カテゴリー

京滋地区婦人部例会がありました

5月28日(日)の午後は、天授ヶ岡教会を会場に、京滋地区の6つの教会の婦人が集い、礼拝と交わりの時がもたれました。

50人以上の参加者。会堂がいっぱい。

礼拝後、交わりのひととき。

各教会の婦人会活動の紹介があり、各教会から一人ずつ普段の生活の中にある、神様の恵みを語っていただきました。

天授ヶ岡教会のご婦人方が会場教会としていろいろと奉仕してくださいました。ありがとうございました!

 

信仰の足並み

アブラムが神様の召しを受けて歩み始めて10年。アブラムの物語も中盤にさしかかってきました。聖書はアブラムの妻サライにも焦点を当てます。創世記のはじめ、神様は結婚を通じて祝福が地に満ちるようにされました。ですからアブラムの信仰だけではなく、サライの信仰も重要でした。とうことで、5月28日(日)の礼拝は、創世記第16章1節〜16節から、「信仰の足並み」と題してメッセージでした。

当時の常識を提案するサライ

サライにはまだ子どもがありませんでした。大族長の妻として焦りやプライドがあったでしょう。彼女は一計を案じます。女奴隷ハガルをアブラムに妻として与え、アブラムとサライの跡取りをもうけること。代理母出産。当時の常識的な方法です。当時跡取りをもうけるにはいくつか方法がありました。アブラムも創世記第15章で奴隷の中から跡取りをと神様に話しています。アブラムも当時の常識で考え、行動しようとしましたが、サライもまた当時の常識で考え、行動しました。アブラムは何の抵抗もなくサライからハガルを受け取り、「彼女(ハガル)によって」子どもを得ました。しかし事はそう上手くいきません。ハガルがサライを見下げるようになったのです。サライはアブラムに言います。「わたしの受けた害はあなたの責任です」。かつて洪水前に人々が祝福ではなく「暴虐」を地に満たしました。「害」は「暴虐」と同じ言葉。アブラムの家庭にも暴虐。アブラムがサライからハガルを受け取る姿は、アダムがエバから禁断の実を受け取る姿に似ています。そしてサライの言葉は禁断の実を食べたアダムとエバが、責任をなすり合った姿に似ています。彼らは一体何に向いて聞いて従っているのでしょうか。祝福は神様から流れるもの。伴侶は神様が与えてくださるもの。二人は少なくともこの10年間、何を信じ、何を分かち合ってきたのでしょうか。会話のない夫婦のように思えてなりません。

信仰の足並みがそろうのを待つ主

アブラムはサライに、ハガルを好きにしていいと言い、サライはハガルを苦しめます。ハガルは耐えかねて逃げ出します。そしてある泉のほとりで主の使いに出会います。主の使いは女主人(サライ)のもとに帰るように言います。これだけなら怖くて帰れません。主の使いは彼女を祝福します。彼女に生まれる子はイシマエル。「神は聞かれる」という意味。ハガルは神様を「見ておられる神」と表現します。そして泉(後に井戸)は「見ていられるかたの後ろを拝めた」という彼女の言葉で呼ばれるようになりました。ハガルもアブラムの祝福の下にいました。しかし神様はハガルをも直接祝福したい。ハガルも神様に向いて聞いて従うとき直接祝福をいただける。祝福してくださる神様。いつも聞いて見ていてくださる神様。前を進んで導いてくださる神様。ハガルはこの神様とつながることでサライのもとへ帰り、仕えることができました。族長アブラムも、女主人サライも、女奴隷ハガルも、立場はどうであれ、それぞれが神様に向いて聞いて従わなければ祝福は流れません。暴虐がはびこります。まずは一人一人が神様に向いて聞いて従う。そして共に神様に向いて聞いて従う。さらにお互いも向き合い聞き合い従い合う。この三つの「向いて聞いて従う」があるとき、立場がありながらも立場を越えた麗しい関係と祝福が広がっていくのです。

