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霊の人として育ちなさい

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私たちは常に成長しています。「いえ、老化しています」と言う方があるかもしれませんが、老化も成長の完成段階と言えます。そして私たちの成長は独りでにあるのではなく、常に誰かの養いや助けがあります。その誰か、の中で最も大切な存在は?ということで8月28日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章1節〜9節から、「霊の人として育ちなさい」と題してメッセージでした。

肉の人としてふるまう人

パウロがコリントの町に「十字架のキリスト」を宣べ伝えました。そして救われ、神の子として生まれ、神の奥義を歩み始めたコリント教会が誕生しました。パウロはコリントに1年半滞在し、産声を上げたばかりのコリント教会を養いました。その後、雄弁な説教家アポロが来てコリント教会を養いました。アポロがいつまでいたかはわかりませんが、コリント教会の人々は複数の教師に養われました。しかし様々な問題を起こすようになりました。コリントの町の人々は有名な知識人にくっついて、さも自分が認められたつもり、賢くなったつもりで張り合っていました。しかし「コリント化する」と揶揄されるようなひどい生活に変わりはありませんでした。それと同じようにコリント教会の人々も「俺はパウロ」「私はアポロ」と張り合って、その生活は以前と何も変わらず、そのギャップにも無自覚でした。パウロはそんなコリント教会の人々を「肉に属する人」と言いました。日本でクリスチャンはレアな存在です。「私はクリスチャン」と言えばみんな興味津々。いろんな反応が返ってきます。その中に「えッ?あなたがクリスチャンなんですか?」というものがありました。聖書や教会を知らない人でもクリスチャン像(イメージ)があるのか、それに沿わないときに発せられる言葉でした。クリスチャンがクリスチャンとしてふるまうのではなく、「肉に属する人」としてふるまっていると端から見ても違和感があるのです。つまりクリスチャンとして不自然になる、自然体でなくなるということなのです。

霊の人として成長する人

パウロはコリント教会の人々を「肉に属する人」だと言うと共に「キリストにある幼子」だとも言いました。ここがコリントの町の人々と違うところでした。コリント教会の人々は神様に召されました。十字架のキリストによって救われました。そして御霊によって神の奥義の世界を進むのです。神様の養いによって成長するのです。コリント教会の人々があるのは全て神様のおかげ。この神様を全く見落としていました。私が住む滋賀県にはたくさんのひまわり畑があります。もちろん農家の方が土を耕し、種を蒔き、水や肥料をやって育てます。しかしひまわりは太陽に向かって成長します。大きいのや小さいの、太いのや細いの、同じひまわりでもいろいろです。しかしそんなことお構いなしにみんな太陽に向かって成長します。そして一つよりはみんなが咲くことで多くの人の目を楽しませてくれます。育ててくれる農家の方も大切ですが太陽がなければ何も始まりません。太陽とひまわりの関係は、神様と私たち教会との関係に似ています。神の子は神様にいつも向いて、聞いて、従うことが自然なのです。神様はそんな私たちの成長に必要な養い手を時に応じて備えられます。しかし私たちが神様を見ずに、その養い手ばかり見ていると、特定の養い手に依存したり、他の養い手の違う意見や振る舞いにつまづいたりするのです。自慢の種は時としてつまづきの種にもなるのです。しかしその養い手たちが神様からのものだと踏まえると、様々な意見や違う振る舞いも、私が今後歩む上での豊かな判断材料としての「肥やし」になるのです。

クリスチャンらしくふるまうとは、無理して頑張って良い子を演じることではありません。それこそ違和感だらけになります。力を抜いていつも神様に向いて聞いて従う。リラックスして何でも話す(祈る)。失敗しても、つまづいても、そこからまた始めればいいのです。神様こそ私を創造し、私の価値を認め、私を愛し、共にいて養い続けてくださるお方なのですから。

次週の礼拝は9月4日(日)。創世記に戻りますがちょっとその前に。マタイによる福音書第11章28節〜30節から、「魂に至る休み」と題してメッセージです。

神の奥義。御霊によって悟る

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雄大な自然公園にはレンジャーという案内人がいます。レンジャーから草木の名前や動物の営みを教えてもらいます。それまでも私たちは自然に囲まれて生きていましたが、実際に自然の中に足を踏み入れ、自然を体感することであらためて自然の素晴らしさ、豊かさ、大切さを感じます。そして今まで以上に自然を身近に感じながら生活するようになります。さて、8月14日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第2章6節〜16節から、「神の奥義。御霊によって悟る」と題してメッセージでした。奥義とは外からはわからないけれども中に入ればわかる世界です。では神の奥義とは?そして神の奥義にはレンジャーのような案内人がいます。一体誰か?

神の奥義。それは栄光に至る救いの世界

パウロは先に、神の奥義の入り口は「十字架につけられたキリスト」だと語りました。このキリストを私が信じるだけで神の奥義に入れました。この世の知恵は必要ありません。しかし、神の奥義に入った「円熟している者の間では、知恵を語る」と記します。外からはわからないけれど中に入ればわかる知恵。キリストに信頼しない限りどんなに頑張っても見えず、聞こえず、思い浮かびもしない神の知恵。それが天地創造の初から続く、神様の救いの計画であり、神様の祝福の世界です。私たちは一言で「救い」と言います。「救われました」と言います。しかし救いがどれほどのものか理解しているか?パウロはここで、私たちが救われて、神様から受ける「栄光」について触れます。この栄光は、キリストが地上に来られる前にもっておられた栄光であり、キリストが地上に来られて十字架で死んで三日目によみがえり、40日後に天に上って受けられた栄光でもあります。つまりキリストにあるダブル栄光を救われた者にも与えてくださるのです!これ、半端ない救いじゃないですか?パウロはここで神の奥義の全てを語ったわけじゃありません。聖書全体がこの奥義を語っています。だから聖書全体を理解する必要がある。そのために必要なのが案内人です。

神の御霊が案内人

「神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さった」とパウロは記します。「啓示」とは、今まで隠されていたものが明らかになる、ということです。奥義がわかる、ということです。御霊は復活したキリストの霊、神の御霊、聖霊とも呼ばれるお方。この御霊が「十字架のキリスト」を信じた私を迎えて下さり、神の奥義を案内して下さいます。私は琵琶湖の近くに住んでいます。高校や大学のボート部が練習しています。漕ぎ手は進行方向に背を向けて座ります。前が見えません。しかしボートの最後尾に舵手(コックス)が進行方向に座って指示を出してくれるので、ボートは目標に向かって進むことができます。御霊の案内はこれに似ています。私たちには将来は見えません。見えるのは今か過去かです。しかし御霊によって聖書を読み進めると、過去に書かれた聖書の中に未来のゴールを見ることができる。スタートからゴールまで、天地創造から栄光に至るまで、壮大な救いと祝福のストーリーを見渡すことができるのです。それだけではありません。壮大な救いと祝福のストーリーは私たちの日常生活からかけ離れたものではなく、実は身近なものとしてあることも悟るのです。

神から賜った恵みを悟る

「わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜った恵みを悟るためである」。恵みとはあってもなくてもいいものではありません。私たちが生きる上で絶対に必要なものです。ダブル栄光に至る永遠の命もそうです。また私たちを取り囲む天地万物もそうです。また結婚を通して、家族の絆を通して、神様の命と知恵と愛を地に満たしていく営みもまた恵みです。つまり私たちにとって身近な存在が神から賜った恵みそのもの。実はすでに私たちを取り囲んでいたものばかり。でもどうです?私たちにとって身近な存在を疎ましく思ったり、傷つけたり、傍若無人にふるまって破壊したりしていませんか?今まで神様の恵みだなんて思ってもみなかったもの。恵みとして扱っていなかったもの。しかしそれを、「十字架のキリスト」を通して神の奥義に入り、御霊の導きによって、「神から賜った恵み」として再発見していくのです。そうやって過去の恵み、すでにある恵みを再発見し大切にするところに、将来の恵み、新しい恵みの新発見もあるのです。天地創造から栄光に至る、神の奥義の壮大で、豊かで、すばらしい世界をあらためて身近に体験していけるのです。

8月28日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第3章1節〜9節から、「霊の人として育ちなさい」と題してメッセージです。

教団青少年室主催「出会いのキャンプWEST」

8月11日(木)〜12日(金)は日本イエス・キリスト教団青少年室主催「出会いのキャンプWEST」でした。会場は先週に引き続き湖西教会と湖西祈りの家。私は会場教区の窓口として9日(火)からオプションキャンプの13日(土)まで奉仕でした。また同じ時期「出会いのキャンプEAST」も福島県須賀川市にある須賀川シオンの丘で行われました。

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天授ヶ岡教会から参加した青年も演奏に加わりました。

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参加者100人以上!礼拝堂によく入りました。

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ハングアウトで「出会いのキャンプEAST」ともつながりました。

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台湾の青年たちも参加。交流のひととき。

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主講師は横田法路先生(福岡教会)。

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湖西祈りの家に大人100名でゲーム。なかなか壮観!

