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信仰の高き嶺

アブラムは「信仰の父」と言われます。しかしアブラムは一日にしてならず。信仰の一歩を踏み出してすぐに「信仰の息切れ」を見せました。アブラムは完璧な信仰の模範者と言うよりも、誰にでもある弱さを持った信仰の模範者と言えましょう。神様はそんなアブラムを忍耐強く導かれます。アブラムもそんな真実な神様への信仰を失いませんでした。ということで、3月26日(日)の礼拝は、創世記第13章1節〜18節から、「信仰の高き嶺」と題してメッセージでした。

見かけではなく

エジプトからカナンへ戻ってきたアブラムにまた問題発生です。アブラムの牧者とロトの牧者の間で家畜の餌や水の争奪戦が勃発!アブラムは元々たくさんの財産(家畜)持ちだったようですが、エジプトでまた財産が増えました。一緒に行動してきたロトだってかなりの財産持ちだったようです。お互い一緒にいるのが大変になっていました。前の章では飢饉が見かけ上の危機でした。でも本当の危機はアブラムの不真実と自己保身が妻サライを危険に陥れたことでした。今回は家畜の維持が見かけ上の危機です。アブラムはエジプトに引き返したか?いえ。アブラムはロトに先を譲りました。ロトはヨルダンの東側の低地がものすごく潤っているのを見て「ことごとく選びとって東に移」りました。

染まるのではなく

ロトは見かけが大変麗しいヨルダンの東側の低地を選び取り、その町々に移り住み、最終的にソドムに落ち着きました。「主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であった」「ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪人であった」と聖書は記します。見かけの裏に潜む本当の危機。ロトはこの後も度々登場します。彼は戦争に巻き込まれ誘拐されたり、ソドム滅亡に遭遇し財産と妻を失います。新約聖書は「義人ロト」と記します。悪い人ではありません。しかしただアブラムにくっついているだけで、ロト自らが神様に向いて聞いて従わなければ、祝福を失うことになる。どんなに義人でもソドムの強大な罪にズルズルと引きずり込まれ、染まってしまうことになるのです。

いつも原点に立つ

ではアブラムは?アブラムはエジプトから出た後、かつてハランからカナンに入ってきてエジプトに向かったルートをそのまま逆にたどっていきます。そして「彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼」びました。アブラムがまずしたことは原点に立ち帰ることでした。それは「所」だけではなく「心」もです。神様に向いて聞いて従う。礼拝こそ祝福の泉。神様はアブラムに、カナンの地を見渡しなさい、あなたの子孫をちりのように増やし、あなたの行き巡る所を与えます、と言われます。ここで神様は子孫と土地という具体的な祝福を示されます。しかし祝福も一日にしてならず。祝福を地に満たすためには人手と時間がかかります。この後、アブラムが移動しながら生活したのはヨルダンの西側の山地でした。アブラムは神様を礼拝しながら、約束の地を見渡しながら生活したのです。

祝福はヨルダンの低地のようにぱっと見て「そこ!」「ここ!」と簡単に手に入って、あっという間に失うようなものではありません。「こうすれば手に入る」というようなものでもありません。アブラム自身が祝福の基。そしてアブラムが周囲を祝福で染めていく。そのために大切だったのはいつも原点に立つこと。そして原点に繰り返し立つことでアブラムは変えられていきました。私たちも同じ祝福の基。祝福は私から。あなたから。そこがどこであれいつも原点に立つ。それが信仰の高き嶺。信仰の最高峰なのです。

4月2日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第7章17節〜24節から、「神の召しを大切にする教会」と題してメッセージです。

 

京都教区青年部交流会がありました

3月19日(日)の午後、近くの京都聖徒教会を会場に、京都教区青年部の交流会が行われました。たくさん賛美し演奏し、聖書の言葉をじっくり味わい、日頃の嬉しい出来事やそうでない出来事を分かち合い共に祈りました。

信仰の息切れ

アブラムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし最初からそうだったわけではありません。アブラムの信仰は一日にしてならず。アブラムの信仰を養われたのは神様です。アブラムを召し出し、「あなたを祝福とします」と言われ、常に「真実」を示されました。これからしばらくアブラム物語となりますが、そのスタート直後に起こったアブラムの「信仰の息切れ」とも言える事件から、アブラムの弱さと神様の真実を見ましょう。ということで、3月19日(日)の礼拝は、創世記第12章10節〜20節から、「信仰の息切れ」と題してメッセージでした。

慣れ親しんだ考えで行動する

アブラムは祝福の一歩をハランから踏み出し、カナンに入り、祭壇を築きながら、段々南下しました。そこで問題発生!激しい飢饉です。族長時代と言われるこの時代、家族や雇い人や奴隷を合わせると一族の人数は四桁にもなると言われます。さらに家畜も合わせると膨大な食糧が必要です。アブラムの場合、甥のロトの集団も一緒。私たちがアブラムだったらどうする?アブラムはエジプトに下ることを決断しました。今いる所から近くで、大規模な集団を受け入れてくれて、十分な食糧があるのはエジプト。責任ある常識的な最善の決断と言えます。しかしここで、まず、「神様に向いて聞いて従う」がアブラムにあったか?飢饉は見た目上の危機に過ぎませんでした。この後アブラムは本当の危機を招くことになります。

自分を守り他者を犠牲にする

アブラムはエジプトに入る前に妻サライにこう言います。「どうかあなたは、わたしの妹だと言ってください。そうすればわたしはあなたのおかげで無事であり、わたしの命はあなたによって助かるでしょう」。アブラムは一体どこを向いているの?一体誰のおかげで誰によって助かるの?神様ではなくサライ?一族の命よりも、妻の命よりも、結局自分の命を守るのに必死になっていない?確かに妻サライは父テラの他の妻の娘だったようです。また当時権力者は美しい人妻を、その夫を殺してまで手に入れることもあったようです。しかしここで、まず、「神様に向いて聞いて従う」がアブラムにあったか?アブラムの行動はさらに問題を広げました。

他人に迷惑をかけてしまう

パロはサライの美しいのを見て家に召し入れアブラムに多くの財産を与えました。しかし「アブラムの妻サライのゆえに」パロの家に激しい疫病がのぞみます。神様がアブラムにかつて言われた「あなたを祝福とします」とは、「あなたと妻サライを祝福とします」と同じことです。夫婦は一体だから。アブラムの祝福は妻サライと引き替えにもらう財産ではありません。アブラムの祝福は妻サライと共にある。パロは知らずしてそれを奪おうとし呪いを招きました。とんだ災難です。パロはそれを知って妻を返し、与えた財産そのままに、祝福する者としてアブラムを去らせました。責められるはアブラムです。サライが妹だとしても妻として与えたのは神様です。アブラムは「サライは妻です」と言うべきでした。それがアブラムの偽らざる姿。神様の真実に「その通りです(アーメン:真実です)」と告白するところに祝福があるのです。

神様はこの件について沈黙されます。「雄弁は銀、沈黙は金」ということわざがありますが、この沈黙がアブラムに失敗や迷惑を振り返らせ、自分に染みこんだ習慣を気づかせ、神中心の習慣を身につけさせていくのです。私たちはアブラムを責められません。同じ弱さがあります。危機に直面し、恐れがあるとき、つい神様を忘れ自分の考えで行動するからです。その考えや行動が全て悪いわけではありません。問題は神様にまず向いているかいないかということです。神様は真実です。時に語りかけ、時に沈黙し、私たちが良かれと思ってやらかす失敗や迷惑もフォローして、祝福の基として根気よく育てて下さいます。私たちも失敗したら非を認め、あきらめずやりなおし、真実な神様に向いて聞いて従ってまいりましょう。

3月26日(日)の礼拝は、創世記第13章1節〜18節から、「信仰の高き嶺」と題してメッセージです。

イースター召天者記念礼拝・墓前礼拝の案内です

イースター召天者記念礼拝・墓前礼拝(召天者ご家族向け)の案内です。召天者ご家族に限らず、皆様と共に、主の復活を祝い、復活の希望を喜ぶ礼拝を営みたいと願っています。

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2017/03/ba59de8213d06c9e2fabe9fd9e84f9b4.pdf

卒園式がありました

3月17日(金)は天授ヶ岡幼稚園の卒園式でした。

31名のお友達の新しい門出のとき。

これからの新しい生活の祝福をお祈りさせていただき、「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」という聖書の言葉から祝辞を述べさせていただきました。

 

祝福はあなたから

祝福とは神様からの命や支配や愛が神のかたちである人を通して地に広がることだ、と創世記第1章で学びました。そして神様が祝福されるだけではなく、人が祝福のために踏み出すとき積極的な祝福がある、と前回学びました。そして踏み出したのがアブラムです。ということで、3月12日(日)の礼拝は、創世記第12章1節〜9節から、「祝福はあなたから」という題でメッセージでした。

まず神様との関係から

神様はまず、アブラムに「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」るように言われます。「縁を切れ」と言うのではなく関係の仕切り直しです。アブラムの様々な関係の最初にあるのは神様なのです。神様はアブラムを「大いなる国民とし、…あなたの名を大きくしよう」と言われます。「名を大きくする」とは「名を高める」と訳せる言葉。かつてバベルの塔を建てた人々も人の名を高く上げて一つ所に止まろうとしました。しかしそれとこれとは全く違う。バベルの塔を建てた人たちは神様に向かず聞かず従わず、アブラムは神様に向いて聞いて従った。これ以上大きくて高いものはない神様に人がしっかりつながるなら自ずと大きく高くなるのです。そして神様はアブラムに「あなたは祝福の基となる」と言われます。どんな祝福も、まず神様につながった一人の人から流れるのです。

そして人との関係へ

まず神様との関係が大切ですが人との関係も大切です。なぜなら神様を現すのは神のかたちである人と人との関係だから。一人よりも十人、百人、千人といった関係の方がより大きく豊かな神様を表現できる。神様はアブラムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」と言われます。アブラムが祝福する者を神様が祝福し、アブラムがのろう者を神様がのろうのと違うの?と思えます。「あなたは祝福の基」とは「あなたが祝福」とも訳せます。つまり神様が差し出されたアブラムという祝福を人が受け入れるならその人の祝福となり、拒否するなら祝福とは逆の呪いの状態を招く、ということなのです。祝福を受け入れるとは、アブラムと同じように神様に向いて聞いて従うことです。神様と人が共に進むとき積極的な祝福が現れます。同じように祝福の基である人と新たな一人の人が共に進むとき祝福は拡がるのです。

礼拝を営むことを通して

では祝福の具体的な営みとは何か?礼拝です。子孫が増えることも祝福ですが、この時点でアブラムに子はありませんでした。アブラムはカナンの「シケムの所、モレのテレビンの木のもと」まで来ました。ここはカナン宗教の聖地だったとも言われます。ご神木のある社の森と言ったところ。しかしアブラムは別に祭壇を築き神様を礼拝しました。アブラムがカナンの人々と無縁だったり仲が悪かったわけではありません。ただ神様を礼拝した。神様との関係を人の前に見える形で表現するなら礼拝なのです(礼拝スタイルはここでは問いません)。礼拝こそ祝福の泉。礼拝を行う土地や建物ではなく一人の人の礼拝が祝福の泉。「祝福と言っても何をしていいかわからない」なら礼拝を営む。まず神様との交わりを大切にする。それは人との関係を犠牲にするのではなく大切にして祝福を及ぼすため。礼拝はどんな悪条件でも悲惨な所でもできます。どんな悪条件や悲惨の中にも祝福の泉はわきあがる。祝福は一人の礼拝から。祝福はあなたから、なのです。

「迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない」「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受けつぐため」。

3月19日(日)の礼拝は、創世記第12章10節〜20節から、「信仰の息切れ」と題してメッセージです。

神の歴史の再始動

「歴史は繰り返す」と言われます。しかしそれは千年前と千年後で同じ生活をしている、と言うのではなく、同じ本質のようなものがある、ということではないでしょうか。たとえば戦争です。神様に向かず聞かず従わず、神様から与えられる命や知恵や愛を人から奪い支配し台無しにしてしまう罪が本質です。人は過去の過ちを記憶し反省し未来に生かす努力をしているようで、過去を忘れ高慢になり未来を失うようなことを繰り返していないでしょうか。高い塔を建てることには熱心でも、歴史に謙虚に学ぶ積み上げができていないのではないでしょうか。では神様はどうか?歴史は「神の物語」とも言われます。「歴史は繰り返す」と言われるように、聖書にも似たようなことを繰り返し記しているところがあります。ということで、3月5日(日)の礼拝は、創世記第11章10節〜32節から、「神の歴史の再始動」と題してメッセージでした。

死よりも命へ

ここではノアの子、祝福されたセムの系図が記されています。ノアからテラまでの十代です。そしてテラの父であるナホルは短命です。創世記第5章にはアダムの子、主の名を呼ぶセツの系図が記されています。アダムからノアまでの十代です。そしてノアの父であるレメクは短命です。この二つの系図。同じようなことが繰り返されています。しかし明らかな違いがあります。最初の系図は「○○年生きて、男子と女子を生んだ。そして彼は死んだ」と繰り返され、後の系図は「○○年生きて、男子と女子を生んだ」と繰り返されます。後の人は死ななかったのではなく、視点が変わったのです。確かに後の系図は人の年齢が段階的に短くなっていきます(洪水によって「上の水」が失われたことによる環境変化、有害な宇宙線が地上に達するようになったからと言われます)。前より悪くなったように見えます。しかし聖書は「死んだ」よりも「生きて」を繰り返す。死はアダムによって人に入り込んだけれども、神様からの命と祝福は人から人へ接がれ、死によって途切れることはない。死よりも命へ、もっと命へ、さらに命へ、創世記から黙示録に至るまで、らせんを描くように、かつまっすぐに、神の物語は進んでいくのです。

止まるよりも踏み出す

歴史は神の物語であると共に「神のかたち」である私たちの物語でもあります。最初の系図の最後はノアの物語が展開し、その子セムが祝福されました。セムの系図もその最後にテラの物語が展開し、その子アブラムが「祝福の基」となります。テラは家族を連れてカルデヤのウルを出てカナンを目指します。しかしハラン(先に死んだ息子と同じ名前の町)で生涯を閉じます。セムの系図の中でハランとテラだけ「死んだ」と記されます。聖書の別の箇所で「アブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていた」と記します。テラは神様に向き直り、生活を変えようと踏み出した。しかし途中で他の神々や過去の生活を振り返り止まってしまった。それを聖書は「死んだ」と表現するのかも知れません。人々が高い塔を建てて一つ所に止まろうとしたとき、神様は人々を散らされました。それは他動的・消極的な祝福と言えます。しかし私たちが神様に向いて聞いて従って踏み出し、進み続けるなら、それは自動的・積極的な祝福となります。神と神のかたち。神と私たちの物語。その両輪によって祝福が現れる。罪と死をもたらす歴史ではなく、命と祝福をもたらす歴史を繰り返す。今引っ越しせよとか、転職せよとか言っているのではありません。人生が旅。神の物語に学び、聖書の歴史に導かれ、祝福「される」だけではなく祝福「する」旅に踏み出し、進み続けたいと思います。

3月12日(日)の礼拝は、創世記第12章1節〜9節から、「祝福はあなたから」と題してメッセージです。


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