ハガルの件があって13年間、神様の沈黙があります。雄弁は銀。沈黙は金。アブラムとサライが自分のやらかしたことを省み、自分中心から神様中心になる「とき」が必要でした。神様は一人一人を祝福したいと、丁寧に語りかけ、時に沈黙し、大切に取り扱い、信仰の足並みがそろうのを待ってくださいます。私たちも祝福を広げるために、焦らずじっくりと、神様と身近な人との三つの「向いて聞いて従う」を培ってまいりましょう。

6月4日(日)はペンテコステ礼拝。マルコによる福音書第1章1節〜11節から、「バプテスマの恵み」と題してメッセージです。

神様への信頼が私のすべて

アブラムは人生の後半から少しずつ変えられていきます。それはアブラムに祝福を約束し、導き、養い、アブラムをとことん見捨てなかった、神様の真実があったからです。神様の真実ゆえ、アブラムも自らをあきらめずに努力できました。先行する神様の恵みなくして人間の努力はありません。神様の恵みなき努力は律法主義に陥ります。創世記第15章では、人間の努力や行いに関係なく、ただ神様のご真実を信頼するだけで、その人が義と認められる出来事が記されています。ということで、5月21日(日)の礼拝は、「神様への信頼が私のすべて」と題してメッセージでした。

神様に私のすべてがあると信頼する

アブラムは前章で、4人の王の軍隊を撃破し、ロトを救い出し、悪いソドムの王の申し入れをきっぱり断りました。でも仕返しされないか一抹の不安もあったようです。「恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」と神様が声をかけられます。すると彼は堰を切ったように不満をぶちまけます。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」「あなたはわたしに子を賜らないので、わたしの家に生まれたしもべが、あとつぎになるでしょう」。当時、跡取りの設け方にはいくつか方法がありました。かつての彼ならさっさと行動に移していたかも知れません。しかしそうせずに神様に思いを打ち明けました。神様は「あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」と言って、彼に星空を見せ「あなたの子孫はあのようになる」と言われると、彼はその言葉を信じました。すると神様は彼を義と認められました。義とされる…自分の罪を告白し、キリストの救いを信じて、義とされる…そんな風に私は教えられました。しかしアブラムは罪を告白したわけでも、キリストの救いを知っていたわけでもありません。どうして?罪の告白やキリストの救いが必要ないのではありません。アブラムは死んでよみにくだり、キリストが十字架で死んでよみにくだるのを待っていました。アブラムにも罪のゆるしを得させるキリストの救いが必要でした。私が言いたいのは、天地創造から始まって、キリストの救いを経由して、新しい天と地に至る、永遠の祝福を約束し実現されるのは神様だということです。私の誕生も救いも祝福も、私の始まりから永遠に至るすべては神様にある。だからその神様に信頼するとき、私のすべてはあるのです。神様の前に私が義とされるとは、私が神様の前に永遠にあり続けることなのです。

神様が私のためにすべてをかけられる

後半には怪しげな儀式が記されています。神様が命じられた通り、アブラムが何種類かの動物を二つに裂いて並べておくと、その間を神様が通られました。アブラムの言動から当時の常識や習慣を垣間見ることができますが、神様も当時の儀式を用いられました。ある人とある人が、または国と国が堅い約束を結ぶとき、お互い裂かれた動物の間を通りました。裂かれた動物は、もし約束を破るならこうなる、ということを意味しました。今回、裂かれた動物の間を通ったのは神様だけ。約束されるのも約束を果たされるのも神様だから。わたしが祝福を約束し、実現のために一切の責任を持つ!と表明された。神様に全信頼を置いたアブラムのために、神様も全存在をかけられたのです。そしてアブラムの時代からおよそ2千年後、キリストが十字架でからだを裂かれました。キリストのみならず父と子と御霊の三位一体の神様が裂かれる出来事です。神様が約束を破ったからではありません。神様に向かず聞かず従わず、自ら呪われて滅んでいく私たちの身代わりとなるためです。そうまでして、私たちを呪いから祝福へ、永遠の滅びから永遠のいのちへと、約束を果たそうとして下さった。それが人間の固い約束を遥かに超える神様の真実なのです。

