではありません。このような教会を私たちも示されて造り上げていきましょう。

3月10日(日)の礼拝は、出エジプト記27.1-21から「祭壇を作る」と題してメッセージです。

あなたはわたしの愛する子

2024年2月25日(日)

ルカの福音書3章前半で、「主の道を用意せよ」とバプテスマのヨハネは人々に救い主が来られる心の備えを促しましたが、後半ではいよいよイエス様が登場し、ヨハネからバプテスマをお受けになります。イエス様の公生涯が始まっていくのですが、その始まりはどういうものだったのでしょうか。2月25日の礼拝は、ルカの福音書3.21-38から「あなたはわたしの愛する子」と題してメッセージです。

罪人の一人と数えられる

 このときヨハネが授けていたバプテスマをルカは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」と書いています。それをイエス様も受けたということは、イエス様にも罪があり悔い改めが必要だったということでしょうか。

イエス様は罪は犯されませんでしたが、罪人の友と呼ばれることはありました。最後は犯罪人の一人として、二人の犯罪人に囲まれて十字架にかかられました。もし罪人に近づかず関わってくださらなかったら、私たちは赦されることも愛されることも知らず、救われることもありませんでした。なんと呼ばれようと、どう見られようとイエス様は私たちと一緒にいてくださるお方です。イエス様は私たちと共にいるために、私たちを知るために罪人である私たちと「同じ」になってくださったのです。

天からの声を聴く

イエス様がバプテスマを受けて祈っておられると天から「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という声がします。神様ご自身が、罪人の一人と数えられるように歩んでくださるイエス様をわたしの子と呼び、救い主の働きに就かせ、その歩みを支えると宣言しておられるのです。イエス様はこの声を祈りの中でいつも聴きながら、救いのみわざを全うしてくださったのです。神様のこのような声が聞こえていますか。

神の子である

「あなたはわたしの愛する子」との神様の声のあとに、ルカは系図を記し、イエス様が人の子として生まれ育つも、神の子であると言います。人の子として私たちの弱さや心配を知っていてくださり、神の子として私たちには考えもつかないみわざをなしてくださる。私たちはイエス様を仰ぎ、従い続けます。

3月3日(日)の礼拝は、出エジプト記26.1-37から「つなぎ合わされた幕屋」と題してメッセージです。

聖霊と火のバプテスマ

2024年2月18日(日)

「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、…」イエス様がお生まれになってからおよそ30年が経った頃、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨」み、いよいよイエス様のお働きが進んでいきます。2月18日の礼拝は、ルカの福音書3.1-20から「聖霊と火のバプテスマ」と題してメッセージです。

主の道を用意する

 神様のことばを受けたザカリヤの子ヨハネは、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えます。これはイザヤ書に、主の道を用意せよと荒野で叫ぶ者の声がする、とある通りでした。主の道を用意するとは、実際の道路の話ではなく、救い主を迎えようとする私たちの心について語っています。救い主が来られる。しかし私たちの心は神様よりも自分に向けられています。自分のことは棚にあげて人のことをあれこれ言ってしまうこと、優しくなれないこと、人の言葉を恐れ、傷つき、ゆるせないこと、神様への信頼よりも不安や不満が多いこと。その心はまさに荒野のようで、まっすぐではないのです。ヨハネはそのことに気づかせ、認めることを迫りました。私たちの心はどうでしょうか。

悔い改めにふさわしい実を結ぶ

しかしそれは「あなたはダメだ」とさばくためではありません。そういう者にこそ神様の救いがあるのです。けれども当時は心からではなく、形式的な悔い改めのパフォーマンスとしてバプテスマを受ける人もいました。ヨハネは本当に神様に心を向けているのなら、悔い改めにふさわしい実を結ぶよう教えます。私たちは今、神様に出会い、神様に愛され、神様とともに歩む者として、どのような実を結んでいるでしょうか。

キリストを示す

こうしたヨハネのメッセージに人々はこの人こそメシアかと考えますが、ヨハネは自分がメシアの履き物のひもを解く資格もなく、メシアとは水ではなく聖霊と火のバプテスマを授け、麦と殻を分ける裁き主であることを教えます。そして使徒の働きにおいて、イエス様は聖霊と火のバプテスマを授けられました。今に至るまで聖霊に浸された人々によって主の働きは前進しています。

受難節、神様に心を向ける悔い改めをささげることができますように、午後の教会総会に聖霊の導きを求め、イエス様を指し示す教会でありますように。

2月25日(日)の礼拝は、ルカの福音書3.21-38から「あなたはわたしの愛する子」と題してメッセージです。

神と人とにいつくしまれて

2024年2月11日(日)

皆さんは子ども時代、どんなお子さんだったでしょうか。私は自分を振り返るとかわいげのない子どもだっただろうと思います。ではイエス様はどうだったのでしょうか。ここには唯一、イエス様が赤ちゃんでもない、大人でもない、少年時代のイエス様が記録されています。2月11日の礼拝は、ルカの福音書2.41-52から「神と人とにいつくしまれて」と題してメッセージです。

理解できないことを心に留める

 イエス様の家族は毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムへ上っていたようですが、イエス様が12歳のとき事件が起こります。それは祭りが終わった帰り道、イエス様の姿が見当たらなくなったことです。両親はエルサレムへ引き返すこと三日、ようやく神殿で教師たちと話すイエス様を見つけます。心配したという母マリアに対し、イエス様は「自分の父の家にいるのは当然」だと答えます。この答えを両親は理解できませんでしたが、マリアはこれらの出来事を心に留めていました。今は理解できないことも心に留める。忙しくて忘れたり、短絡的な答えに納得しないで、神様が教えてくださることを待ち望むのです。

座って、話を聞いたり質問したり

実はイエス様の返事は神殿を父の家と呼んでおり、ご自分が神のひとり子であり救い主あることを言い表していました。そんなイエス様は神殿で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていました。神であられるにもかかわらず、教師に学び、教師の理解を促し、対話をされるイエス様の姿があります。決して一方的に話したり、教えたりする様子がここにはありません。

いるべきところで仕える

また両親と合流した後は一緒に家に帰り、その後両親に仕えられました。仕えることは私たちはあまり好きではないと思います。自分の欲に反するからです。しかしここでもイエス様は神であられるにもかかわらずお仕えになりました。「神と人とにいつくしまれ」たイエス様は、このように人に学び、対話し、両親に仕えながら成長していかれました。私たちもイエス様のこうした姿に学び、願い、助け主なる聖霊により頼みたいと思います。

私たち一人ひとり、今週も置かれたそのところで、神と人とにいつくしまれる歩みをすることができますように、仕える者として下さい。

2月18日(日)の礼拝は、ルカの福音書3.1-20から「聖霊と火のバプテスマ」と題してメッセージです。

わが生涯に一片の悔いなし

2024年2月4日(日)

2024年を迎えて一カ月が経ちました。1月1日の能登地震、また2日の飛行機事故と悲しいニュースは、「死」というものを意識させました。聖書には「主よ。今こそしもべを安らかに去らせてくださいます。」と告白したシメオンが登場します。2月4日の礼拝は、ルカの福音書2.21-40から「わが生涯に一片の悔いなし」と題してメッセージです。

待ち望む人生

 シメオンについて分かることは、正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望み、聖霊が彼の上におられた、ということです。神を信じるシメオンは、イスラエルをローマから解放してくれる救い主を長い間待ち望んでいました。現状に妥協するのでもなく、諦めるのでもなく、ひたすらに神様のみこころを来る日も来る日も祈り続けるシメオンに、神様は「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と答えてくださいます。シメオンの後の告白はこの長い忍耐の先に与えられました。

今こそ安らかに

赤ちゃんイエス様が律法の慣習にしたがって両親と神殿に来られたとき、聖霊はシメオンをイエス様のもとへ導きます。まだ何もできない赤ちゃんにもかかわらず、シメオンは聖霊によってその子が「万民の前に備えられた救い」であり、その救いは受難によるものであることを預言します。そのようにして主はイスラエルを慰めてくださると、万民を救ってくださることを赤ちゃんイエス様にシメオンは「見た」のです。シメオンは確信をもって、平安のうちに「今こそ安らかに去らせて」くださると言いました。救いを見た、だから安らかに生きることも死ぬこともできると言うことができたのです。

幼子のことを語る

女預言者アンナも高齢で、宮を離れず、断食と祈りをもって夜も昼も神に仕えていました。彼女もまた赤ちゃんイエス様に近づき、エルサレムの贖いを待ち望んでいた人々にイエス様のことを語ります。宮を離れず夜も昼も神に仕えていたアンナは聖書からイエス様を語ったのではないでしょうか。

私たちはすでに救いであるイエス様を知り、信じ、また読んでいます。安らかに生きることもでき、死ぬこともできる救いを受け取っていますか。

2月11日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.41-52から「神と人とにいつくしまれ」と題してメッセージです。

