カテゴリー

私たちはイエス様の弟子

3年ほど前、教会の倉庫を整理しているとホーア先生のネガフィルムのアルバムが出てきました。約90年前から70年前の300点ほどのネガフィルム。そこには八重先生をはじめとする若い働き人が何人も写っています。ホーア先生は1人ではなく、そういった若者たちと共に東京、大阪、京都で福音を宣べ伝えました。八重先生たちはホーア先生の弟子に見えます。しかし年齢や世代に差はあれど、イエス様の同じ弟子。そしてお二人の信仰と働きを受け継いでいる私たちもイエス様の弟子なのです。ということで、1月12日(日)のホーア師&八重師記念礼拝は、マルコによる福音書第3章13-19節から、「私たちはイエス様の弟子」と題してメッセージでした。イエス様の弟子とは、

イエス様に応答する人たちです 13-14節

イエス様の働きとうわさは広大な地域に広がりました。病気や汚れを癒やしてほしい人々が、悪霊を追い出してほしい人々が殺到するようになりました。寝食の暇もないほどです。イエス様も人々も押しつぶされないよう、イエス様が一時小舟に避難しなければならないほどでした。それでもイエス様は来る者を拒まず癒し続けられました。これ以上どうするの?物理的に手が回らない!そこで今回のお話しとなります。イエス様は『みこころにかなった者たち』を呼び寄せられ、その招きに応答した人たちの中から「12人」(12弟子)を選ばれました。ですから弟子は12人とは限りません。後にわかることですが女性もありました。ここで肝心なのは、これらの人々が、イエス様の招きに自発的に応答し、山にいるイエス様の『みもとにきた』ということです。何の強制もありません。この礼拝に集まった私たちも同じです。ここに、主の前に、自発的に集まっているのです。

イエス様と共にいる人たちです 14-15節

イエス様が『みこころにかなった者たち』を招かれた目的は、『自分のそばに置くため』、『宣教につかわ』すため、『悪霊を追い出す権威を持たせるため』でした。イエス様の懐に離れずに置いて、イエス様の日常を見させ、触れさせ、体験させるため。そして『神の子イエス・キリストの福音』の目撃者として、体験者として、伝令として派遣するため。さらには神の『権威』を授け、イエス様と同じわざを行わせるためでした。すごくない?口や生活でイエス様を伝えるだけではなく、イエス様と同じ権威あるわざも行うのです。ここで肝心なのは、イエス様と共にい続けるということです。でも口で言うのも難しい?権威あるわざなんて無理?そもそも「みこころにかなっている」とは思えない?そもそも「みこころにかな」っているとはどういうことか?

イエス様のみこころにかなった人たちです 16-19節

ここに12人の名前があります。他の聖書箇所や伝承などから、この人々の人となりがわかりますが、どうですか?生まれ育ちも良く、高学歴で、社会的地位もあり、ジェントルでスマートでパーフェクトな人たちか?意外に兄弟や友人や親戚関係が多かったりします。肉体労働者、血の気の多い人、体制側の人、反体制側の人、罪人扱いされている人、裏切る人。実にバラエティ。裏切ったのはイスカリオテのユダだけではありません。後にみんなイエス様を裏切りました。この人たちのどこが「みこころにかなっている」のか?「みこころにかなう」とは「その存在を喜ぶ」という言葉です。イエス様はペテロという存在を、取税人マタイという存在を、熱心党のシモンという存在を、イスカリオテのユダという存在を、喜んで招かれた。彼らの過去がどうであろうと、未来がどうであろうと、今この時、一人一人の存在を喜んで招かれたのです。

私たちも同じ。誰が裏切らないと断言できますか?誰がジェントルでスマートでパーフェクトでいられますか?それが入門基準なら誰も弟子になれない。一癖も二癖もある。罪も汚れも弱さも失敗も裏切る可能性もある。そんな私たち。でもイエス様は愛し喜び招いておられる。「私の元へおいで。私によく聞き、私をよく見て、やってみるんだ。君は私が造った。だから私に学ぶ時、君は君でいられる。そして私の与えた力を発揮できる」。ホーア先生と八重先生は他の若い働き人と共に、イエス様の弟子として、協力し手分けしてイエス様の福音を伝えました。私たちもイエス様の同じ弟子。ここに集まっていることがその証し。みんなで協力し手分けし賜物を用いて、イエス様のわざを広げていくのです。

