カテゴリー

家畜小屋に輝くいのち

クリスマスといえば何か温かいものを感じませんか?柔らかくまたたくイルミネーション。愛や優しさを語る歌。大事な人とのディナーや笑顔はじけるプレゼント交換。でも、なぜ、そうなるのか?ということで、クリスマス礼拝ではルカによる福音書第2章1節〜7節から、「家畜小屋に輝くいのち」と題してメッセージでした。

ファーストクリスマス

二千年前。ローマ帝国は国勢調査を進めていました。人々は出身地へ戻って住民登録です。そのため人々の大移動でごった返していました。キリストの両親ヨセフとマリヤはナザレという町に住んでいましたが、ヨセフがベツレヘム出身でした。ナザレからベツレヘムまで100キロ以上の道のり。身重のマリヤには辛い旅。ベツレヘムに着いてもきちんと泊まれるところもありません。暗く、冷たく、衛生的とは言えない、家畜小屋(洞穴だったとも)での出産となりました。しかしそこが、たとえどんな場所であっても、ものともしないいのちの誕生と喜びがありました。これがファーストクリスマス。このいのちがイエス・キリスト。キリストは30年後、人々の妬みのために十字架で殺されました。しかし復活。さらに昇天。どんなものを持ってしても、キリストのいのちをかき消すことはできませんでした。死を打ち破って輝き出しました。どんなものを持ってしてもかき消すことのできない、永遠のいのちと復活と天国の喜びがキリストにあるのです。だからクリスマスは、光にあふれ、喜びにあふれているのです。しかし世の中のクリスマスは季節が過ぎれば、衣替えをするように終わるのではないでしょうか?私たちはファーストクリスマスを知るだけではなく、セカンドクリスマスを迎える必要があります。

セカンドクリスマス

私が高校1年生の時、クラスの友人たちがクリスマス会を開いてくれました。プレゼント交換することになりました。私は母が誰かからもらったきれいな刺繍入りの真っ赤なスポーツハンカチを持っていくことにしました。透明なケースに入っていたので見えないように紙袋に入れました。途中雨に降られ紙袋はグシャグシャ。会の最後、いよいよプレゼント交換。ジングルベルを歌いながらプレゼントを回していきます。紙袋も指でつままれて回っていきます。ある友人が「うわ〜、何これ〜、これには当たりたくないわ〜」。しばらくしてストップ!なんと紙袋は先ほど叫んだ友人の手にありました!彼はしぶしぶ中のプレゼントを取り出しました。すると見る見る表情が変わって「うわー!何これー!前からほしかったスポーツハンカチや!誰がくれたん!?」。私が苦笑しながら手を挙げると友人は駆け寄ってきて「めっちゃうれしい!ありがとう!」と、お礼を言ってくれました。紙袋の中のプレゼントは、家畜小屋の中のキリストに似ています。キリストは何のために生まれ、十字架に死に、復活昇天されたか?それは私たちの内に来て、永遠のいのちと復活と天国の祝福をもたらすため。キリストこそ神様から私たちへの最高のプレゼント。でもそれを自分のものとして受け取らないとわからない。受け取ってはじめて、外側だけのクリスマスではなく、本物のクリスマスが味わえる。いつまでも消えることのないいのちの喜びがある。それがあなたのセカンドクリスマスなのです。

家畜小屋に輝くいのち。それがファーストクリスマス。あなたの内にこのいのちはありますか?

