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神様の逆転的発創力

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世の中は競争社会です。

多くの人は自然界も人間社会も競争を繰り返して今日に至ったと考えます。そして今なお、就学にせよ、就職にせよ、結婚にせよ、少しでも他より条件の良い位置を目指します。スポーツにせよ、企業にせよ、国家にせよ、宗教にせよ、少しでも他より強く、高く、大きく、富み、メジャーになろうとしのぎを削ります。そんな世の中を図にすると三角形になるのではないでしょうか?弱い人、愚かな人、負け組と言われる人々は底辺で、強い人、賢い人、勝ち組と言われる人々は頂点を目指し、その頂点を目指す中で転がり落ちる人もまたあります。しかし聖書はどのように語るでしょうか?神様は何を思っておられるでしょうか?

ということで、6月26日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第1章26節〜31節から、「神様の逆転的発創力」と題してメッセージでした。

最底を最高へ

コリント教会は、世の中では、弱い、無力な、身分が低い、軽んじられている、無きに等しい…と言われる人々が多かったようです。そう言われる人たちが示し合わせて教会をつくったのではなく、神様の召しにこたえて集まってみたらそうだった、ということです。この人たちは世の中の三角形を、自分たちの知恵や力で、武器や富を奪ってでもして、ひっかり返すのでしょうか?ひっくり返せたとしても、また新しい三角形がそこにあるのではないでしょうか?私たちの歴史はその繰り返しに見えます。かつて私は障害者福祉に関わっていました。そこで糸賀一雄というクリスチャンが戦後日本の福祉の父と呼ばれていることを知りました。社会に出ることができない重い障害を持った子どもたちを「この子らを世の光に」と医療・教育・福祉に尽力しました。その営みを通して私たちは、誰もがわかりやすい、使いやすい、生きやすい、バリアフリーな多くの恩恵を受けています。この子どもたちが誰かを引きずり下ろして三角形をひっくり返そうとしたのでも、糸賀一雄が子どもたちを押し上げたのでもありません。糸賀一雄をはじめ多くの人が、子どもたちに聴く(学ぶ)ことによって、多くの恩恵を多くの人が受けたのです。三角形が逆三角形になった一例です。その逆三角形の上には、上下や優劣や貴賤はありません。それぞれがそれぞれらしく最高に輝いてほしい、そう神様は願っておられるのです。

バラバラから一致へ

コリント教会は、「私はパウロに」「いやアポロに」「ケパに」「キリストに」と世の中と同じように誇り合い、自分たちも知恵があるつもり、力があるつもり、身分が高くなったつもりになって、バラバラになっていました。しかしパウロやアポロやケパにこの世の中のもてはやす知恵や力や身分があったわけではありません。キリストについた人が正解なのでもありません。パウロやアポロやケパとキリストを同列において競い合っていました。今の時代も「私はこの教団やこの教会に所属している!」「この牧師やこの役員とつながっている!」と誇り、他と差別化し、上下をつけ、どちらがより正しいか比べ合い、「やっぱりこっちが最高!」なんて言ってないか?私たちは人間的な何ものにもよらないで、ただ神様の召しによって、キリストの救いによって、逆三角形の上に等しくいるのです。教会はパウロやあの牧師やこの役員を現すのではなくキリストを現すのです。神様の逆転的発創力である、キリストの知恵・義・聖・あがないのすばらしさを現すのです。キリストは逆三角形の下の頂点にいてくださいます。下が頂点!キリストが逆三角形を支える!キリストが知恵の源!そして私たち一人一人はそのキリストにつながるのです。キリストにつながることでお互いも一つになるのです。そしてお互いの違いは豊かなバラエティになるのです。

神様は映写機に、フィルムはキリストに、スクリーンは世の中にたとえることができるかもしれません。そしてスクリーンに映し出されるのは私たち教会の営みです。光と映像の広がりは逆三角形をしていますね。世の中がどんなに荒れて、バラバラになり、暗くなっても、神様のユニークな力を、キリストの豊かさを、教会の営みは世の中に明るく映し出すのです。

この続きは8月に。7月は創世記に戻ります。7月3日(日)の礼拝は、創世記第3章1節〜10節から、「罪と死と呪いの本質」その①と題してメッセージです。

問題を乗り越える力

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東洋と西洋の中継地。文化、思想、宗教のるつぼ。快楽的、歓楽的、「コリント化する」と揶揄された町。しかしそこに「神の教会」があった。そこにどっぷりと生きてきた人たちが、キリストに召され、キリストのものとされ、キリストの心と思いを求めていく。てんでんバラバラな人たちが、キリストと同じ神の子とされ、キリスト化する道を歩み出す。ですからコリント教会は最初から一致していたわけでも清いわけでもありません。世の中と同じ問題があった。しかし問題を無視せず、染まらず、飲み込まれず、乗り越えるのが教会。その力はどこにあるか?