1月19日(日)の礼拝は、詩篇第9篇1-20節から、「幸い。シンクロされる神様」と題してメッセージです。

若者にすぎないと言うな

今年、成人式を迎える方々が教会にあることを感謝します。青年のために祝福をお祈りいたします。それと共にここにおられる全員が今一番若い時。共々に祝福をお祈りいたします。今日は若くして預言者活動を始めたエレミヤを通し、私たちの歩みの確かさを教えられたい。ということで、1月5日(日)の青年祝福礼拝は、エレミヤ書第1章1-19節から、「若者にすぎないと言うな」と題してメッセージでした。

主があなたを選んでおられる 1-7節

エレミヤはアナトテという町に生まれました。レビ族の町。祭司の息子。エレミヤが神様から預言者として召命を受けたのは20歳そこそこ。エレミヤは歴史が始まって以来、人々がいかに神様に背き、人間的な力を求め、神様に従う人を虐げ殺してきたか、その深い闇を小さな頃から学んでいました。ですから神様からお声がかかった時、とてもやないけどできません!と悲鳴を上げました。しかし神様は、エレミヤを母の胎に宿す前から預言者として立てたと言われるのです。私たちは偶然生まれたのでも、目的もなく生まれたのでもありません。神様が目的を持って創造されました。若いから老いたから、男だから女だから、学歴があるからないから、キャリアがあるからないからと、私たちは生まれた後のことを問題にしがちです。だからできない、だからできると言い訳します。でも神様は違う。「生まれる前からあなたをそう造った。生み出した。だからそのように生きられる」。私たちは神様の選びに、何はともあれ応答すれば良いのです。

主があなたを整えられる 8-17節

神様は『彼ら(の顔)を恐れてはならない』と2度繰り返されます。今まで繰り広げられてきたおどろおどろしい人間の歴史。そこに群雄割拠するパワハラ強面権力者たち。エレミヤはそんなお歴々の顔を思い浮かべて卒倒しそうでした。あんな人々に歯に衣着せぬことを言うなんてマジ無理!ここで神様は『あなたは何を見るか』と尋ねられます。エレミヤは見たままを答えます。すると神様はその見たものの意味を教えられます。そんなことを繰り返す。何をしているのか?エレミヤの預言者としての練習です。いきなり相手がぐうの音も出ないような力強い言葉を蕩々と語れと言われているのではない。簡単なところから少しずつ慣れさせておられる。神様は、その人にできないことを無理矢理させるお方ではありません。私ができるように造り、できる力を与え、私のペースに合わせてトレーニングして下さるのです。私たちは、人の顔や立ちはだかる問題に縮こまるのではなく、何はともあれ神様の顔に向いて、そのレッスンについていけば良いのです。

主があなたと共に全うされる 18-19節、10節

20歳そこそこの青年は、強面パワハラ権力者たちをスーパーパワーでなぎ倒すスーパーヒーローになったか?人々はエレミヤを拒絶し、にせ預言者呼ばわりしました。1日パン1個の軟禁状態にしたり、泥の入った穴に投げ込んだりしました。国は滅びましたがエレミヤは自分の土地に帰ることができました。他の人々はエジプトへ逃れ再起を図ろうとします。エレミヤは全滅すると警告しますが聞き入れず、エレミヤを道連れにしました。しかし。エレミヤの預言は全てその通りになった。大国バビロンやエジプトも預言通り滅びた。エレミヤという神の預言者を誰も攻め落とせなかった。彼の発した神の言葉に誰も勝てなかった。権力者も国も移り変わる中で彼と神の言葉は揺るがなかった。エレミヤは実に40年、預言者の働きを全うした。それは神様が共にいて下さったから。『わたしはあなたと共にいて、あなたを救うから』(8,19)。私たちが与えられた働きを全うし、永遠の救いに至れるのは、ひとえに神様が共にいて下さるから。私たちは、何はともあれ、共にいて下さる神様に従って、歩み続ければ良いのです。

神様の敷かれたレールは嫌だ!自分がやりたいようにやりたい!エレミヤみたいな悲惨な人生はごめんだ!と私は思ったことがあります。しかし小さな頃から聖書に愛着がありました。エレミヤが言うように『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました』(15:16)。ずっと支えてくれた。振り返れば自分がやりたいようにやってきました。それが今の肥やしになっている。エレミヤほどでないにせよ苦労も病もありました。それも今の肥やし。神様とその言葉と共にある時、そこに自由があり、私らしい働きがあり、最高に満足な私があるのです。若者にすぎないと言うな。年を取り過ぎたとも言うな。神様はあなたを最高の目的を持って創造し、最高のあなたとして導きたいのです。今この時が早すぎることも遅すぎることもありません。今与えられている思い、家庭、学び、仕事に、神様と共に丁寧に向き合い、今できる最善を尽くしましょう。神様は必ずあなたと共におられ、次に開けるべき扉や進むべき道を示して下さいます。

1月12日(日)はホーア師・八重師記念礼拝。マルコによる福音書第3章13-19節から、「私たちはイエス様の弟子」と題してメッセージです。

普段着の冒険者

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。主の年2020年も皆さんの上に、主の祝福があふれ、栄えあるみわざが現され、御名に栄光を帰する1年となりますようお祈りいたします。

さて。冒険者と聞いてどんな方々を思い起こすでしょうか。未知なる世界や体験を求めて、危険を顧みず出かけていく人。十分な準備を経てたくさんの人々の声援に送り出される人。前人未到の偉業を成し遂げ、賞賛を受け、歴史に名を残す人。いろんな冒険者を思い出します。しかし聖書は私たちみんなに冒険者であれと語ります。『あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得る』。これが?どんな冒険者?ということで、元旦礼拝は伝道の書第11章1-6節から、「普段着の冒険者」と題してメッセージでした。

それは自分の無知を知る人です 3-4節

ここにいくつかの自然現象と、その観察に基づく人間の営みが記されています。30年ほど前、月や火星での長期生活に向けての研究のため、砂漠に地球環境を人工的に再現した、外界とは隔てられたドームで100年計画の実験が行われました。しかし数年も続きませんでした。人間は数千年という長い年月をかけ、自然界を観察し、理解し、活用してきました。しかし「知っている」ということだけでは生きていけない、そのまま突き進むことは無謀だということです。まだ知らないことの方が圧倒的に多いということです。私たちは「想定外の事故」「経験したことのない暑さ」などという言葉を耳にするようになりました。私たちはどこに行かなくても、普段の生活の中に未知なることが山ほどあるのです。普段の生活が冒険の場。そこで大切なのが「私は知らない」ということを知る、ということなのです。しかし「私は知らない」というだけでは十分ではありません。

それは神様を知る人です 5-6節

ここに『あなたは知らない』が繰り返されます。私たちは両親を通して子どもが誕生することは知っています。どのように体が形成されるかも知っています。しかし妊娠するかどうかや霊がどうやって宿るかまではわかりません。また種まきや収穫も季節や天候を見て最適な時期はわかっても、またいくら品種改良しても、芽の出方や実のつき方まではコントロールできません。私たちは「天任せ」という言葉を耳にします。人工衛星のミッションに携わる方が「やるべきことは全てやりました。あとは神様に祈っています」と言われていました。やるべきことをやり倒した人は、自分の手の届かない所は人間を超える存在に頼るしかない、ということも知っている。その存在とは?私たちは知っています。この世界を創造された聖書の神様。神様を知ることなしに、この世界を冒険することは無謀なのです。普段の生活を進むこともままならないのです。自分は知らないということを知ると共に、神様を知ってその言葉に聞いて従う時、新たな一歩が踏み出せる。自分にできること、すべきことを知るようになるのです。