次週1月1日(日)は元旦礼拝。マタイによる福音書第6章25節〜34節から、「生活の順番」と題してメッセージです。

クリスマス礼拝と祝会

12月25日(日)はクリスマス礼拝と祝会でした。たくさんの方々とイエス様の誕生を祝い、神様からの救いのプレゼントを喜びました。

エレキ、ドラム、キーボード、オルガン、そして様々なパーカッションで「ブラジル」クリスマスアレンジの演奏。

あらゆる世代が参加した聖歌隊。「われらは来たりぬ」を賛美。

礼拝堂はほぼいっぱい。

祝会は幼稚園の二階をお借りして持ち寄り昼食会。

クリスマス礼拝が今年最後の礼拝でもあり、祝会では1年を振り返って一人ずつご挨拶。

オリジナル曲を歌う人もあれば…

連弾して下さる方もあり、

信仰の大先輩と若手ホープの賛美もあり…と盛りだくさんでした。

みんなで歌って、食べて、話しての楽しいひととき。感謝でした。

新しい教会案内ができました

以下のような新しい教会案内ができました。画面向かって右上角をクリックするとPDFが開きます。

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2016/12/c7d95e2d8c3fd18f66746d79511ef0c8.pdf

教会ホームページトップの「教会の案内・沿革」から入っていただいてもご覧になれます(教会案内の画像が並んでいます。画像をクリックするとPDFが開きます)。

クリスマス祝賀会

12月21日(水)は天授ヶ岡幼稚園のクリスマス祝賀会でした。

夕方からスタート。

キッズクワイヤが登場したり、

それぞれのクラスの歌があったり、

聖誕劇が行われたり。

ご家族の方々も、卒園したお兄さんやお姉さんも、たくさん見に来ておられました。素敵な歌や劇をありがとう。とても楽しいひとときでした。私もメッセージさせていただきました。

マタイによる福音書第2章10節「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた」。

私は田んぼや畑に囲まれた教会で仕事をしていたことがあります。「村の小さい教会」という歌がありますが、そこは「村の大きな教会」でした。そのとき私には6人の子どもがいました。そこへ7人目が生まれようとしていました。家族みんなで赤ちゃんの誕生を迎えます。お母さんのお腹から出てくる赤ちゃんを私が受け取り、長女がへその緒を切ってくれました。「やったぁ!お誕生おめでとう!」みんな拍手喝采大喜び。しばらくしてお母さんと赤ちゃんが家に帰ってきました。すると地域の小学生のお兄さんお姉さんたちが赤ちゃんに会いにきてくれました。赤ちゃんが大きくなるにつれ、ベビーカーを押してくれたり、抱っこしてくれたり、おんぶしてくれたり、遊んでくれました。日曜日にはおじいさんおばあさんたちが礼拝にきて、「わしにも抱かせておくれ」「わたしにも触らせてほしい」とかわいがってくれました。「癒やされるぅ!」「元気もらったぁ!」と喜んで帰って行かれました。

赤ちゃんはいてくれるだけでみんな嬉しくなります。ずっと見ていたいし、触っていたいし、何かしてあげたくなる。何かしてあげたらこっちが元気になる。不思議な力。それは赤ちゃんの命が小さな体からあふれているから。今日はクリスマス祝賀会。赤ちゃんイエス様がほぎゃぁ!ほぎゃぁ!ほぎゃぁ!遠い東の国の偉い博士たちが、王様としてお生まれになったイエス様に会いたい!と、星を頼りにやってきました。その時の王様はヘロデ。すごいお金持ちでした。すごいお城に住んでいました。ほしいものは何でもありました。でも怖い王様でした。周りの人はみんなビクビクブルブルガクガク。かたやイエス様は田舎の小さな村の家畜小屋で生まれました。博士たちは怖いヘロデ王様ではなく、赤ちゃんイエス様に会えて大喜び。イエス様こそみんなに大きな喜びと永遠の命を与える、とても身近な、本物の王様だったからです。命あふれるイエス様。命をあふれるばかりに与えてくださるイエス様。イエス様こそ、みんなのための王様、救い主だと覚えておいてください。

 

闇に打ち勝つ力

買い物に行くとクリスマスソングが流れています。イルミネーションが瞬いています。体温まる食材がたくさん並んでいます。テレビやネットでは心温まるエピソードが紹介されています。しかし一方で、悲しい事件や事故が毎日のように起こり、近隣諸国との緊張関係が報道されています。世の中は、喜び・命・光を何とか感じたいと思いつつも、悲しみ・死・闇が覆っているように思えます。クリスマスの本当の喜びはどこにあるのか?ということで、12月18日(日)待降節第四週礼拝は、マタイによる福音書第2章1節〜15節、ヨハネによる福音書第1章4節〜5節から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージでした。

恐れるヘロデ王とその民

「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました」。東から来た博士たちの言葉にヘロデは不安を感じました。ヘロデだけではありません。キリストの誕生と誕生の地を知っていたユダヤ教の祭司長や律法学者も、その民もみんな不安に襲われました。それはヘロデの大きな恐れが覆っていたからです。ヘロデ王は非常に有能な人でした。軍人としても、政治家としても、建築家としても。しかしその能力は民をよりよく治めるためよりも、自分の保身のために用いました。民の多くの命を奪い、友人の命を奪い、妻の命を奪い、息子の命を奪いました。自分の葬式の時に死刑にするべき人間を遺言で指名し、自分の死と共になお命を奪いました。ヘロデには地位や名誉や財産も、優れた才能も絶大な権力もありました。しかしそれらのものは全て自己中心のためにありました。ヘロデの自己中心は多くの命を奪い、恐れをまき散らし、死と闇を広げていたのです。

喜ぶ博士たちとマリヤとヨセフ

「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた」。東から来た博士たちは、恐れるヘロデをものともせず、星を頼りにひたすらキリストを目指しました。そして小さく貧しい村ベツレヘムの民家(キリスト誕生からしばらく経っていました)にたどり着き、中に入ってささげものをし、キリストを礼拝しました。そこには大きな喜びがありました。普通、博士たちのような人は小さな村の民家の赤ちゃんを礼拝したりしません。マリヤやヨセフたちユダヤ人も人間を礼拝することをゆるしません。しかし博士たちもマリヤやヨセフもイエスを神の子キリスト、喜びと命を与える本物の王だと認めていたのです。博士たちにも地位や名誉や財産が、優れた才能や絶大な権力がありました。しかしそれらのものをキリストに会うために、キリストを礼拝するために用いました。貧しいマリヤとヨセフもキリストを中心に置きました。富んでいようが貧しかろうが、場所がどこであろうが、自己中心ではなくキリスト中心。そこにどんな恐れも死も闇も打ち消すことのできない、喜びと命と光がありました。キリストこそ死と闇に打ち勝つ命の光なのです。

いくら心温まる歌が流れ、優しくイルミネーションが瞬き、たくさんのプレゼントに囲まれていても、自分中心でいる限り、喜びよりも恐れが、命よりも死が、光よりも闇が私たちを脅かし続けます。キリストに心を向け、キリストを礼拝し、キリストを私の中心に迎えるなら、どんな中にあっても、恐れよりも喜びが、死よりも命が、闇よりも光が私を満たし続けるのです。外側からではなく内側から。キリストを私の王、救い主として迎え入れることから。クリスマスの本当の喜びを味わってください。

12月25日(日)はクリスマス礼拝。ルカによる福音書第2章1節〜7節から、「家畜小屋に輝くいのち」と題してメッセージです。

クリスマスに苦しんだ男

処女マリヤへの受胎告知、家畜小屋でのキリスト誕生、真夜中の天使たちの大賛美、羊飼いたちの来訪、東方の博士たちの貢ぎ物…。そのイメージが正確かはともかく、私たちはキリスト誕生の全体像を知っています。しかしキリストの両親となるヨセフとマリヤはその全体像を知りませんでしたし、見えていませんでした。ですから私たちが受け止めるキリスト誕生と、彼らが受け止めるキリスト誕生には違いがあるはずです。どんな違いか?ということで、12月11日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第1章18節〜25節から、「クリスマスに苦しんだ男」と題してメッセージでした。

受け入れがたい状況に直面する

クリスマスに苦しんだ男とはキリストの父親になるヨセフです。12月25日に苦しんだのではなく、キリスト誕生の当事者として苦しんだということです。ヨセフはマリヤと婚約していました。そのマリヤが知らぬ間に妊娠。マリヤには早々に御使が聖霊によって妊娠すると告げられていましたが、ヨセフにはそれがありませんでした。マリヤからそのことを聞いたどうかわかりません。しかしそれはありえないことだし、相手があるならヨセフは傷つき、親族も不名誉を被り、マリヤが姦淫の罪に問われる可能性もありました。実に受け入れがたい状況です。私たちにも「何でこんなことが?」「神様の罰か?」「いや神などいるのか?」と思えるような、受け入れがたい状況に直面することはないですか?それは神様の罰でも神様がいないのでもありません。神様を信じ、神様に選ばれた人にとって、それは神様の恵みの世界への「入り口」となっているのです。

受け入れがたい状況に悩み考える

ヨセフは「正しい人」でした。最善の方法を考えました。目立たぬうちにひそかにマリヤを離縁すること。彼の一身上の都合で婚約を解消すれば、後に相手の男と結婚してもそう不自然なことはないし、罪に問われる可能性は低くなる。でもゼロにはならない。彼の感情も悶々としたものがあったでしょう。ああでもないこうでもないと思い巡らし続けました。私たちにも受け入れがたい状況に直面して、悩み考えることってないですか?それは悪いことでも不信仰なことでもありません。ヨセフは悩み考えたからこそ、後の御使の言葉がすっと受け入れられ、新たな一歩を踏み出せました。「あの悩み苦しんだことはこういうことだったのか」「だから神様はあのようなところを通されたのか」と過去の経験を理解し、新たな経験に従える。神様を信じ、神様に選ばれた人にとって、悩み考えることは、神様の恵みの世界へ入る「備え」となっているのです。

受け入れて始まる神様の恵みの世界

ヨセフはいつの間にか眠ったようです。夢で御使が語りかけます。その内容はヨセフの答えとは正反対。マリヤを離縁するのではなく、妻として受け入れること。彼が心配したことは何も起こりませんでした。そしてキリストはイエスとして誕生しました。マリヤ同様、ヨセフの信仰を通してもキリストはこの世界に来られました。受け入れがたい状況に直面し、悩み考え、早く片づけて忘れたい、でもできないというとき、逆に受け入れてみる。今までとは正反対な態度を取り始めるとき、新しい視点や展開がある。これを適応的思考、適応的行動と言います。これは心理学の世界や治療だけのものではありません。神様と私たちの関係にこそ、これがあるのです。自分の考えや世の中の常識にとらわれないで、神様に向いて聞いて従う。行き止まりだったはずが新しい世界に通じている。望みはないと思っていたのに希望がある。敗北だと思っていたのに勝利がある。受け入れて始まる神様の恵みの世界があるのです。

クリスマスは、私たちが罪と死で小さく凝り固まった世界から、神様の救いと恵みの大きな世界に飛び込む信仰のチャレンジの時。ヨセフやマリヤが特別だったのではありません。私たちみんなが神様に愛され選ばれています。選ばれない方が楽ですか?今の時代や社会状況は決して楽ではありません。どんな中にも神様は私たちと共におられます。どんな状況でも恵みを生み出されます。その神様に私たちがどう応答するかが問われています。キリストを受け入れて始まる救いの世界、神様の恵みの世界を共に堪能してまいりましょう。

12月18日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第2章1節〜15節、ヨハネによる福音書第1章4節〜5節から、「闇に打ち勝つ光」と題してメッセージです。

 

クリスマス序章

dscf2785

キリスト誕生の様子が記されている聖書は、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、マタイによる福音書は系図で始まっています。私たちには馴染みの薄い系図。新約聖書を読み始めるぞ!と読み始めて早々、この系図で挫折した人もいるのではないかと思います。こんな系図に意味はあるのか?ということで12月4日(日)アドベント第二週礼拝では、マタイによる福音書第1章1節〜17節から、「クリスマス序章」と題してメッセージでした。

すべての人への救い

この系図には女性が5人出てきます。まずはラハブとルツを取り上げましょう。ラハブはカナン人。職業は娼婦。家族を養っていました。イスラエル民族がカナンの地に入り、最初に攻め落とすエリコに住んでいました。彼女はイスラエルの偵察隊をかくまい、逃がしてやり、後にイスラエルの民に加えられます。ルツはモアブ人。イスラエルに干魃があり、イスラエル人が近隣モアブに避難。イスラエル人とモアブ人の結婚があり、ルツもその一人。しかし夫に先立たれ、姑ナオミとイスラエルへ。そしてボアズと結婚。ボアズはラハブの子ども。そしてルツはダビデ王の祖父オベデを産みます。カナン人もモアブ人も選民イスラエルからしてみれば神の救いの対象外。しかしキリストはラハブやルツを通して生まれてくださいました。それは、選民イスラエルだけではなく、すべての人に神の救いがある!ということなのです。

すべての罪からの救い

次はタマルとウリヤの妻です。タマルはユダの長男に嫁ぎましたが長男死亡。次男に嫁ぎ直しますが次男死亡。ユダには三男もいましたが死なれては困ると、タマルを寡婦のままにしておきます。それは当時違法でした。タマルはユダにわからぬよう娼婦の格好をし、ユダによって妊娠。ユダは「どこで不貞を行った!」と激怒しますが、事情を知って自らの非を認めます。ウリヤの妻はバテシバ。ウリヤはダビデの忠実な部下。しかしダビデはウリヤの妻を寝取り、権力にものを言わせウリヤを戦死させます。しかしこの悪事は預言者に糾弾され、ダビデは罪を認めます。何ともドロドロした出来事。彼女たちではなく男たちがドロドロ。しかも神に選ばれた人々。しかし私たちは彼らを責められません。私たちにも自分を棚に上げた罪、隠し持っている罪があるからです。しかしキリストはそんな罪のど真ん中に生まれてくださいました。罪をあげつらって滅ぼすためではなく、罪を明らかにし取り除いて救うためなのです。

ただ信仰による救い

最後にマリヤです。マリヤはヨセフと婚約中でした。しかしヨセフと関係なしに妊娠し、男の子を産むと御使に告げられます。普通あり得ないことですし、当時の常識からすれば、ヨセフや親族に迷惑をかけ、姦淫の罪に問われ死刑になるかもしれません。神様何考えてんのっ!しかし御使は「恵まれた女よ、おめでとう」。マリヤは「お言葉どおりこの身に成りますように」。どっちも大丈夫かぁ?結果、ヨセフとマリヤは無事イエス様の出産を迎えました。マリヤの信仰告白があったからキリストはイエス(救い)としてこの世界に来ることができた。信仰があって救いが来た。私たちもイエス・キリストの救いが「この身に成りますように」と信仰告白することで救われます。これは妄信ではありません。私たちの理解できる範囲はたかが知れています。それでも私たちは多くの人を信頼して日々生活しています。ましてや神様です。神様は全時代、全地域を視野に入れながら5人の女性たちも、私たち一人一人も導いておられます。理解が及ばなくてもその導きは確か。マリヤのようにただ神様の言葉、その救いを信頼すればよいのです。

クリスマス序章はクリスマス女章と言ってもいいぐらいです。5人の女性たちを通して、神様からのプレゼント、イエス・キリストの救いが与えられました。このプレゼントを「この身に成りますように」と自分のものとして受け取っていただきたいと思います。

12月11日(日)の礼拝は、マタイのよる福音書第1章18節〜25節から、「クリスマスに苦しんだ男」と題してメッセージです。

 

クリスマス礼拝・祝会のご案内

クリスマス礼拝と祝会の案内を作成しました。
画像の右角をクリックするとPDFで開きます。

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2016/12/a30bdcc710abfe8d4469998fd810e1a5.pdf


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved