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カフェ礼拝がありました

7月16日(日)はカフェ礼拝でした。

いつもの礼拝スタイルから、みんなが向き合い、お茶をいただきながらのカフェスタイルで。

子供たちも自由なスタイルで礼拝の場に。

礼拝の前半は挨拶タイム。

教会に来るきっかけや教会に来て「ああ、良かった」と思えることをシェア。

笑いあり、涙ありの素敵なお交わり。

中盤は賛美タイム。

有志の賛美や演奏が行われました。

時間はあっという間に過ぎていきました。

後半はメッセージタイム。ヨハネによる福音書第14章6節から、「わたしが道である」と題してメッセージでした。

登山道には登山口があります。そして最初は広い階段があったりしますが、段々狭く険しくなります。しかしその道すがらには道しるべがあります。それを頼りに、励みに登ることができます。頂上に来れば空気も景色もお弁当も格別です。自分の足で登ったから。でも誰かが先に上り、道しるべをつけてくれていたおかげ。

私たちが普段使う道路。人や物が流れています。「物流の動脈」と言うことも。また私たちの生活に欠かせない上下水やガスや電気などのインフラが埋まっています。「ライフライン」と言うことも。しかし災害などが起こり、道路が寸断されるとたちどころに物流や私たちの生活は滞ってしまいます。私たちが生活できるのも、誰かが道路をつなげ、整備してくれているおかげ。

では天国への道は?キリストのおかげ。私たちはみな、自分の背負う重い罪(的外れ)の荷物で天国へ行けなくなっています。キリストは『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』と言われます。縮めるなら「わたしが道だ。だれでもわたしによって父のみもとに行ける」。父のみもとは天国と言い換えても差し支えないでしょう。それだけを言うのではありませんが。キリストは天から下ってこの世界に生まれて下さいました。それがクリスマス。そして、全人類の重い罪の荷物を身代わりに背負い十字架で死んで、罪の重い荷物を処理して下さいました。だからよみがえられた。それがイースター。それからしばらくの後、天に上られました。私たちは死にまではたどり着けても、どんな宗教や哲学や科学技術や人間的な富や力を持ってしても、その先の天国へは行けない。天国へのはしごは下からはかけられない。キリストが天から下って上って天国への道をつけて下さった。はしごをおろして下さったのです。

ではどうすれば私たちは天国へ行ける?自分の背負っている罪の重い荷物を認め、キリストの十字架が私の身代わりだったと信じて告白することです。するとキリストの十字架が私に適用される。自分では解くことのできなかった罪の重い荷物が解かれる。すると十字架を入り口とするキリストの道に乗っているのです。キリスト教(宗教)と言うけれど、実はキリスト道。私の永遠の命の大動脈、ライフラインとなるのです。

ではどんな道を歩く?今までの生活とそんなに変わりません。山や谷、晴れや雨、狭い道、広い道の時もある。問題が起こったり襲いかかることもある。しかし道しるべがある。それが真理。キリストの言葉。聖書の言葉。それを頼りに、励みに生活し前進するのです。

そして最後の難所、死を迎えます。でもキリスト道にあるならば父のみもと。そして信仰の先輩たちとも再会を果たす。キリストの再臨の時、新しい復活のからだを与えられ、最後の審判の後、新しい天と地で共に永遠に住まう。そこまで導かれるのです。キリスト道に迷いなし。「わたしが道だ。だれでもわたしによって父のみもとに行ける」。

7月23日(日)は講壇交換礼拝。明野キリスト教会の大頭眞一牧師が来て下さって、エペソ人への手紙第2章19節〜21節から、『御霊の一致の教会』と題してメッセージです。私は明野キリスト教会でメッセージです。

 

 

 