それは自分の分を分かち合う人です 1-2節

『あなたのパンを水の上に投げよ』『あなたの一つの分を七つまた八つに分けよ』。『朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない』(6節)。これは自分にあるもの(与えられたもの)を、多くの人に「投げて」「分けて」「まく」。朝な夕なに「投げて」「分けて」「まき」続けるということです。『あなたは、どんな災が地に起こるか知らないからだ』。ここにも『あなたは…知らないからだ』。私たちはこの国でそのことを何度も経験し、よく知っています。でもその中で、だからこそ私(たち)にできることを、聖書は語りかけてくれるのです。しかし投げても、自分が想像するような、目に見える結果が、すぐに現れないかも知れない。でも投げ続けた人は『多くの日の後、それを得る』のです。私たちはどんな状態や状況でも、どんな悲惨な中でも、神様がそこからどんな栄光のみわざを起こされるのか?どんな喜びや慰めや励ましを生み出されるのか?期待しながら自分にあるものを分かち合い続けるのです。それが神の普段着の冒険者です。

2020年、私たちにどんな冒険が待ち受けているか?そのために神様は私たちに何を今、与えておられるか?それを投げ、分け、まき続けましょう。結果は神様が生み出されます。私たちに想定外な、経験したことのない、豊かな『義の実』を結ばせて下さいます。

1月5日(日)は青年祝福礼拝で、エレミヤ書第1章1節-19節から、「若者にすぎないと言うな」と題してメッセージです。

大掃除がありました

12月29日(日)の礼拝後、みんなで大掃除をしました。

子どもたちもとてもがんばってくれました!

比較的暖かで、中も外回りも掃除がはかどりました。

感謝の賛美で世界を満たそう

今年、天授ヶ岡教会では祈りに少々重きをおいて取り組んできました。来年は賛美に少々重きを置いて取り組みたいと思っています。祈りと賛美は神様と私において、神様と私たちお互いに欠かすことのできないもの。そして祈りと賛美は表裏一体。詩篇がまさにそうです。今年に入って礼拝でその語りかけに聞き始めました。今日はその詩篇の最後から賛美の理由と目標を知りたいと思います。ということで、12月29日(日)の年末感謝礼拝は、詩篇第150篇1節〜6節から、「感謝の賛美で世界を満たそう」と題してメッセージでした。

賛美の場所 1節

それは『聖所』と『その力のあらわれる大空』です。当時、聖所と言えば神殿でした。神様の臨在される場所。人々は神殿に集い、共に賛美し、それぞれの生活の場へ帰って、そこでも賛美しました。聖所から大空へと賛美は響き渡るのです。現代を生きる私たちにとって聖所とは?この礼拝堂もそうでしょう。そして私たちです。神様は私たちにおられ、私たちの賛美によって恵みが溢れ出すのです。礼拝堂から私たちの生活の場へ!家庭や学校や職場にあなたという聖所がある。そこで賛美するのです。

賛美の理由 2節

それは神様の『大能のはたらきのゆえ』『すぐれて大いなることのゆえ』です。当時、神様のみわざと言えば天地創造、出エジプト、王国建設。その他にもたくさんのみわざが旧約聖書に記され思い出されました。神様は万物の創造者、歴史をつかさどるお方、何にも勝って『すぐれて大いなる』お方。現代を生きる私たちにとってもう一つ。旧約時代になかったことがある。神の子イエス様の救いのみわざです。すぐれて大いなるイエス様です。イエス様とその救いによって、私たちは神の子とされ、新しい世界を相続される。大能の働きはこの世界を超越する!感動、感嘆、驚嘆を持って賛美できるのです。

賛美の楽器 3-5節

ここには弦楽器や打楽器や管楽器がいくつも登場します。踊りも出てきます。モーセの姉ミリアムもタンバリンを打ち鳴らし、先頭切って踊りました。イスラエルの王ダビデも先頭を切って踊り、楽器を作り、多くの詩篇を残しました。「でも歌うの下手やし、楽器もようせんし、踊るなんて恥ずかしい。礼拝堂のみならず、外に出て行ってなんて絶対ムリ」と思う方もあるかも知れません。いやいや賛美するならもう賛美ではない。神様の恵みも感動も伝わらない。詩篇の作者が言いたいのは、あらゆる手を尽くして、自分にできる方法で賛美すればいいということです。神学生の頃、「あなたの体が楽器です。あなたという楽器をよく知って、使いこなす時、あなたらしい賛美が、あなたの中から外に向かって響き渡るのです」と教えられました。音楽的な歌にとどまらない。歩くのも、食べるのも、寝るのも賛美。料理するのも、掃除するのも、洗濯するのも賛美。遊ぶのも、学ぶのも、仕事するのも賛美。何をしても、どこにいても、誰に向かっても賛美。すると6節。『息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ』が自ずと成就する。これが賛美の目標です。賛美が伝わっていく。みんなで賛美。みんなが賛美。

あなたが賛美の楽器。そして賛美する力は既に備わっている。「自分はダメだ、自分にはできない」という余計な力を抜いて、神様の言葉に柔らかく従うなら、賛美は流れ出します。今年を振り返り、神様があなたにして下さった『大能の働き』を思い起こし感謝しましょう。新しい年、『すぐれて大いなる』神様にますます期待しましょう。そして共に祈り、賛美する生活を続けてまいりましょう。

1月1日(水)は元旦礼拝。伝道の書第11章1節〜6節から、「普段着の冒険者」と題してメッセージです。

クリスマス祝会

12月22日(日)の礼拝後、昼食を交えてのクリスマス祝会が行われました。

イエス様お誕生のDVD鑑賞あり…
オリジナル賛美発表あり…
連弾あり…
恒例の発表あり…
子どもたちも演奏し、歌います。

1年を振り返っての分かち合いもあり、神様の恵みの導きを共に感謝しました。

神が人となった日

クリスマスはイエス様の誕生を祝う日。しかし最近、世の中では「ハッピーホリデー」と言うようになってきたそうです。他宗教や無宗教の人への配慮だとか。思想信条文化を越えてみんなで仲良く楽しむことは素晴らしい。でもだからといってイエス様の誕生を忘れては本末転倒。イエス様の誕生があったから私たちは喜び合える。それは愛についても同じ。この時期特に愛という言葉があふれます。様々な愛を語り、歌い、献げ合っている。でも。別れたり、傷つけたり、裏切ったり、騙したり、自己中心だったりといったことと表裏一体ではないか?聖書は神様からのラブレター。そしてヨハネの手紙は「愛の手紙」。ラブレターの中のラブレター。ここから愛を知って互いに分かち合いたい。ということで、12月22日(日)のクリスマス礼拝は、ヨハネの第1の手紙第4章7節〜12節から、「神が人となった日」と題してメッセージでした。

神様が愛の源泉 7-8節

まず。『神は愛である』『愛は、神から出たものである』ということです。愛を知るためには神様を知ることが必要不可欠。「神などいない」「神など信じない」と言っている間は愛を知らないということです。『神は愛である』の『愛』を自分の名前と入れ替えるとどうか?また聖書には「愛の手紙」だけではなく、「愛の章」(コリント人への第1の手紙第13章)というのもあります。「愛は○○である」と、具体的な愛が記されています。そこの『愛』も自分の名前と入れ替えるとどうか?しっくりくる?ふさわしい?「私を見れば愛がわかる!」と言える?たとえ私たちの努力で愛の章の文言をクリアしたとしても、神様抜きならそこに愛はありません。愛は神様から出るものであり、『愛する者は神から生まれた者』だからです。私たちは神様から生まれる必要がある。どうやって?『神から生まれた』最初の人、神の子イエス様を『あがないの供え物』として受け取るのです。

イエス様が愛の呼び水 9-10節

『ここに愛がある』。『ひとり子』『彼』『御子』と記されるイエス様に。『神を見た者は、まだひとりもいない』。確かに。神様そのものを見た人間はいない。でも神の子キリストが人間の体をまとい、イエスという名前でこの世界に来られた。神からも人からも生まれた、見える人にして神。それがイエス様。神様はイエス様を『あがないの供え物』として私たちにプレゼントされました。それは私たちを『(永遠に)生きるようにする』ため。プレゼントの中身は主に三つ。「あなたの罪は赦された」「あなたは神の子として生まれた」「あなたに神の子としての相続がある」。その相続の中身も主に三つ。「永遠の命」「復活の体」「新しい天と地」。プレゼントを開ければ開けるほどドデカいプレゼントがドンドン出てくる!呼び水とは、ポンプで水を汲み上げる時、最初に投じる水のこと。暫く使っていないポンプは空気が入って水が汲み上げられない。その空気を呼び水で抜いてパイプを通す。すると水があふれ出る。イエス様は神様と私たちを通す愛の呼び水。まず神の子イエス様が投じられなければ、私たちは神の子になれないし、私たちに愛は流れなかったのです。

私たちはこの愛を分かち合う 11-12節

『わたしたちも互に愛し合うべきである』。「互いに愛し合う負債がある」とも訳せる。これは返さなければならない負債を意味しません。到底返せない。神様の愛は惜しみなく与えられるものであり、私たちはひたすらいただくべきものであり、互いにドンドン分かち合うべきものだということです。井戸水は汲めば汲むほど新鮮な水が湧き上がる。愛は互いに愛し合うほど供給される。愛は愛し合うことなしに相手に伝わらないし広がらない。愛し合うことで、周りに神様がどういうお方かわかってくる。見えてくる。すると『神の愛がわたしたちのうちに全うされる(完成する)』のです。神の子として生まれたら即完成ではない。愛し合うことで成長する。愛し合うことで私も、互いの関係も、世の中も成熟するのです。だから。イエス様は私たちに愛を生きて見せて分かち合うためにこの世界に来られました。私たちがその愛を見て、触れて、体験して同じように生きるために。今、イエス様も見えません。だから聖書がある。聖書からイエス様を学び、愛を汲み上げ続けるのです。

神が人となった日。それは愛が人となった日とも言えます。イエス様は2千年前、赤ちゃんとしてこの世界に来られ、愛を現して下さいました。今度は神の国の王様として、愛を分かち合った私たちを迎えに来られます。それが再臨。そしてあふれんばかりの相続を振る舞って下さいます。お互いは感動と喜びに包まれるのです。クリスマスはその始まり!愛の祭りはますますスケールを増していく!だから。メリークリスマス!

12月29日(日)は年末感謝礼拝。詩篇第150篇1節〜6節から、「感謝の賛美で世界を満たそう」と題してメッセージです。

クリスマス祝賀会

12月19日(木)は、天授ヶ岡幼稚園のクリスマス祝賀会が行われました。第1部は礼拝、第2部は会食でした。

イエス様のお父さん、ヨセフさんを中心にお話をしました。

ヨセフは神様を信じる、真面目で正直で優しい大工さんでした。机やイスや棚などを作る大工さん。そしてマリヤと結婚の約束をしていました。楽しみだな、嬉しいな、ワクワク!ところが、ヨセフの知らないうちにマリヤのお腹が大きくなってる?!なんで、どうして、ガーン!ヨセフは悩みました。当時、そんなことがあると女の人は石打の刑になる危険がありました。ヨセフはマリヤとの結婚の約束をなかったことにしようと考えました。それが、マリヤを助けるためのたった一つの方法だと考えたからです。でもヨセフは悩む。悩みながら眠りました。「ヨセフ!心配しないで。マリヤに子どもを授けたのは私だ。あなたはマリヤと結婚するんだ。男の子が生まれたらイエスと名づけなさい。彼は人々を罪の中から救い出す者となる」。は!今のは夢?でも神様の言葉!ヨセフは神様の言われた通りにマリヤと結婚し、無事にイエス様が誕生!ヨセフが心配したことは何も起こりませんでした。

ホッとしたのも束の間。今度はヘロデ王登場です。「なんだと?わしに代わる王が生まれただと?けしからん!見つけ出して殺してしまえ!」。ヨセフ家全員ピンチ!イエス様絶体絶命!「ヨセフ!心配しないで。マリヤとイエスを連れてエジプトへ逃れなさい。私が知らせるまでそこにとどまっているのだ」。は!今のは夢?でも神様の言葉!ヨセフは神様の言われた通りに家族を連れてエジプトへ逃れました。ヘロデは兵隊をあちこちに遣わします。ドンドンドン!バタン!「ここにはいない!」「ここにもいない!」「どこにもいなーい!」。「一体、どこにいったんじゃぁ!う、うう…」。ヘロデはイエス様を見つけられないままとうとう死んでしまいました。「ヨセフ!ヘロデは死んでしまった。家に帰りなさい」。ヨセフ一家は無事に家に帰り、イエス様はスクスクと成長し、私たちみんなの救い主になって下さいました。

『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれる』。インマヌエルは「神様がいつも共におられます」という意味。イエス様のまたの名前。神様はいつもヨセフと共におられました。ヨセフもいつも神様に聞いて従いました。神様はヨセフを守り通されました。私たちにはその神の子イエス様がいつも共におられます。イエス様の言葉によく聞いてお従いしましょう。イエス様は私たちを守り通し、救いに与らせて下さいます。神様がイエス様を私たちにプレゼントして下さったことを感謝しましょう。イエス様がいつも共にいて下さることを感謝しましょう。それがクリスマス。みなさんの祝福をお祈りします。

収穫感謝祭

ご報告が遅くなりましたが、11月22日(金)には天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝祭が教会の礼拝堂で行われました。

今回は、ナアマンのお話をしました。

ナアマンはスリヤという国のとても強くて尊敬される将軍でした。立派なカブト、ヨロイ、刀を身につけていました。でもナアマンには王様や家族しか知らない悩みがありました。それは体に重い皮膚病を患っていることでした。外側は立派。でも中は「うわ〜、ひどい、治らない、困った」。するとナアマンの家でお手伝いをしていたイスラエルの女の子が「ご主人様。その病気を治せる神の預言者エリシャがおられます」と教えてくれました。

ナアマンはたくさんの部下とお金とお土産をもってエリシャの元へ。トントン。「どうか私の病気を治して下さい」。するとエリシャの僕が出てきました。「ヨルダン川へ行って、7回、体を水に浸しなさい」。え?それだけ?エリシャが出てきて手をおいて癒してくれないのか?なんと失礼な!ナアマンは怒って帰ろうとしましたが、部下たちが「何も難しいことをせよと言われたのではありません」となだめました。

ナアマンは気を取り直してヨルダン川に行き、みんなに見られるのは恥ずかしいけれど、勇気を出して水に体を浸しました。1回目。何も変わりません。2回目。何も変わりません。3回目、4回目、5回目。何も変わんねー!6回目。全然変んねー!でも!7回目。「あ!きれいになってる!治ったぞ!エリシャさんありがとう!神様ありがとう!」。

ナアマンは女の子や部下の言葉にもよく聞きました。そして神様の言葉にも聞いてその通りやりました。さて。お家の人や幼稚園の先生は、みんなの成長を願って、いろんなことを語りかけてくれます。そしてみんなは、言われたことに一生懸命聞きますよね。聞いた通りにしようとするよね。そうやって段々わかってくる。できるようになる。成長します。神様の言葉もそうです。7回と言われれば7回やってみる。5回6回であきらめない。神様は難しいことを言われません。みんなにできること、そしてやれば必ず成長できることを語って下さいます。これからも神様の言葉によーく聞いて行う人になって下さい。みなさんの祝福をお祈りします。

始終一貫インマヌエル

今年の夏、教団青年宣教大会があり、テーマが「主と共に生きる!今こそガチで臨在信仰」でした。テーマの元になった聖書の言葉が『わたし自身が一緒に行く』(出エジプト33:14)、『わたしはモーセと共にいたように、あなたと共におる』(ヨシュア1:5)でした。いずれも旧約聖書。そして神様が「共にいる」という臨在の言葉。それは旧約聖書も新約聖書も変わらない。新約聖書の最初もインマヌエル『神われらと共にいます』と記します。ということで、12月15日(日)待降節第3週礼拝は、マタイによる福音書第1章23節〜25節から、「始終一貫インマヌエル」と題してメッセージでした。