積極的な心で

2024年1月28日(日)

出エジプト記25章は、なかなかイメージしにくく、それでいてその細かさに戸惑うかもしれません。ここからは「幕屋と幕屋のすべての備品」についての設計図が記され、出エジプト記でも多くのページが割かれています。それはなぜかというと、幕屋というものがまさに「神が彼らのただ中に住む」ことを表すものだからです。1月28日の礼拝は、出エジプト記25.1-40から「積極的な心で」と題してメッセージです。

まず、最初に作るもの

 「幕屋とそのすべての部品」の中でまず、作るように命じられているものは何でしょうか。それはアカシヤ材の箱と宥めのふたです。ふつうの家などの建築物と違って、建物からではありません。この箱と宥めのふたを幕屋の中心として話が進められていきます。これこそ幕屋で一番大切なもの。神様がただ中に住んでおられることを示す「さとしの板」が納められるからです。そして神様が民のただ中に住むのは、「語る」ためでした。私たちは神様が共におられると言うときに、神様の語られる声をどれほど意識しているでしょうか。神様は私たちのただ中にいて、語ってくださるのです!

机と燭台

次に、先ほどの箱より少し小さい机を作ります。ここには臨在のパンを備えます。神様がイスラエルの民をマナをもって養い続けてくださったことをおぼえるのです。燭台には七つのともしび皿があり、幕屋の中を照らします。中で仕える祭司は、神様ご自身が光であると同時に、神様に照らしていただかなければまっすぐ歩くこともできないことを教えられたのではないでしょうか。箱も、机も、燭台も金でおおわれており、神様を指し示しています。これらを通して神様に出会い、神様を礼拝していくのです。

積極的な心で

これらを作るのにはそれなりの材料が必要です。神様はそれらを進んで献げる心のある人から、受け取るよう命じています。イスラエルの民はあり余るほど献げますが、これらはエジプトを出るときに持って来たものでした。主は私たちがささげようもないものを求めてはおられない。この年、積極的な心で、与えられた思いに応じて神様にお仕えすることができますように。

2月4日(日)の礼拝は、ルカの福音書2.21-40から「わが生涯に一片の悔いなし」と題してメッセージです。

神様との契約

2024年1月21日(日)

契約というと、身近なものとしては雇用契約や賃貸契約があると思います。誰が誰とどのような条件で何をするのか、また不履行の場合の定めについて取り扱っています。この出エジプト記24章にも神様がイスラエルと契約を結んだことが記されています。1月21日の礼拝は、出エジプト記24.1-18から「神様との契約」と題してメッセージです。

神様と契約を結ぶ

 十戒、また契約の書にある定めを受けて、イスラエルの人たちは神様の声に聞き従い、神様の宝とされることに満場一致で同意しました。モーセは主のすべてのことばを書き記し、祭壇を築き、ささげ物をもって契約の手続きに入ります。このとき、祭壇とイスラエルの民に血が振りかけられました。この血は命を意味します。イスラエルの民が命を懸けて主の声に聞き従うことを意味すると同時に、神様もまたどんなことがあってもイスラエルをご自分の宝として扱うことを意味します。ご自分を「イスラエルの神」と呼び続けられることに神様の愛を感じずにはおれません。

契約を結んだイスラエルの人たち

では神様と契約を結んだイスラエルの人たちは何か変わったのでしょうか。急に聖人のように変えられたのでしょうか。このあとモーセは主に呼ばれて、四十日四十夜を山で過ごします。大切な幕屋に関することが25章から続くのですが、32章では一向に山から下りて来ないモーセにしびれをきらすイスラエルの民の姿が描かれます。契約を結んでも民は変わりませんでした。

契約を結ばれた神様

変わったもの、それは神様との交わりです。24章1節で神様はモーセらを呼びますが、モーセ以外近づくことはできないと言われます。19章でも神様に決して近づくことのできない様子が描かれていました。しかしこの契約の後、9節でモーセらは山にのぼり、神様を見ます。そして飲み食いしたけれども神様は手を下されなかったのです。これまで決して持つことのできなかった交わりが与えられました。決して近づくことができなかったのに神様を見たのです。今や私たちは動物の血ではなく、イエス様の血が振りかけられ、神様との交わりが与えられています。交わりを喜び、満たされて今週も過ごしましょう。

1月28日(日)の礼拝は、出エジプト記25.1-40から「積極的な心で」と題してメッセージです。


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