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祝福とは何か?

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「祝福」。

おめでたい席でよく使う言葉です。

教会でもあの人のため、この人のため、祝福を祈ります。

しかし祝福とは一体、具体的に、どうなることを言うのでしょうか?

実は祝福の起源は聖書にあります。

ということで、

4月24日の礼拝は、創世記1章26節〜28節から、「祝福とは何か?」と題してメッセージでした。

神様は神様の言(ことば)で天地万物を創造されました。

その天地創造の最後に、神のかたちである人間を創造されました。

そして「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」

祝福とは、命が満ちること。

神のかたちの命の数が増える、とも言えますし、あたかも一つの存在のように命がどんどん大きくなる、とも言えます。地球上の津々浦々までも人は行き巡り、宇宙にまでも手を伸ばしています。命が地球上の津々浦々に、そして宇宙にまで広がろうとしているようですね。

祝福とは、支配が満ちること。

支配と言っても神様の支配。支配の本来の姿はまた後日メッセージします。地球上の植物や動物は、自然のメカニズムで再生産や増殖ができるように創造されています。しかし人間の手によってなお、さらに命が満ちるようにされたのです。砂漠の緑化、里山教育や森林の手入れ、稀少動物の保護や個体数増加の試みなど、今でも植物や動物の命を増やす努力がなされていますね。

祝福とは、愛が満ちること。

創世記も半ばにならないと愛という言葉は出てきません。しかし愛という言葉がないからといって、愛がないのではありません。神のかたちは男(夫)と女(妻)、親と子(家族)という役割や関係によって神様を表現する存在。愛なくして豊かな命を満たすことも、健全な支配を満たすことも困難ではないでしょうか。人が育つためには愛が必要です。植物を育てる方々も、動物を育てる方々も、やはり愛をもって向き合っておられますよね。

 

神様は、私たちとこの世界に、神様の命と支配と愛が満ちることを願っておられます。

それが祝福。

ですから私たちは神様の命にあずかり、その支配と愛を学ぶ必要があるのではないでしょうか。そして私たちはお互いに、生きとし生けるものに、この世界に、祝福を大いに分かち合うべきではないでしょうか。

ということで、

5月1日の礼拝は、創世記2章1節〜25節から、「神のかたちの営み」と題してメッセージです。

私たちは神のかたち

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「アイデンティティ」…自分自身のよりどころ。

「セルフイメージ」…自分が抱く自分の像(かたち)。

以上の言葉を耳にします。

「自分探しの旅」なんていう言葉も耳にします。

自分はなぜ生まれたのか?

自分は何者なのか?

今の自分は本当の自分なのか?

本当の自分がどこかにあるのではないか?

それがわからない。

それが知りたい。

 

ではその起源を知りましょう、

ということで、4月17日の礼拝では、創世記1章26節~27節から「私たちは神のかたち」というメッセージをしました。

私たちは神のイメージ。

この世界を造られた、この世界からは見えない創造主を、見える世界に映し出すと私たちになる。「ならば私たちは神なのか?」世の中でも「この人は神!」とか「神対応に感動!」とか表現します。でもあくまでも「私たちは神のかたち」。

 

「神のかたち」は、複数にして一つの存在。一つにして複数の存在。

私というひとりで一つの神様を表す。私たちという複数でより大きくてより豊かな一つの神様を表す。学校や企業や軍隊や国の営みをあたかも一つの存在として、擬人化して表すことがないですか?

 

「神のかたち」は、治める(支配する)存在。

昔、広大な領土を治める王様は、王の像(かたち)を全国津々浦々に置いて、その権威と支配を知らしめました。辺境の地に住む人は本物の王様に一度も会わなくても、王の像(かたち)を見て、王様がどういう人かを知りました。私たちは動かない王の像(かたち)ではなく、生きた「神のかたち」。地球上の一番深い海の底にも、一番高い山の上にも、はたまた月や火星にも、人が行こうとする理由が何となくわかりませんか?

 

そして「神のかたち」は、男と女、親と子で表現する存在。

創世記5章に神のかたちが男と女だけではなく、親と子という関係をも表すことが記されています。「じゃあ、神には男と女、親と子があるのか?」あくまでも「私たちは神のかたち」。私たちの男と女、親と子という役割や関係によって、神様をよく表現することができる。

 

では私たちによって、神様の何を表現するのか?

神様の豊かな命、慈しみに富む支配、あふれる愛です。

でも私たちの営みは命を生み出さずにたくさんの死を生み出すことがあります。

支配という言葉はあまりいい響きがしません。

男と女、親と子という関係も傷んでいます。

だからこそ、今一度、そして常に、神の言に耳を傾けるべきではないでしょうか?

自分を知るために、もっと神様を知る必要があるのではないでしょうか?

 

ということで、

4月24日の礼拝は、創世記1章26節~28節から「祝福とは何か?」という題でメッセージです。

神の言に生きる

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最近の映画にはコンピューターグラフィックスが多用されています。

コンピューターで造られた仮想世界に没入できるVRヘッドセットも登場しています。

しかしそれらの世界は、コンピューターの言葉で造り出されています。

そしてその世界の造り手は、基本的にはその世界からは見えません。

この世界を構成する物質は化学記号や化学式で、世界の様々な運動は物理の数式で表すことができます。

ビッグデータ(これもコンピューターの言葉)の活用で、現実世界の現象をある程度予測することさえできるようになっています。

私たちが生きるこの世界も、言葉によってできている裏付けにならないでしょうか?

 

「言」と書いて「ことば」。

言葉(ことば)の中の言(ことば)。

それが神の言。

神の言で世界はできている。

神の言は理にかなっている。

神の言は命であふれている。

それが天地創造のわざ。

だから私たちはまず、そしていつも神の言に耳を傾け、

神の言に生きるべきではないでしょうか?

それが私たちの無理のない姿、自然な姿、本来の姿なのではないでしょうか?

この世界からは基本的には見えない創造主である神。

しかし神の言として私たちに備えられた聖書がある。

これからその聖書に耳を傾けてまいりましょう…

4月10日の礼拝はそんなメッセージでした。

4月17日の礼拝は「私たちは神のかたち」と題して、

創世記1章26節~27節からメッセージです。

はじめまして。

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4月から天授ヶ岡教会の牧師となりました内田です。

4月3日の礼拝は、「私の十字架」と題して、

ルカによる福音書23章32節~38節からメッセージいたしました。

町を歩くと、キリスト教会以外にも十字架を見かけます。

また十字架を身につけている方も見かけます。

十字架には「安全」や「安心」、「救い」や「癒やし」などの

イメージがあるのではないでしょうか。

その十字架の本当の意味を知って、永遠までも身につけていただきたい。

ということで、

イエス・キリストのかかられた「さばきの十字架」が、

すべての人の罪の「赦しの十字架」となり、

私がそれを信じるとき、私の永遠の「救いの十字架」となる、

という内容でお話ししました。

次回、4月10日の礼拝は、「神の言に生きる」と題して、

創世記1章1節~25節からメッセージです。


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