人として共にいるために 第1章23節

『「見よ、おとめがみごもって男を産むであろう。その名をインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である』。旧約聖書の時代、神様は見ることができませんでした。ですからイスラエルの民は「神様は本当に共におられるのか?」と不安になり、木や石や金属でできた見えて触れられる神を欲しがり、富み栄えていた他国の王様や、強い軍隊を持つ大国を頼りました。そして疫病や飢饉にみまわれ、財産を奪われ奴隷にされ、国を滅ぼされ、「神は私たちにはおられない。私たちは見捨てられた」と嘆きました。そしてついには「目には見えなくとも、私たちを本当に助け祝福して下さるのは聖書の神なのだ」と回心し、徐々に回復されていく…そんなことを繰り返していました。民が神様からそっぽを向いている時、神様は共におられなかったのか?民を見捨てられていたのか?いいえ。神様はいつも共におられることを身をもって示されました。それがイエス様。私たちと同じ体・同じ目線で、同じ生活をされた。人々が近づこうとしなかった汚れた霊につかれた人や、重い皮膚病の人、取税人や遊女や異邦人に近づかれ、言葉をかけ、触れ、癒し、食事を楽しまれました。権力者である王や総督、律法学者や祭司たちとも向き合われ、彼らの間違いや高慢を素直に指摘されました。その人に罪や汚れや問題があるから、不信仰だから、逆らっているから一緒にはいられない!いてやらない!なんてことはなかった。来る人を拒まず、行く先の人を選ばず、どんな人とも粘り強く向き合い共におられ「いつも私はあなたと共にいる。私を知ってほしい。受け入れてほしい。求めてほしい。そして従ってほしい」と声をかけ、手を差し伸べておられました。

見えなくとも共にいるために 第28章20節

イエス様は守衛に守られたぬくぬくとした王宮で、下々からかけ離れた生活をされたのではありません。下々の者となって生活された。時の権力者はイエス様を神の子と認めない。彼らの神の子イメージは王宮に誕生したぬくぬく王子。だから受け入れられない。しかも神に仕えている律法学者や祭司に刃向かうようなことを言う。やつこそ冒涜者!だから十字架で殺した。なきものにした。しかし。3日後イエス様はよみがえった。イエス様は消せない。イエス様を十字架につけた彼らをも赦し、再び彼らと共にいて、彼らが本当の神様の姿を知り、その生き方に従うようになるために。そして40日後に天に帰られた。『見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる』という言葉を残して。イエス様は見える時も見えない今も変わらずガチで臨在しておられます。私に信仰があってもなくても、イエス様を忘れていても逆らっていても、弱さや罪や汚れや問題があっても、すごすご逃げ出す柔なイエス様じゃない。すぐに切れて怒ってどこかへ行ってしまうイエス様じゃない。にせキリストがはびこり、災害が頻発し、疫病が蔓延し、戦争が繰り返されても世の終わりまで決して離れない。なぜならこの世界も私たちもイエス様が創造して下さったから。トコトン愛し共にいて、呼びかけ手を差し出しておられる。私たちを救い癒し祝福しようと。私たちの最大の問題は、共におられるイエス様に無関心だということ。すぐ側にあっても関心がないならないも同じ。私たちがするべきことは、ガチで臨在されるイエス様に、ガチで向いて聞いて従うこと。そうすれば知識も体験も人生も世界も変わる。さらに今の世界を越えて新しい天と地に生きることができる。そこまでインマヌエルなイエス様なのです。

マタイによる福音書は最初から最後までインマヌエルなイエス様を描き出します。「あなたと一緒にいたい。同じ体をもって、同じ世界を感じ、あなたがどんなことで悩み傷み苦しんでいるか知ろう。どんな罪や誘惑にさらされ、自分ではない力に弄ばれ、自分を失っているか知ろう。あなたを助け出し、私が創造したあなたを回復し、私と同じ神の子として再創造しよう。私の永遠の命と、私と同じ復活の体を与えよう。そして新しい天と地で共に住まおう。そのためにまず私が降ってきた。あなたと同じになった」。それがクリスマス。どんだけ私たちのことが好きやねんイエス様!ありがとう。私たちのためにこの世界に生まれてくれて。私たちと共にいてくれて。

12月22日(日)はクリスマス礼拝&祝会。ヨハネの第1の手紙第4章7節〜12節から、「神が人となった日」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved