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最暗黒に光

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11月27日(日)はアドベント第一週礼拝でした。アドベントとは「到来」を意味します。何の到来か?キリストの到来です。二千年前、ユダヤ人の多くがキリストの到来を待ち望んでいました。そんな二千年前の人々と世界に思いを馳せて私たちもキリストの到来(誕生を記念するクリスマス)を待ち望みます。これがファーストアドベント。そしてもう一つの到来を待ち望みます。キリストの再臨です。それがセカンドアドベント。アドベント第一週礼拝からクリスマス礼拝まで、ろうそくを毎週一つ、二つ、と灯していきます。それはキリストの到来を待ち望む信仰の灯火を象徴します。どんな信仰の灯火か?ということで、マルコによる福音書第13章5節〜27節、ルカによる福音書第2章8節〜12節から、「最暗黒に光」と題してメッセージでした。

目をさます

二千年前。ローマの平和といわれた時代はユダヤ人には暗い時代。ローマとヘロデの支配から解放するキリストを待ち望んでいました。聖書もキリストの到来を預言していました。そんな暗い社会の底辺に羊飼はありました。彼らは安息日も昼夜もなく羊の世話をしなければならず、社会的に良い待遇にありませんでした。しかし彼らもキリストを待ち望みながら、いつものように夜、羊の番をしていました。そしてそれは突然やってきました。みんな待ち望んでいたけれど突然。それと同じようにキリストの再臨も必ずあります。聖書はそれを預言しています。しかしいつかは正確にわかりません。だからといって何もしないで待っているのではなく、キリストの再臨を期待しつつ、いつもの仕事や生活を営み続ける。それが「目をさます」ということです。

恐れない

暗闇の中の羊飼に御使がまばゆい光と共に現れました。御使の第一声は「恐れるな」。恐れとはあり得ない事態を引き起こすものです。今の世界はキリストが語った世の終わりの前兆と酷似しています。偽キリストがたくさん現れています。戦争も地震も飢饉もあちこちで頻発しています。お互いや民族や国が敵対し混迷を極めています。人々の恐れは増大し、あり得ないようなことが次々に起こり、暗黒が広がっています。そして暗黒に慣れてきているのではないですか?カラ元気で恐れは消えません。今がどんな時代でこれからどうなっていくか、聖書が教えてくれます。備えることができます。備えあれば憂いなし。目先の暗黒を恐れないで、聖書の言葉に信頼し、その先にあるキリストの再臨を待ち望むのです。

喜ぶ

御使は「大きな喜び」を持ってきました。しかしいきなり「きょう」でした。羊飼はそれを素直に受け取りました。私たちがいつもの生活を営み続けるためにも、暗黒を恐れないためにも、喜びがあればなお心強い。そのためにはキリストがファーストアドベントで用意してくださった救いを、私たちが素直に「きょう」受け取ることです。暗黒は私たちの心にあるもの。そして外へ広がるもの。しかしキリストの救いは私たちの心を照らし、私たちの永遠の祝福をも照らし出します。備えあれば喜びあり。キリストの再臨には誰もがわかる天体の現象が起きます。最暗黒の時を迎えます。救いの喜びがない人には最高に恐ろしい時となりますが、救いの喜びがある人には最高に「大きな喜び」の時となるのです。

しるしを心にとめる

御使は誕生したキリストの姿(しるし)を羊飼に伝えました。羊飼は御使が言った通りのキリストを探し出しました。そこには絢爛豪華な宮殿も強大な軍隊もありませんでした。当時の人々がイメージしていたキリストとは全く違いました。しかし羊飼は満足でした。御使が言った通りだったからです。キリストの誕生もこの世界の有様も聖書の言う通りになっています。キリストの再臨も聖書の言う通り、必ず現実のものとなります。ですから私たちは聖書が言うキリストの再臨の姿をいつも心にとめるのです。私たちが探しに行く必要はありません。キリストが私たちを召し集めてくださいます。目をさます灯火、恐れない灯火、喜ぶ灯火、しるしを心にとめる灯火を掲げる私たちは、キリストの栄光と一つにされて、新しい世界に生み出されるに至るのです。

12月4日(日)はアドベント第二週礼拝です。マタイによる福音書第1章1節〜17節から、「クリスマス序章」と題してメッセージです。

収穫感謝礼拝

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11月25日(金)は天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝礼拝でした。

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みんなが持ち寄った果物や野菜がズラ〜リ!

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元気に歌を歌ってくれました。

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先生の楽しいエプロンシアター!

私もメッセージをさせていただきました。

マルコによる福音書第4章8節「他の種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

私は荒れ地を開墾して畑を作っていたときがあります。稲の手植えや手刈りを手伝ったこともあります。そんな話しも交えながら…。まずは土を耕します。肥やしをやります。種を蒔きます。水をやります。芽が出て、葉が出て、茎が伸びて、花を咲かせます。花が散って終わり?ここからです。実がなります。収穫です。口から食べます。体が元気になります。体が成長します。みんなが持ってきてくれた果物や野菜(やお米や麦)は、神様が与えてくださった、みんなの体の成長にとって大切な収穫です。食べる前にいつも神様に感謝(農家の方々にも感謝)したいですね。

もう一つ。みんなの心の成長にとって大切な種があります。それが聖書。神様の言葉がいっぱい詰まっています。園長先生も毎週の礼拝で聖書からお話しくださっていますね。聖書の言葉は耳から入って、心に植えられます。みんなの心が畑。どんな実がなるのか?成長があるのか?勇気。悪いことを悲しみ、良いことを喜ぶ「勇気ある人」になります。素直。自分が間違っていたりお友達とケンカしてしまったとき、「ごめんなさい」とあやまる「素直な人」になります。親切。悲しんでいる人を慰め、困っている人を助ける「親切な人」になります。信頼。約束したことをきちんと果たす「信頼される人」になります。愛。そうやって、どんな人とも良いお友達になる「愛の人」になるのです。

神様が与えてくださった美味しい食べ物を、口から、しっかり食べて成長してください。神様が与えてくださった聖書を、耳から、しっかり聞いて成長してください。体と心の成長と祝福をお祈りします。

強化される祝福

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神様から人間への最初の祝福はこうでした。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。…わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう」。しかし人間は祝福を全地へ広げず、逆に暴虐を全地に広げました。破滅した世界は洪水でぬぐい去られました。神様は箱舟を用いて、ノアとその家族、そして動物たちの命を持ち運び、再出発をはかられます。その時、神様は再び祝福して彼らを新しい世界へ送り出されました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。」最初の祝福と今回の祝福はどう違うのか?ということで11月20日(日)の礼拝は、創世記第9章1節〜17節から、「強化される祝福」と題してメッセージでした。

念押しされる祝福

ノアたちが箱舟から出て最初にしたことは、神様への燔祭(火で焼く献げもの)でした。神様は「その香ばしいかおりをかいで」今回の祝福をのべられました。その中で、人間に支配される生き物も、人間に対して「恐れおののいて」従うようにされました。また「すべて生きて動くもの」を食物として与えられました。神様が肉を食べたからか?洪水前の人々が秩序を乱して肉食が始まっていたからやむなく追認されたのか?聖書は肉食を奨励しているのか?いえいえ。神様は人間の親のような気持ちで語っておられるのです。神様が肉を焼く香ばしいかおりを受け入れられたから、人間にも肉を食べることを許された。人間が新しい世界で生き物を治め始めるが、生き物もそれに協力して従ってほしい。より豊かな祝福をより確かにするための念押しをなさっているのです。

委ねられた祝福

今回の祝福には追加事項があります。「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人をつくられたゆえに。あなたがたは、生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」。人の血を流すものに神様が報復すると言われます(動物の命についてはまた別に)。しかし命を奪ったものは「人に血を流される」とも言われます。どっちやねん?神様は、アダムが自分の身を隠したとき「あなたはどこにいるのか」と求められ、カインがアベルの命を奪ったときカインに「アベルはどこにいるのか」と求められました。命は本来あり続け増え続けるもの。隠したり奪ったりするものではありません。だから神様は命を奪うものに、奪った命を求められます。そして今回から、人間自ら命を大切にし守り増やす、強い自覚を持ってほしいと、親が子に大切な仕事を少しずつ任せるように、大事な権限を人間に委ねられたのです。

しるしで現される祝福

ここで、今後水によっては世界を滅ぼすまいとする契約として虹がしるしとなります。虹というしるしは洪水からの救いを意味します。聖書はこのような「しるし」を通して与えられる救いと祝福を記し続けます。鴨居に塗られた血、掲げられた青銅のへび、祭壇に注ぎかけられた動物の血、そして十字架…。また水を経ることで与えられる救いと祝福を記し続けます。幼子モーセの救出、出エジプトの紅海渡り、カナン入りのヨルダン川渡り、ヨハネの水によるバプテスマ…。「災い転じて福となす」という言葉がありますが、神様の祝福はどんなことがあっても弱まることはありません。私たちがどんなに失敗してもあきらめず救い出し、わが子のように教え諭し委ね、祝福をより強くより確かにより豊かに、神様と私たちの関係もより太くより近くより似たものにしようとされるのです。あくなき神様の熱心と愛に感謝したいと思います。

11月27日(日)は待降節(アドベント)第一週礼拝。マルコによる福音書第13章5節〜27節、ルカによる福音書第2章8節〜12節から、「最暗黒に光」と題してメッセージです。

滅びのただ中にある救い

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私が中学生の頃は冷戦時代。いつ第三次世界大戦や核戦争が起こるかわからないという緊張感が漂っていました。そんな折、当時の世界と黙示録の世界を照らし合わせ、終末時代に起こる様々な艱難の前にキリストの再臨があり、その時に空中携挙されるように、地上に取り残されないように、という話しをよく聞かされました。私は「どんなクリスチャンが空中携挙されて、どんなクリスチャンが取り残されるのか」不安で夜も眠れませんでした。空中携挙の時期についてはいろいろ解釈が分かれるところです。しかし解釈ではなく、聖書がどんな現実を繰り返し記しているかが大切です。ということで、11月13日(日)の礼拝は、創世記第7章1節〜第8章22節から、「滅びのただ中にある救い」という題でメッセージでした。

神に認められるところに救いがある

「主はノアに言われた、『あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである』」。ノアは「全き人」「正しい人」と記されます。それは完全な人というより神様に向いて聞いて従う人。神様の恵みを受け取って生きる人です。ノアは600年間(6章から100年が経過)、暴虐が満ちて破滅していた社会のただ中で、そのように生き、神様と共に歩み続けました。つまり神様を認め続けた。だからこそ神様もノアを認め続けられました。お互いの関係は認め合うところにあります。箱舟の入り口は雨が降り出したその日まで開いていました。ノアと同じように、神様を認める人があれば誰でも乗り込むことができました。しかしそんな人は一人もいませんでした。ノアも他の人々も同じ世界に生き、同じ箱舟が間近にあり、同じ洪水を体験しました。しかしノアは生き、他の人々は滅びました。その違いは神様と人、お互いが認め合っていたか否かなのです。

神に記憶されるところに救いと祝福がある

「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた」。箱舟の外側では滅びが進行中でした。箱舟の内側では新しい世界への新しい命が育まれていました。箱舟は胎内のような、ゆりかごのような役目を果たしていました。「心にとめる」という言葉は「記憶する」ということです。この言葉は救いや祝福と深い関わりがあります。「神はその人を心にとめられ、滅びる町から救い出された」とか、「神は彼女を心にとめられ、子どもを宿らせられた」というようにです。またキリストが十字架にかかり苦しまれている中、隣りの強盗はこう言いました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。キリストは答えます。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」。神様に記憶されるとは、その命が神様の前にあり続けることを意味します。神様と人、お互いが認め合い、記憶するとき、そこがたとえどんなところであろうとも、そのただ中に救いと祝福のわざがあるのです。

神に感謝するところに救いと祝福の更新がある

「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはない」。ノアたちは1年と十日して地面に降り立ちました。ノアが最初にしたのは神様に感謝を献げること。神様はその献げものの香りをかいで祝福を更新されます。「上の水」がなくなり、大陸も隆起沈降し、どこへ行っても温暖とはいかなくなりました。大気の大循環が始まり、暑さ寒さ、季節の変化、虹の出現をもたらしました。神様の創造世界は、最初の豊かさこそ失いましたが、それでも壮大で美しい山や渓谷、多様な生活を生み出し、石炭や石油をももたらしました。さらにはキリストの救いを用意されました。しかし私たちは、それらのものを神様に感謝しているか?感謝しないで、自然を破壊し、化石燃料を燃やし、悪をはびこらせ、暴虐を地に満たし、キリストの救いを拒否していないか?この世界はやがて火によってぬぐい去られる日が来ると聖書は記します。私たちは、艱難の前に携挙されるか後に携挙されるかが問題なのではありません。ノアを初め聖書に記された先輩たちは、艱難に遭遇し、艱難のただ中を生きました。問題にすべきは、たとえどんな中であろうとも、神様を認め感謝しているか、神様に認められ記憶されているか、なのです。そこに救いがある。そこに祝福があるのです。

11月20日(日)の礼拝は、創世記第9章1節〜17節から、「強化された祝福」と題してメッセージです。

 

神の言葉に従い抜く

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創世記から、神様に向いて聞いて従うことの大切さを学んできました。それがいかに自然かも学んできました。しかし私たちは神でないものとその言葉に取り囲まれ、神でないものに向いて聞いて従うことがあたかも自然であるかのように思えてきてしまいます。そこでノアの生き方に学びたい、ということで11月6日(日)の礼拝は、創世記第6章9節〜22節から、「神の言葉に従い抜く」と題してメッセージでした。

状況に左右されない生き方

ノアのひいおじいさんのエノクは「神とともに歩み」「神が彼を取られ」ました。神と共に生活し、神に受け入れられた、ということです。そしてノアも「神とともに歩」みました。ノアが生きた時代、地には暴虐が満ちていました。破滅していました。今の時代はどうですか?私たちの社会もここ数十年で目まぐるしく変化し、価値観は多様化し、善悪の判断も難しくなり、様々な犯罪が横行し、混沌としてきました。たかだか数十年。しかしどう生きていけばいいか迷わずにはいられないのではないでしょうか。そこでノアの生き方です。ノアは500年間!破滅した社会の中で、破滅に染まらず正しく生きました。聖書はノアを「全き人」と記します。完璧な人というよりも「主の前に恵みを得」る人、「神の命じられたように」する人。つまりノアはどんな状況にも左右されず、神様に向いて聞いて従ったのです。

経験に左右されない生き方

神様はノアに箱舟を造るように言われます。箱舟は「かご」とも訳せる言葉で、ものを入れて浮かばせる器。当時は「上の水」が地球を覆い、大陸も大きなかたまりでなだらか、地下水がわき上がり、どこへ行っても温暖・湿潤、気温や気圧の変化も雲の発生や雨も少なく、船を運搬や交通の手段とすることはあまりなく、ましてや避難用の船の発想はなかったと考えられます。船があれば箱舟を造れとは言われません。当時の社会からすれば常識外れな箱舟を地面の上に造ることは、これまた常識外れなことでした。しかしノアは見たことのない箱舟を造り始めました。あなたならどうします?社会の常識や自分の経験と真っ向から対立する神様の命令に従えますか?イスラエルの民はいつもこの点で失敗しました。単なる経験だけではなく、信仰的経験が神様の「時の声」を邪魔することもある。しかしノアはどんな経験にも左右されず、神様の言葉に従ったのです。

神様と人との共同作業の恵み

神様は独りで、当時の世界の終わりと新しい世界への救いを実行しようとはされませんでした。いや世界はすでに人間によって破滅していました。神様は新しい世界への救いに力点を置いておられます。そしてそれをノアと共に実行しようとされました。ノアは「神のかたち」。「神のかたち」は滅びるためにあるのでも、滅ぼすためにあるのでもありません。神様からの命と支配と愛を地に満たすためにある。神様独りでもできることですが、「神のかたち」であるノアと一緒に救いと祝福の更新という作業に取り組みたかったのです。ノアより後、「契約」という言葉が使われます。契約が更新される度に、神様がなさっていたことを少しずつ、ノアやアブラハム、ヤコブやダビデ、さらに預言者へ、権限委譲していかれます。そして神様の権限が全て委譲されたのがイエス・キリストです。神様と「神のかたち」がそこでピタッと重なるのです。ノアの箱舟はやがて新約聖書でキリストの救いのひな形として語られます。

創世記から黙示録まで変わらない唯一の生き方、創世記から黙示録まで常に試される生き方、それが神の言葉に従い抜くこと。ノアはそれに徹しました。それは苦行ではなく、命あふれる救いと祝福を経験し続ける恵みなのです。

11月13日(日)の礼拝は、創世記第7章1節〜22節から、「滅びのただ中にある救い」と題してメッセージです。

 

バーベキュー昼食会

10月30日(日)の礼拝後、天授ヶ岡幼稚園の園庭をお借りしてバーベキュー昼食会を行いました。

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賛美でスタート!

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燻製機も登場。

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モリモリ食べて…

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たくさんしゃべって、くつろいで…

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おいしくて楽しいひとときを感謝!

赦すこと−わたしたちにできること−

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「主の祈り」の中に「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という文言があります。私はここを祈るとき二つの抵抗を感じました。一つは、「赦すから赦してください」ではなく「赦されたから赦します」なのでは?二つ目は、私に罪を犯す人を私は本当に赦せるか?赦しがたい事件が頻発しています。もし自分が被害者になったら?家族が犠牲になったら?赦せるか?今ほど赦すことが難しい時代はないのではないかと思います。しかし今ほど真の赦しを必要としている時代もないと思うのです。ということで10月30日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章1節〜35節から、「赦すこと−わたしたちにできること−」と題してメッセージでした。

罪の自覚があるところに赦しがある

18章には一つのテーマが流れています。それは「その人の救い」です。その前半部分には二つの内容が含まれています。一つ目は「天国で誰が一番偉いか」。弟子たちの質問にイエス様は「心をいれかえて幼な子のようになる人」「幼な子のように身を低くする人」「わたしを信ずるこれらの小さい者」だと言われます。そしてそのような人をつまずかせる人は「大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる」「あなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命にいる方がよい」と言われました。イエス様は残酷ですか?前半部分の二つ目は罪を犯した兄弟(クリスチャン)への対応です。クリスチャンは罪を犯す必要はありませんが犯すことはできます。しかしそれは「心をいれかえた」「身を低くする」イエス様を信じる小さい者をつまずかせることになります。罪を犯すクリスチャン自ら地獄の火に身を投ずることになります。クリスチャンは地獄に行く必要はなくなりましたが行くことはできる。しかし放ってはおけません。まずは一対一で忠告する。それがダメなら二三人で、それでもダメなら教会全体で。それでもダメなら「異邦人または取税人同様に扱」う。教会は冷たいですか?イエス様も教会も残酷でも冷酷でもありません。18章のテーマは「その人の救い」です。ここで大事なのが罪の自覚。罪の自覚なくして、心を入れかえることも、身を低くすることも、イエス様を信じることも、忠告されて罪を受け入れることも困難です。罪の自覚なくして救いも赦しもないのです。イエス様の厳しい言葉も、教会の最後の対応も、その人を滅ぼすためではなく、その人の救いのために、どれほどの罪があるか、自覚を促しているのです。

赦しのあるところに自由がある

18章の後半部分。ペテロが質問します。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。当時のユダヤ教では七は完全数、そして「三回まで、兄弟に罪の赦しを請うことができる」と言われていました。ペテロは質問と共に、赦しについて完璧な答えを添えたつもりでした。しかしイエス様は「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。490回赦せと言うのではなく何度でも赦せと言うことです。そこでたとえ話です。一万タラント負債のあるしもべが主人の前で「お待ちください!返します!」と懇願しました。その懇願する姿を見て主人はしもべを赦しました。しもべが外へ出ると百デナリ(一万タラントの60万分の1)貸していた仲間に出会います。しもべは仲間の首を絞めて「借金返せ!」。仲間は「待ってくれ!返すから!」と懇願しますが、しもべは仲間を獄に入れてしまいます。その話を聞いた主人は立腹してしもべを獄に入れました。しもべは自分の負債で自由を失ったのではなく、仲間を赦さないことで自由を失いました。私たちも同じようなことをしていないか?私が相手を「ゆるせない」と言うとき、相手の罪を私がぎゅっと握っているようなもの。「腹が立つ!憎らしい!」となると、ますます相手の罪に私が縛られていくのです。自分の罪も処理できないのに。罪はイエス様が十字架で処理してくださった。私は罪を自覚し悔い改めただけ。ならば相手も罪を自覚し悔い改めてくれればそれでいいのです。では罪の自覚も悔い改めもないなら?赦すことは成立しませんが赦す準備は怠らない。どうしてそれが罪なのか検証しておく。今まで相手とどのように関わってきたか、これからどう関わるか、考えて行動を変える。そのためにどんな助けが必要か周囲の人に表明する。そして相手の祝福を祈る。相手の救いのために、私が相手の罪から自由でいられるために。

「主の祈り」の先ほどの文言には別の訳があります。「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」。赦されたから赦します。赦すから赦してください。両方あり。赦し、赦され、赦され、赦す。憎しみや復讐の連鎖ではなく赦しの連鎖。実は「主の祈り」の中で、私たちの唯一の行いとして記されているのが「赦すこと」なのです。赦すことが神様の御前にどれほど大きな事かわかりませんか?私たちは、赦される喜びと共に、赦す喜びをますます体験したいものです。

11月6日(日)の礼拝は、創世記第6章9節〜22節から、「神の言葉に従い抜く」と題してメッセージです。


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