ということで、コリント人への第一の手紙第1章18節〜25節から「問題を乗り越える力」と題してメッセージでした。

宣教の愚かさこそ力

コリントでは知恵が尊ばれました。学者、賢者、論者に人々は群がり、「私は○○に師事する」「いや僕は△△につく」「いや俺は××だもんね」と自慢し誇り合っていました。そんなやりとりが教会の中に持ち込まれていました。しかし世の中の知恵では神様を認めるには至らない。「宣教の愚かさ」によって神様を知るようにされました。皆さんは「ヤドカリ的人生」をご存じですか?自分が集めた知恵を自分を守る殻にして生きることです。理解できない、信じがたい、自分の許容範囲を超えるものは受け入れない。その受け入れ基準は何か?それが事実か事実でないかよりも自分の好み。科学的証明。多くの人が好みますが、とても限られたことしか証明できません。歴史は別の方法です。地層や出土品や記録を調べ、推測し、仮説を立て、理屈を考える。その仮説や理屈に人が群がる。そして自分の安心として片づけてしまう。それが事実か事実でないかは置いといて。「宣教の愚かさ」とは「事実を事実として伝え、事実を事実として信じること」です。聖書の物語が事実であること。神様がこの世界を創造したこと。人が神様から的を外したことによって(これを罪と言います)死をはじめとするあらゆる問題が生じてきたこと。その罪と死とあらゆる問題から私たちを救うためにイエス・キリストが来られ、十字架にかかって死に、三日目に復活し、それから40日後天に還られたこと…を事実として認める。教会に問題があることを認めるだけでなく、神様が提示される事実を事実として認めるところに問題を乗り越える力がある。

十字架につけられたキリストこそ力

ユダヤ人たちは「しるし」を請いました。イエス様が地上におられたとき、「もし神の子ならふさわしいしるし(奇跡)を見せてみ!」と要求しました。イエス様はその要求に応じたわけではありませんが数々のしるしをなさいました。でもユダヤ人は認めない、信じない、十字架にかけてしまう。しかしイエス様は復活!これ以上ないしるし!でも「弟子たちが遺体を盗んだ」と、びくびく家に閉じこもっている弟子たちのせいにして認めませんでした。ギリシャ人は知恵を求めました。パウロはギリシャ人に知恵を駆使して聖書を物語りました。「これは聞いたことがない新しい教えだ!ぜひ聞かせてくれ!」と身を乗り出しましたが、いざイエス様の復活にさしかかると「また今度!」と逃げ出しました。皆さんはコバンザメ的人生をご存じでしょうか?コバンザメは大きくもなく強くもない魚。でも鯨にくっつくなら?世界を股にかけ、世界の餌場を堪能し、捕食者からも守られます。私たちは神様にくっつく。十字架につけられたキリストの事実にくっつく。聖書の言葉にくっつく。一生懸命知恵をかき集め、力一杯殻に閉じこもる必要はありません。力を抜いてくっつくだけ。くっつくとは認めること、信じること、聞いて従うこと。すると神様とその知恵がわかってくる。世の中の知恵も大切です。元々「神のかたち」である私たちの知恵ですから。でも「的外れ(罪)」ゆえどこか不整合だったり、歪んでいたり、真逆の効果が現れることもある。ですからちょっと横に置いて、まずは十字架の言(イエス様こそ言葉の中の言、知恵の中の知恵)に聞く。そこから始める。それが問題を乗り越える力だから。

パウロは神様の知恵、十字架の言を記すためコリント人への第一の手紙の筆を進めます。

ということで、次回6月26日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第1章26節〜31節から「神様の逆転的発想力」と題してメッセージです。

問題を乗り越える教会

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「教会」と聞いて、どんなイメージが思い浮かびますか?

白いチャペル?塔の上に十字架?鳴り響く鐘?白いガウンの聖歌隊?集う人々は清楚で手を合わせて祈っている?世俗にまみれた私は入ることができない?教会の中に世の中にあるような問題はあるはずがない?いやあってはならない?あったらそれは教会じゃない?いや教会も世の中も同じで、「愛だ」と説く牧師やクリスチャンも結局は偽善者だ?白か黒か、正しいか悪いか、清いか清くないか、両極端なイメージがないでしょうか?

聖書はなんと言っているでしょうか?

ということで、6月12日(日)は、コリント人への第一の手紙第1章10節〜17節から、「問題を乗り越える教会」と題してメッセージでした。

問題を認める教会

教会は教会堂(建物)ではなく、「神によって召された者」「イエス・キリストの御名を呼び求める者」「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召された者」の集まりであり営みです(どなたも神様に召され(招待され)ています。その招待に応じるならどなたもこの営みに加われるのです)。そのコリント教会には数々の問題がありました。パウロはその問題を順々に記していきます。その最初は分裂・分派の問題。しかもこの問題は「クロエの家の者たち」から伝えられました。そしてこの手紙はコリント教会だけではなく、広く回覧されました。二千年後のアジアの端、日本まで回覧されてきてるでしょ。キリスト教会の内部告発?告発者の名前も公開?こんなことではクリスチャンとして証しできない?宣教できない?いえいえ。この手紙は問題をあげつらうのではなく、問題を乗り越えるためにあります。この手紙はそのための、古今東西すべての教会の共有財産。世の中にはあまたの問題があります。その問題の中に生きている私たちが教会を営むのです。だから問題がある。問題がなくなってから教会になるのではないのです。問題があるのに無いふりをしない。当たらず障らず放置しない。臭いものにふたをしてきれいになったつもりにならない。教会の営みは問題を謙虚に認めるところから始まる。問題を認め、向き合い、乗り越える経験をした教会にこそ本物の証しがある。宣教の力がある。世の中の問題に奉仕できる教会となるのです。

イエス・キリストのものである教会

コリント教会の人々は、イエス様と有名な教師たちを同列に並べて、「私はパウロにつく!」「私はアポロのものだ!」「私はケパだもんね!」とお互い教師自慢し、自分が正しくなったつもり、偉くなったつもり、特別になったつもりでいました。「○○牧師の教会」なんて言い方しませんか?でもこれは世の中の多くの営みにも見られる問題です。コリント教会の人々はそんな世の中の見方でイエス様やパウロたちを見ていました。しかしパウロは「そうじゃない!君たちが今あるのは、イエス様の十字架ゆえだ!私を遣わされたのもイエス様だ!」と語ります。私たちを救い、整えられるのはイエス様。イエス様につくパウロにつく私ではなく、イエス様につくアポロにつく私でもない。みなイエス様につく私。そのお互いが心も思いも一つにする。「堅く結び合って」一つになる。「堅く結び合う」とはカタルシス(浄化する、昇華する)という言葉が元になっています。バラバラなものを訓練や修行を通して繕っていく、直していく、一つにしていく、という言葉。一朝一夕にはならない言葉です。イエス様によって救われた「聖徒」は立場的には一つです。そして問題を認め、向き合い、労力と時間を惜しまず共に乗り越える中で、イエス様の心や思いが見えてくる。わかってくる。共有できる。立場だけの一致にとどまらない、世の中の波風にもびくともしない、本当に一致した教会となるのです。

ある意味、教会の営みの醍醐味は、問題を乗り越えるプロセスにあると言えます。続いてコリント人への第一の手紙に耳を傾けてまいりましょう。

6月19日(日)は、コリント人への第一の手紙第1章18節〜25節から、「問題を乗り越える力」と題してメッセージです。

子どもの日・花の日礼拝

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6月10日(金)は、天授ヶ岡幼稚園の子どもの日・花の日礼拝が、天授ヶ岡教会の礼拝堂で行われました。教会の礼拝堂へ入るのは初めてという子どもたちもいました。よく来て下さいました。

19世紀、アメリカの牧師が、子どもの信仰の養いと成長を願って、花を飾り礼拝を行ったのが子どもの日・花の日礼拝の始まりと言われます。

花には、小さい花、大きい花、たくさんで咲く花、一輪で咲く花、赤い花、白い花、黄いろい花、青い花、紫の花、いろんな色が混じった花、そしていろんな香りの花があります。違う大きさ、違うかたち、違う色、違う香り。でも、どれも素敵。どれも大好き。子どもたちも花を育てます。土を掘り、種を蒔き、そっと土をかぶせ、水を注ぐ。葉っぱが出てきた!茎が伸びてきた!!つぼみをつけた!!!花が咲いた!!!!子どもたちは大喜び。園庭を飛び回る生き物たちも大喜び。

子どもたちが花の成長を喜び、花を大切にするように、神様も子どもたち一人一人の存在を愛し、成長を喜び、大切にして下さっています。神様が一人一人をデザインし、命を与え、両親を通してこの世界に生み出されました。子どもたちはみな違います。その違いがその子なのです。その違いに優劣はありません。勝敗はありません。貴賤はありません。今までできなかったことができるようになることもあります。喜ばしいことです。でもできなかったとしても、失敗しても神様の愛は変わりません。時には誰かとけんかしたり、痛い思いをしたり、悲しい思いをしたり、怒ったりもするでしょう。しかしそれも含めて「わたしはあなたが大好きだよ」とまなざしを向け続けておられます。その子がその子らしく成長できるように、日々の恵みを注ぎ続けておられるのです。

だから、神様の愛を知り、私たちに必要な恵みを受け取るには、またその恵みを分かち合うには、神様に向いて、聞いて、従う。従うとは強制ではありません。自発的行為。私たちは常に誰かに向いて、聞いて、従って(真似て)、成長してきたはず。草花がいつも太陽の光を浴びるように、まずは、いつも、神様に向いて、聞いて、従って、神様の愛と恵みを浴びることにいたしましょう。

「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。」イザヤ書第35章1-2節

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神の恵みを思い知る

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岡山県の教会で奉仕していたとき、農家の方々から旬野菜をよくいただきました(過去)。その旬野菜をいろいろに調理していただきました(現在)。私たちの健康は支えられ、子どもたちは元気に成長できました(未来)。いただいた恵みの過去、現在、未来です。

パウロはコリント人への第一の手紙で、まず神の恵みについて語ります。それが第1章4節〜9節です。コリント教会の人々への神様の恵みの過去、現在、未来が記されています。しかしそれはコリント教会の人々だけではなく、古今東西、すべての教会に与えられている神の恵みです。

すでに与えられた神の恵み

それは「すべての言葉」と「すべての知識」です。イエス様こそ言葉の中の言(ことば)です(ヨハネによる福音書第1章1節)。イエス様こそ知識の源です(コロサイ人への手紙第2章3節)。私たちがイエス様を信じるとき、すべての言葉とすべての知識を得たも同然です。「それはいくらなんでも無理があるのでは?」と思われますか?私は帰納的研究法という学び方で小学生と聖書の授業を2年ほどしたことがあります。私は聖書を語りません。子ども自ら取り組みます。聖書以外に用いるのは辞典や写真や絵や地図など。低学年の子どもも聖書を理解していました。イエス様を信じる人には、すでに、もれなく、聖書の言葉とそれを理解する知識は与えられているのです。そしてその言葉と知識によって、信じたイエス様、見えないイエス様を深く知るのです。

いま与えられている神の恵み

それは「恵みの賜物」です。しかも「いささかも欠けることがなく」です。恵みとは、私たちが生きるために無くてはならないもの、欠かすことのできないものです。「自然の恵み」って言いますよね。ここで言う「恵みの賜物」は主に教会の営みに必要な、欠かすことのできない賜物です。どんな賜物があるかはパウロが後に触れるのでその時に。ここで言いたいのは、一人にすべての賜物が与えられているのではないということ。100人の集まりなら100人でいささかも欠けることがない恵みの賜物が与えられています。20人の集まりなら20人でいささかも欠けることがない賜物が与えられています。その賜物をお互いのために用いることによって共に成長します。そして見えるイエス様が再臨される時に備えられるのです。

やがて与えられる神の恵み

それは「責められるところのない者にして下さる」恵みです。「すべての言葉」と「すべての知識」によって見えないイエス様を深く知り、「恵みの賜物」を用いることによって見えるイエス様の再臨に向かってみんなで成長してきます。そしてついに、再臨の日に、「責められるところのない者」にして下さいます。表現を変えるならイエス様に似る者とされる。コリント教会の人々は「コリント化する」と揶揄されるような価値観や習慣に生まれ育った人たちでした。しかしイエス様の救いに与り、神様に聖徒として召された人々でした。しかしなお様々な問題の中にありました。肩書きは聖徒でも実質は違いました。しかし神様は真実なお方。あきらめたり見放したりしません。元手をしっかりと与え、用い方を教え、交わりの中で、聖徒らしく、イエス様に似るまで、イエス様に会うまで、堅く支えて下さるのです。

出された料理しか食べないのではなく、自ら与えられた食材をよく知り、調理し分かち合い、共に健全に成長し、その恵みを世にも還元していく教会になるため、この手紙は記されていきます。次回、6月12日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第1章10節〜17節から「問題を乗り越える教会」と題してメッセージです。


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