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かき氷機も大活躍。

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土曜日のオプションキャンプでは魚採り体験。意外にも「魚採りはじめて!」という人が多かったような。

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採れた中から食べられそうな魚やエビを分けて素揚げにして試食しました。

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京都教区ティーンズ・バイブル・キャンプ

8月2日(火)〜5日(金)まで京都教区ティーンズ・バイブル・キャンプでした。会場は滋賀県高島市新旭町にある湖西教会と、教会に隣接する「湖西祈りの家」。

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若いスタッフたちのリードで賛美。ティーンズのキャンパーたちもボーカルや演奏に加わります。

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ゲームもあり。

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バイブルタイムのメッセージは私。

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食事は外で。これがまた気持ちいい!

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釣りの好きな方からの差し入れ。釣りたて。骨も柔らか。そして甘い!丸ごといただきました。

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川遊びもみんなの楽しみの一つ。安曇川の清流でまったりと。

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神の奥義。十字架のキリストから

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奥義とは、外からはわからないけれども中に入ればわかる、その世界の豊かさ素晴らしさです。聖書の奥義は、神様の救いと祝福の世界と言えます。パウロはコリント人への第一の手紙第1章で「神の力」について記しました。神の力は「十字架の言」です。十字架の言は「十字架につけられたキリスト」です。この十字架のキリストが「神の奥義」への入り口です。パウロはコリント人への第一の手紙第2章から「神の奥義」について触れていきます。ということで、8月7日(日)の礼拝は、「神の奥義。十字架のキリストから」という題でメッセージでした。

入り口は十字架につけられたキリスト

パウロは「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかし(奥義)を宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心し」ました。パウロはコリントに来る前にアテネで宣教しました。知恵と言葉を尽くして神の創造からキリストの復活へ話を進めようとしましたが、人々は途中で離れていきました。そこでコリントではずばり「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかし」しました。私はクリスチャンでない方の臨終間近に立ち会うことが何度かありました。いずれの方も「もう動けない」「意識がない」「反応がない」と言われていました。私はその方々の耳元で「キリストがあなたの罪のために十字架にかかられました。キリストをあなたの救い主だと信じて下さい。そうすれば天国です」と語りました。ある方は安らいだ表情になり、ある方はうなり声で応答しようとし、ある方は体を何とか動かして洗礼の意思表示をされました。その姿を見て、「人は、今まで積み上げてきた世の中の知恵や経験や富や権力が何も通用しないとき、何はなくても、十字架のキリスト、神の力、神の奥義を求めている」と思わされました。しかしどんなに若くても、元気でも、何はなくてもすべての人に十字架のキリストが必要です。そこに全てがあるから。朽ちることのない神の知恵、神の力、救いと祝福の世界があるからです。

入り口の鍵は弱さの自覚とキリストへの信頼

パウロはコリントの人々に十字架のキリストを語っただけではなく、同時に彼も十字架のキリストを深く知ることになりました。彼はコリントに来たとき「弱くかつ恐れ、ひどく不安」でした。復活のキリストに出会って劇的改心したパウロ。危険や迫害を顧みず宣教旅行に出かける信仰の猛者。学識も経験も豊富でした。しかしそんなパウロでも弱り果てた。アテネのことが落ち込む原因?しかしそんなとき、キリストの語りかけがあった。「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている」。華々しい奇跡が起きたわけではなくキリストの言葉があった。この言葉でパウロは生き返り、コリントに教会が誕生しました。これが「(復活されたキリストの)霊と力の証明」でした。私はかつて、世の中がもてはやす知恵や権力を無自覚に振り回し、やれ信仰だ!奉仕だ!伝道だ!と拳を振り上げていました。それが家族や周囲を傷つけ、間違った聖書や教会や神様のイメージをすり込むことになりました。そして自分も深く病んだのです。しかし世の中がもてはやすものに影響されないほど弱り果てたとき、十字架のキリストが重なってきた。それだけではなく、復活されたキリストの霊と力も知るようになりました。華々しい奇跡ではなく聖書の言葉を通して。いかに神様が私を愛しておられるか。いかに自分を愛し隣人を愛するか。いかに神様の恵み、救いと祝福を喜び楽しみ分かち合うか。こうやって毎週メッセージできるのも奇跡。「霊と力の証明」がここにもあるのです。

私は「十字架のキリストを体験するために弱り果てなさい!」と言いたいのではありません。どんな知恵や経験や富や権力も全く通用しない事が起こる今の世の中です。何もあてにできず弱り果ててしまいやすい私たちです。だからこそ、いつも、何度でも、自分の弱さを認め、キリストに信頼するのです。そうすれば神の奥義の入り口は開き続け、奥義の中へ分け入ることができるのです。

ということで、8月14日(日)は、コリント人への第一の手紙第2章6節〜16節から、「神の奥義。御霊によって悟る」と題してメッセージです。

自分を愛するように隣り人を愛する

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5月の礼拝で「自分を愛するように」というメッセージをしました。7月31日(日)の礼拝はその続き。マタイによる福音書第22章34節〜40節から「自分を愛するように隣り人を愛する」という題でメッセージでした。神様は心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、私たちを神のかたちとして創造してい下さいました。しかし私たちは神様に向かず、聞かず、従わず、罪人でした。それでも神様は、イエス様を遣わして救いを用意し、私が救いを受け取れば、神のかたちを回復するだけではなく、神の子という立場さえ与えてくださいます。それが神様の愛。その愛がわかるなら私もその愛で自分を大切にすべきです。そして私の隣り人も神様に同じ愛で愛されている。ならば隣り人も同じ愛で大切にすべきです。でも具体的にどうすることが愛することなのか?

自分がしてほしいと望むことをする

「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。これは黄金律と言われるイエス様の言葉です。今の世の中、様々な人間関係の歪みがあります。家庭にも教育現場にも職場にも。そして愛を感じることなく、愛することもわからずに、疎外感を持っていることはないですか?そういう中で自分が受けた傷を思い出してみる。あんな言葉、こんな態度、そんな仕打ち。その時の自分の悲しみ、怒り、辛さ。さらにはその時、自分にしてほしかった言葉がけ、態度、振る舞いを考えてみる。そしてその言葉がけ、態度、振る舞いを隣り人にするのです。また自分が自分を大切にしていることはないか考えてみる。おそらく一つや二つあるものです。それを隣り人にも分かち合う。しかし隣り人にとっては良くないこともあるかもしれません。「それは結構です」と言われることもあるかもしれません。その時は無理強いしない。自分も強要されるのは嫌だし、「私の好意が受け取れないのか!」となると脅迫です。その隣り人に分かち合えるものが他にないかまた考えてする。それを受け取ってもらえたら「素直にうれしい」とし、受け取ってもらえなかったら「気持ちよく断れる関係を大事にできた」とする。どうです?自分がしてほしいと望むことを、隣り人を自分のように考えながらすることになっていないですか?しかもこれらのことは隣り人が誰であっても応用できるのではないでしょうか。

愛は意思に基づく行動です

「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである」「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」。これらの言葉はイエス様の最後の晩餐の時の言葉です。当時、足を洗うことは家に帰ればまずすることでした。そしてもっぱら奴隷の仕事でした。しかしイエス様は弟子たちの足を洗われました。だから「足を洗い合うことが愛し合うことだ!」というのではありません。一癖も二癖もある弟子たち。ほぼ全員イエス様を裏切る弟子たち。弟子たちを感情で受け止めていたら切れるか、鬱になるか、疲れ果ててしまいます。しかしイエス様は彼らを「最後まで愛し通され」ました。それは感情よりも、「足を洗う」ことも含めた、十字架に至る意思に基づくイエス様の行動を指しているのです。「足を洗う」ことは誰にでもできます。奴隷がするものと決め込んでいただけです。誰もがしてほしいと思っているのに、誰でもできるのに、誰もやりたがらないこと。私たちの身近にもこういうことがないですか?「自分にしてほしいと望むこと」に少しプラスして「誰もがしてほしいのに、誰でもできるのに、誰もやりたがらないこと」をする。妻に、夫に、子どもに、親に、生徒に、先生に、部下に、上司に、好きな人に、苦手な人に、さらには敵に。私の隣り人がどんなに入れ替わろうとも私のすることは変わらない。どうです?私と隣り人の関係から小さな平和が始まりませんか?

私たちは大きな声や拳や武器を振り上げて大きな平和を求めます。でも一番身近な平和をつくりだしているか?神様は心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、私を創造し、イエス様は私を救い、聖霊様は私を日々助けて下さっています。これが神様なりの私への愛です。そんな私には私なりの隣り人への愛があるはずなのです。

8月はコリント人への第一の手紙に戻ります。


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