丁寧な神様

パブリック・リレーションズ(PR)とは、政府や企業や団体、またはリーダーが、国民や株主、サービスを受ける側の人々、またリーダーを立てた人々と双方向コミュニケーションを取りながら、微調整や軌道修正を行いつつ、目標や目的を達成していく関係活動を指します。その関係活動に欠かせないのが「説明責任」。その関係活動や説明を広報誌や機関誌で報告する。組織やリーダーの生命はPRと説明責任にかかっています。実はその原型ともいえるやりとりが聖書にあります。ということで、7月9日(日)に礼拝は、創世記第18章1節〜33節から、「丁寧な神様」と題してメッセージでした。

私たちのもてなしを受けて下さる主

アブラハムがカナンに来て25年。いろんな事がありましたが、信仰の原点であるマムレのテレビンの木の傍らで生活していました。そこへ3人の旅人がやってきました。しかし3人は普通の人々ではありませんでした。アブラハムは『主』という神様を呼ぶ言葉を使っています。当時族長は旅人をもてなすのが当たり前。アブラハムは主を含む3人を一生懸命もてなしました。今まで神様の方から一方的にアブラハムに語りかけ、約束し、導いてこられました。アブラハムも神様のお言葉に従おうと今日まで歩んできました。そんなアブラハムに対して、神様もまた尊敬と感謝を込めて『お言葉どおりにしてください』と従われました。子どものおままごとへの真心からの招待に、親や大人が真剣に丁寧に応じるように、神様は私たちのどんなつたないもてなしも、それが真心からのものなら、喜んで受けて下さる、優しく謙遜なお方です。

一人一人に向き合って下さる主

3人の旅人には目的がありました。来年サラに男の子が生まれると告げること。神様はアブラハムに語ってこられました。女奴隷ハガルにも語られました。でもサラはまだでした。アブラハムの祝福は伴侶であるサラの足並みもそろう必要がありました。神様はその時とみられ語られます。しかしサラの反応は17章でアブラハムが見せた反応とさして変わりません。サラが心の中で笑ったことを神様は二度指摘されますが、怒っておられるわけではありません。老夫婦にとってそれだけ非現実的なことだったから。神様は、信じ切れない自嘲的な笑いをサラに記憶させておられるかのようです。やがてイサク(笑い)を抱く時、神様が本当の笑いを下さったことを感謝できるように。神様は一人一人に丁寧です。そして私たちが「ああ、本当に良かった!」と言える導きをして下さるお方です。

粘り強く向き合って下さる主

3人の旅人にはもう一つ目的がありました。ソドムに行くことです。ソドム・ゴモラが悲鳴を上げている。人々の罪が非常に重いから。破滅状態にあった洪水前の時代のよう。それを実際に行って、見て、触れて、確かめる必要がある。ここも丁寧。しかし神様は自問されます。『わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか』。なぜ自問?神様は祝福の神様でアブラハムを通してこの世界に祝福を満たそうとされたから。滅びと祝福と何の関わりがある?いやしかし。アブラハムを通してソドム・ゴモラさえ祝福の可能性があるのでは?アブラハムはそれと知ってかとりなし始めます。ソドムには親戚のロト一族もいますが、他の人々のためにもとりなすのです。「ソドムに50人の正しい人がいても滅ぼされますか?」「いや、50人のためにすべてゆるそう」「もし45人いたら?」「40人いたら?」…「10人いたら?」「10人のために滅ぼさない」。アブラハムは粘り強い。神様はもっと粘り強い。神様は一人一人を大切にし、向き合い、何とか祝福しよう、何とか救い出そうとされるお方。目標を変えたり信念を曲げたりなさいませんが、私たちとのやりとりによって、その対応やプロセスを変更できるお方。優しく、柔らかく、丁寧なお方なのです。

神様と「神のかたち」の関係にこそPRと説明責任の原型がある。神様と人のやりとりの歴史と、神様の救い(目標)と祝福(目的)の広報誌が聖書です。アブラハムは神様とのやりとりの中で粘り強さを身につけていきました。私たちも神様の丁寧さと粘り強さを身につけさせていただきましょう。

7月16日(日)はカフェ礼拝。皆様の参加をお待ちしています。ヨハネによる福音書第14章6節から、「わたしが道である」と題してメッセージです。

 

ゆるぎない契約

アブラムは「信仰の父」と呼ばれます。しかし神様の祝福を信じて75歳で旅立ち、86歳でイシマエルをもうけるまでの歩みは?神様に向いて聞いて従ってグッと進んだかと思うと、自分たちの常識にとらわれて後戻りするような歩みでした。三歩前進二歩後退。しかしそれでもアブラムの信仰は少しずつ前進します。なぜなら神様がアブラムをあきらめず、見捨てず、祝福し続けられたからです。時に語り、時に沈黙し、導いておられたからです。そしてアブラムが99歳の時、神様は再び語りかけられます。ということで、7月2日(日)の礼拝は、創世記第17章1節〜27節から、「ゆるぎない契約」と題してメッセージでした。

繰り返すお言葉によって

神様はまず言われます。『わたしは全能の神である』。天地創造された神。不可能はない神。人間的なものに縛られない神。「あなたがたの常識ではなく、全能の神である私に向いて聞いて従いなさい」と言っておられるかのようです。次いで『あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ』。全き者。ノアにも使われた言葉。完璧を意味しません。神様に向いて聞いて従う人。全能の神に向いて聞いて従うなら全き者になる。全能の神と全き者。神と神のかたちの響き合い。そのためにまず、神様から声をかけられます。第17章には『契約』という言葉が13回使われています。アブラムは三歩前進二歩後退するような者。しかし神様はそんなアブラムがさらに三歩前進できるよう、契約をゆるぎないものとするために、彼にもまして向き続け、繰り返し語り続けられるのです。

新しくされることによって

ここでアブラムはアブラハムに、サライはサラになります。アブラハムは「多くの国民の父」、サラは「王女」を意味するようです。「名は体を表す」と日本語でも言いますが、聖書の世界でも名前はその人を知る上で、その人を現す上で重要です。そして名前が変わるということは、その人に内的な、立場的な変化がもたらされることを意味します。自分で改名したのではありません。神様が改名されました。自分で自分を新しくしたり変えるよりも先に、まず神様がその人を新しくされるのです。神様が人を新しくされることで、その人も自らを新しく変えることができるのです。神様は繰り返すお言葉だけではなく、祝福を受ける者を新しくすることによって、契約をゆるぎないものとされるのです。

従うことによって

全能の神と全き者の響き合い。アブラハムの側の応答がここにあります。それが割礼です。当時割礼は、地域によっては成人の儀式として行われていました。しかしアブラハム一族にとってははじめてのこと。しかも成人の儀式ではなく、神様の祝福を受ける者としての『契約のしるし』でした。神様はサラから男の子が生まれると言われますが、アブラハムはひれ伏しながらも笑い、心の中で言いました。『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラは九十歳にもなって、どうして生むことができようか』。いくら『わたしは全能の神である』と言われても、何度祝福を約束されても、やっぱり疑ってしまう。しかしアブラハムは疑いながらも神様に従い、割礼を受けました。

信じながらも疑い、疑いながらも従う。これが私たちの現実ではないですか?かつての割礼も現代の洗礼も、神様の祝福を受ける者のしるしとして重要ですが、神様に向いて聞いて従い続けること以上に重要ではありません。しるしはそのための支え、励まし、恵み。それでも神様を疑い、受け入れきれず、目の前の現実に足を引っ張られることがある。しかし疑いは神様に従うことの妨げにはならない。疑いながらも「こうしてごらん」という神様の言葉に従うことは可能なのです。従うことによって疑いが晴れ渡り、受け入れられなかった祝福が現実となり、足を引っ張る現実は過去のものとなる。疑いの笑いは喜びの笑いに変わる。信じながらも疑い、疑いながらも従う。それは結局、信じて従うことに変わりはない。神様は疑うことを許容しておられるようです。私たちは疑いすらも神様に申し上げ、神様の救いと祝福の約束に目を向け、洗礼の恵みである神の子の立ち位置を確認し、今従うべきことに従ってまいりましょう。

7月9日(日)の礼拝は、創世記第18章1節〜33節から、「丁寧な神様」と題してメッセージです。


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