神様は私たちを祝福したいと地上に生を与え、なお永遠に祝福したいと切に願っておられます。身を挺してまでそうしたいと願い、実際そうして下さいました。ここまでして下さる神様に信頼することは、最も賢明なことではないでしょうか。

5月28日(日)の礼拝は、創世記第16章1節〜15節から、「信仰の足並み」と題してメッセージです。

私たちは神の家族

100年ほど前、アン・ジャービスというクリスチャンが、南北戦争の負傷兵を敵味方関係なく助けようと奉仕しました。この女性の召天後、教会で記念会がもたれ、その娘がカーネーションを贈ったことが母の日の始まりです。後にアメリカの議会で5月第2日曜日が母の日となり、世界中に広まり今日に至っています。母の日に母に感謝すると共に、お互い家族にも感謝を!ということで、5月14日(日)の礼拝は、エペソ人への手紙第2章11節〜22節から、「私たちは神の家族」と題してメッセージでした。

キリストの血によって近くなる

パウロはエペソ教会の人々がかつてどんな人たちだったかを記します。「異邦人」「無割礼の者」「キリストを知らない」「イスラエルの国籍がない」「いろいろの契約に縁がない」「希望もない」「神もない」。なんだかさんざんです。とにかく、かつての姿は神様から「遠く離れていた」ということです。しかしキリストの血が状況を一変させます。キリストが十字架で血を流し死なれたとき、ユダヤ教の神殿の幕が「上から」下まで真っ二つに裂けました。至聖所と聖所を分ける幕です。至聖所は年に一度、動物の犠牲の血を携えて大祭司が入れるだけでした。その幕が人手によらず取り除かれた。何を意味するか?大祭司だけではなくユダヤ人だけでもなくどんな人でも、キリストの血によって神様に近づけるようになった、ということです。家族とは血のつながりのある人たち。キリストの血が私の罪のためだったと信じ告白するなら、神様と私を遠く隔てていた私の罪が取り除かれて、神の家族とされるのです。

敵意という隔ての中垣を取り除かれる

「隔ての中垣」とは先の神殿におけるユダヤ人と異邦人を分ける物理的な壁。今、ユダヤ教の神殿も隔ての中垣もありません。しかし実際の壁を言うだけではありません。ユダヤ人は心が神様から遠く離れていました。彼らの隔ての中垣は数々の「規程」「戒め」「律法」。「ああしなければならない」「こうあるべきだ」「それをしてはならない」。そんなことばかりに執着し、キリストを神の子と認めず、十字架で殺してしまった。しかしそんなユダヤ人の罪のためにも、キリストは血を流して死なれました。十字架で手を広げ、ご自分の体を裂き、異邦人もユダヤ人も受け入れてくださるのです。「二つのものを一つにし」「二つのものをひとりの新しい人に造りかえて(創造して)平和をきたらせ」「二つのものを一つのからだとして神と和解させ」とは、十字架で手を広げ、体を裂いてくださったキリストの救いに飛び込んだ私たち、教会を表現しています。神の家族は神様と私が近くなるだけではなく、私たちお互いも近くされるのです。

神のすまいとして成長する

パウロは神の家族を「建物」から「聖なる宮」、「聖なる宮」から「神のすまいとなる」と記します。私たちが実際、屋根や柱や窓になるわけではありません。これは神の家族の交わり、教会の成熟を表現しています。神の家族の交わりとは何か?キリストが「隅のかしら石」(土台の土台)、「使徒たちや預言者たち」が土台だと言います。私たちはキリストの救いにあずかり、使徒たちや預言者たちが記した聖書の言葉を分かち合い成長する。それが神の家族の交わりの特徴・醍醐味です。もちろん何でも打ち明け合い、祈り合い、助け合う。まずはキリストにあって神様とお互いが近づけられ(建物)、神様とお互いが段々わかっていって一つになり(聖なる宮)、見えない神様をいよいよ鮮やかに表現する教会として成熟していく(神のすまいとなる)のです。

100年前、アン・ジャービスは南北戦争という敵意あふれる隔ての中垣を越えて奉仕しました。現代にも見える・見えない両方の隔ての中垣がたくさんあります。そんな中で神様は私たちを救い出し、神の家族とし、天授ヶ岡教会を創造されました。神様のみ前に共に礼拝できることを感謝します。救いの恵み、聖書の恵みを喜び楽しみ分かち合い、慰め励まし助け合い、身近にある隔ての中垣をじわーっと溶かして、神の家族の輪を広げてまいりましょう。

5月21日(日)の礼拝は、創世記第15章1節〜21節から、「神様への信頼が私のすべて」と題してメッセージです。

信仰生活の日常

アブラムとロトはお互い財産がありすぎて生活の袂(たもと)を分かちました。アブラムは神様が約束された地、ヨルダンの西側の高地にとどまり、神様への祭壇を築いて生活していました。ロトは見目麗しいヨルダンの東側の低地に移り、悪名高きソドムに落ち着きます。そこへ問題発生!ということで、5月7日(日)の礼拝は、創世記第14章1節〜24節から、「信仰生活の日常」という題でメッセージでした。

他者を助けるためにある

ロトが住んでいた地域は5人の王が治めていました。しかしその上にアブラムの生まれた地域の4人の王が君臨していました。5人の王は12年4人の王たちに仕えますが反旗を翻します。4人の王たちはヨルダンの低地になだれ込み、5人の王たちは逃げだし、住民や財産が奪われることになります。ロトも例外ではありませんでした。その知らせを受けたアブラムはロト救出に動きました。「言わんこっちゃない!」とロトの選択や生活を批判することもなく、ただ助けるために動き出しました。私たちの信仰生活の日常にはこのような危険や戦いがある、と言いたいのではありません。私たちの信仰生活の日常は、身近な他者を助けるためにある、と言いたいのです。

常に備えておくべきである

アブラムは同盟を結んでいた近所の3人の族長と共に、さらに「訓練した家の子三百十八人を引き連れて」夜襲をかけます。そして4人の王たちを破りロトを救出します。この勝利は、周到な作戦と日常から培われた良好な近所関係と備えなくしてありません。私たちの信仰生活の日常には近所との同盟が必要で、有事の際には軍事行動がとれるように備えなければならない、と言いたいのではありません。私たちは何もしないで神様任せ、何かあったらあったとき、ではいけないと言いたいのです。神も仏もあてにならないと備えるのでもありません。神様が与えてくださる恵みをいかに活用して備えるかが大切です。それは他者を助けるため。そして他者を助ける自分を生かすためでもあるのです。

神があがめられるためにある

ロトと共に戻ったアブラムを二人の王が迎えます。一人はサレムの王メルキゼデク。いきなり登場。素性は不明。旧約聖書では「とこしえの祭司」と言われ、新約聖書ではキリストのひな形となる人。彼は「天地の主なるいと高き神がアブラムを祝福されるように」「いと高き神があがめられるように」とアブラムを祝福します。もう一人はソドムの王。彼は住民も住民の財産も守らず逃げだしたにもかかわらず、「わたしには人をください。財産はあなたが取りなさい」とアブラムに言います。アブラムはメルキゼデクの言葉を借りるようにして、「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います」と言ってソドムの王の話しをきっぱり断ります。私たちは、信仰生活の日常において、地域との関わりを大切にし、良好でありたいと願います。しかし「これについて協力を惜しみませんが、こういう場合はできません」という線引きがあるのも事実。そしてその線引きが難しいこともあります。そんなときは一人で悩まない。アブラムにはメルキゼデクと彼の言葉が助けとなりました。私たちは教会みんなで考える。神があがめられる、他者への助けとその備えは何か?これが今回の原則。

教会のお互いは信仰の助け手。協力者。応援者。そして教会は身近な社会の助け手。協力者。応援者。問題の中にありながら、問題に染まらず、問題に取り組むことのできる教会として備えられたいものです。

5月14日(日)は母の日礼拝。エペソ人への手紙第2章11節〜22節から、「私たちは神の家族」と題してメッセージです。

愛の配慮で建てる教会

学校や会社など、子供から大人にいたる様々な組織にいじめやハラスメントが見られます。そういう問題はありません、と公表していたにもかかわらず、被害者の訴えや自死があってはじめて発覚する、ということも少なくありません。発覚してようやく加害者が加害を認める。いやそれでも認めない、ということもあります。コリント教会にも様々な問題がありました。しかしその問題を認識できていませんでした。そして強い人によって弱められている人がいました。ということで、4月30日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第8章1節〜13節から、「愛の配慮で建てる教会」と題してメッセージでした。

知識を振りまわさない

コリントの町には異教の神々をまつる神殿があり、市場で売られる肉はそいう神殿に献げられてから売り出されました。また祝い事があるときはそういう神殿で宴が開かれました。コリント教会の強い人たちはそういう宴に喜んで出かけました。彼らの言い分はこうです。「神は聖書に記されている神だけだ。異教の神がたくさんいるようだが本当は存在しない。異教の神に献げた肉と言うがただの肉。異教の神殿もただの祝いの場所。だから肉を食べても、どこで食べても、問題なし」。日本の社会はコリントの町と似ています。伝統的宗教が生活の中に根付いています。私が育ったキリスト教界は、そういう生活に入り込んだ異教的なものを意識して排除する、戦うクリスチャンのイメージがあります。異端はさらに徹底的に意識して排除します。コリント教会の強い人たちや、日本の戦うクリスチャンや、ひょっとすると異端の異教を排除する考え方も正論かも知れません。しかしいずれにしても「私たちはほどよいことをしている」と言えるのか?振り子が振れるように極端から極端になっていないか?一面だけの正しさで、自分たちの行動を正当化しているだけではないか?

自由を強要しない

コリント教会の強い人たちによって弱められている人がいました。「そんなことして大丈夫なんですか?神様への信仰が汚されるんじゃないですか?」と不安になる人たちです。しかし強い人たちは「大丈夫!そんなことないから!」と、弱い人たちにそうするよう教えてもいたようです。そうなると弱い人たちは心が汚される思いで食事をし、自分はもうダメだと思うこともあったようです。強い人の知識を振りまわし、強い人の自由を弱い人に強要するなら弱い人に自由はありません。教会は神様から与えられた「自らの由(わけ)」を知るところ。そして互いの自らの由を尊重するところ。教会にある問題や強い面や弱い面を丁寧に認め、互いの知識を振りまわし自由を強要し合うのではなく、丁寧に結び合わせていく。そこに問題を乗り越えるアイデアが生まれてくるのです。

愛の配慮で建て上げる

日本の戦うクリスチャンは、かつてのコリント教会の弱い人たちが強くなった印象を受けます。「異教的なものを意識せず、排除もせず、戦いもしないなんて、信仰の弱い人だ」とかつて強かった人を責める目で見ていないか?日本にある伝統的宗教も聖書やキリスト教と全く関わりが無いかというと、そうではありません。日本のキリスト教は西回りでやってきたとよく言われますが、もっと前から東回りでやってきて、伝統的宗教の中に影響を与えています。キリストは伝統的宗教の中に生きる方々のためにも、ゆる〜いクリスチャンやどまじめなクリスチャンのためにも死なれました。私たちみんなを愛し、命を献げられました。それはお互いが責め合うためではなく、愛するようになるためです。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」「愛は人を建て上げる」「愛は人を強める」。キリストの愛は私たちの知識を問題を乗り越えるアイデアとして結び合わせ、教会を建て上げ、お互いを強めるのです。

私たちはあの人この人のために、どんな形で愛をあらわせるでしょうか?世捨て人になるのでも、世に埋没するのでもなく、どんな形で愛を生きられるでしょうか?パウロは「もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない」と言います。「あなたがたは肉を食べるな」と言っているのではありません。パウロ自身がその人のために、どんな形で愛をあらわせるかを言いたかったのです。

5月7日(日)の礼拝は、創世記第14章1節〜24節から、「信仰生活の日常」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved