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契約に基づく神の愛

先週は葬りのことをお話ししましたが、今週は結婚のお話しです。今、結婚のかたちも多様化しています。一夫一婦や一夫多妻というだけではなく、性を問わない結婚や人工知能やネコなど相手が人間ではない結婚もあります。「結婚とはこういうものだ」と何気なく片づけていたことが、結婚の多様化によって「結婚とはそもそも何か」と問い直されているのではないでしょうか。ということで、10月29日(日)の礼拝は、創世記第24章1節〜67節から、「契約に基づく神の愛」と題してメッセージでした。ここから聖書における結婚がどのようなものか垣間見たいと思います。ここには三つのキーワードがあります。「祝福」「誠実」「真実」です。

先行する祝福の神様

『アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた(祝福された)』。私たちは創世記のはじめから祝福を追い続けてきました。神様は天地万物の営みを祝福をもって始められました。そして神様はアブラハムの人生の転機も祝福し、祝福の基として導かれました。そして祝福を引き継ぐイサクの物語が始まろうとする時、もう一度、改めて、さらに、神様はアブラハムを祝福されます。つまり何事においても、祝福の神様が先行しているということです。神様の祝福なしには何事も始まらない、ということなのです。なぜなら祝福とは神様のあふれる命と支配と愛が私たちを通して地に満ちることだからです。私たちの結婚も、この先行する祝福の神様を明確に意識すべきなのです。

呼応する誠実な神様

『彼は言った、「主人アブラハムの神、主よ、どうか、きょう、わたしにしあわせを授け、主人アブラハムに恵み(誠実)を施してください。」』。アブラハムの祝福を引き継ぐ子イサクのお嫁さん探しは、アブラハムの年長のしもべに託されました。しもべは祝福の神様に導きを求め、とても具体的な条件を出して祈りますが、その祈りが終わらないうちに、リベカがやってきて条件を満たします。神様はしもべの祈りに誠実にこたえられました。私たちは神様を映し出す神のかたち。神様に向いているなら、私たちは神様と響き合う。神様が望まれることを私も望み、私が望むことを神様も望まれる。どちらかの独断専行ではありません。もし私の望むことがふさわしくなければ神様はそれにも丁寧に具体的に示されます。それが誠実な神様。私たちの結婚も、この呼応する誠実な神様に求めるべきなのです。

神様の真実に従う私たち

『主は主人の兄弟の娘を子にめとらせようと、わたしを正しい(真実な)道に導かれたからです。あなたがたが、もしわたしの主人にいつくしみ(誠実)と、まこと(真実)を尽そうと思われるなら、そうとわたしにお話しください』。しもべはリベカの家族に、今までの一部始終を丁寧に語りました。リベカの家族はその話を聞いて善し悪しを言う理由はありませんでした。リベカも一言『行きます』と応じました。神様はご自身の誠実さを示されることで、ご自身が信頼に足るお方(真実)であることを示されます。私たちの側はその誠実さを受け取り、信頼を表明するのです。実は真実は信頼と表裏一体の言葉。アーメン(その通りです、真実です)という言葉もここから来ています。つまりリベカもその家族も神様の真実に対して「アーメン」と従ったのです。私たちの結婚も、この神様の真実に当の本人も周りの人もアーメンと従うところにあるのです。

神様の祝福も、誠実も、真実も、契約に基づく愛の現れです。それは神様の全存在をかけた愛(かつて約束を守らなければ引き裂かれるという儀式もされました)。偽らない、裏切らない、変わらない愛。この神様に向いて聞いて従わなければ愛も結婚もわからなくなります。逆にこの神様に向いて聞いて従うなら愛は流れ、今ある関係を祝福の営みとして再スタートできるのです。神様あっての祝福、愛、そして結婚なのです。

11月5日(日)の礼拝は、創世記第25章1節〜34節から、「祝福のリレー」と題してメッセージです。

人生は祝福を目指す旅

今、葬りのかたちが多様化しています。それは故人一人一人を大切にする思い、末永く記憶にとどめておきたい思いがあるからではないでしょうか。また思想信条をこえて、永遠を思う根源的な思いがあるからではないでしょうか。ということで10月22日(日)の礼拝は、創世記第23章1節〜20節から、「人生は永遠を目指す旅」と題してメッセージでした。聖書で最初の葬りに関する記述、アブラハムが長年連れ添ったサラの死にまつわる出来事が記されています。

人生は旅
『わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください』。アブラハムはサラのために悲しみ泣きました。男でも、族長でも、神を信じる者でも泣いていい。悲しみを悲しみとして向き合えると深い喪失から再び立ち上がることができる。アブラハムは立ち上がり、慰めに集まってくれた近所の人々に先の言葉を述べました。新約聖書ヘブル人への手紙はこの時のことをこう語ります。『これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした』。私も10回以上引っ越し、様々な状態や環境を経験しましたが、旅と捉えるならさもありなんと思えます。地上をどれだけ転々としようと、同じ場所にどれだけ長く住もうと、アブラハムも私たちも地上では旅人といえるのです。

葬りの場所は希望の場所

『わが主よ、お聞きなさい。あなたはわれわれのうちにおられて、神のような主君です。われわれの墓地の最も良い所にあなたの死人を葬りなさい。その墓地を拒んで、あなたにその死人を葬らせない者はわれわれのうちには、ひとりもないでしょう』と近所の人々。アブラハムは『マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、畑も、その中のほら穴も、畑の中およびその周囲の境にあるすべての木も皆』購入しました。人々の故人を大切にする思いやアブラハムの故人のために惜しまない姿が記されます。この場所がアブラハムの生涯で手に入れた唯一の土地。神様はアブラハムに多くの子孫と広大な土地を約束されました。しかし祝福は一朝一夕にしてならず。彼らは子々孫々の祝福を夢見ながら葬られていきました。葬りの場所は希望の場所でした。私たちの人生も旅なら、このような葬りの場所があれば幸いではないでしょうか。単に遺骨のおさまる場所、悲しみの場所、最期の場所ではなく、やがて実現される祝福を思い起こし、はるかに望み見て喜び、懐かしむ場所となるのです。

地上の死は永遠の祝福の始まり

この葬りの場所にはアブラハム、息子イサクとその妻リベカ、孫ヤコブとその妻レアも葬られました。ヘブル人への手紙にはこう記されています。『もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである』。これを実現されたのはイエス・キリストです。キリストは十字架で死んでよみに降られ、神様の祝福を望みながら死んでいった人々を引き連れて、天に帰られました。旧約聖書の「天」に対して新約聖書の「天国」「都」が空間的広がりを見せるのはこのためです。キリストが天に帰られてからは、信仰者は召されればよみに降らず天国へ行くことができるようになりました。さらに天国は、今の世界に代わって新しい天と地というかたちをとり、アブラハムをはじめ信仰者たちに復活の体と共に、永遠の相続地として与えられるのです。

旅にアクシデントはつきもの。しかし旅の魅力は失せることはありません。世界の大きさと豊かさを教えられ、知識や経験や絆を広げてくれます。人生の旅も同じ。神様の大きさと豊かさを教えられ、私も私たち教会も成長するのです。永遠の祝福への期待がますます高鳴るのです。永遠の都を目指して一歩一歩大切に歩ませていただきましょう。

10月29日(日)の礼拝は、創世記第24章1節〜67節から、「契約に基づく神の愛」と題してメッセージです。

10月15日(日)はバーベキュー礼拝でした

10月15日(日)はバーベキュー礼拝でした。天気は雨でしたが、礼拝堂で霊も心も体も満たされる、楽しく幸いな礼拝のひとときがもたれました。

まずは賛美とメッセージタイム。

次にテーブル毎の自己紹介とテーマに沿った分かち合い。

そしてお食事タイム。

お食事する中で証しや有志の賛美がありました。

今度はどんな礼拝にしようか?また企画したいと思います。

わたしが命のパンである

イスラエルの安息日は各家庭での夕食から始まりました。またイエス様の活躍を記す福音書もイエス様を中心とした食事の風景を描いています。神様を中心とした家族の交わり、イエス様を中心とした神の家族の交わりに食事はつきもの。ということで、10月15日(日)はバーベキュー礼拝を行いました。体のためのお食事の前に、まずは霊のお食事を、ということでヨハネによる福音書第6章35節から、「わたしが命のパンである」と題してメッセージでした。

体に必要なパンを与えられるイエス様

ガリラヤ湖をのぞむ山に登られたイエス様。大勢の人たちがついてきました。その数男性だけで5千人。当時の数え方です。女性や子供も考慮すれば倍以上になるでしょうか。みなお腹をすかせていました。イエス様は弟子のピリポにどうしようかお尋ねになると『二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい』。一人数百円にもなりません。すると別の弟子アンデレが『ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何にになりましょう』。大人二人「無理!」と答えを出しました。しかしイエス様は子供のお弁当を受け取って、感謝して分けられました。するとそこにいた人々のお腹を満腹させ、なお余るほどになりました。

永遠に必要なパンであるイエス様

大人たちはイエス様を王様にしようと追いかけまわしました。自分たちが何もしないで満腹になったから。そこでイエス様は言われます。『よくよくあなたがたに言っておく。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい』。人々「ではどんな働きをすればいいんですか?」。イエス様「私を信じなさい。それがあなたがたのすべきことです」。すると人々「信じますから、そのパンをください!」。イエス様『わたしが命のパンである』。人々「どうやって食べるんだ?無茶苦茶や!私たちはこの人の両親を知ってるじゃないか」。追いかけまわしていた人々も、弟子たちの多くも、イエス様の元を去って行きました。

イエス様を食べて働くにはどうしたら?

イエス様は天地創造の始めから、御子キリストとして存在しておられました。そして私たちに必要な一切があるこの世界を創造し与えて下さいました。パンの奇蹟がなくても、実は私たちに必要なものをずっと、ただで、与え続けて下さっています。しかし私たちは神様を認めず感謝もしないで、この世界を貪り尽くし、互いに奪い合い、何もかも滅ぼそうとしてはいないでしょうか。しかしそんな私たちのために、この体のためだけではなく、永遠の命を与えるために、イエス様は来られました。私たちが招く滅びとその刑罰を十字架で死んで肩代わりし、三日目に復活して下さいました。それは私たちの罪が赦され、永遠の命と復活の体が与えられることの証しです。このイエス様を私の救い主として信じることが食べること。『わたし(イエス様)の父のみこころは、子(イエス様)を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう』と言われた通りです。では働くとは?イエス様を信じてイエス様に従うこと。去るのではなくついていく。もう少し具体的に言うと自分にできることを献げること。貪り奪うのではなく分かち合う。大人たちは何もしないで満腹したと思っていましたが、違いますよね。子供がお弁当をイエス様に献げたから。献げたら子供は食べられなくなったかというと?子供も多くの人々も満腹したのです。

私たちも命のパンであるイエス様を私の救い主として信じましょう。そして私にできることをイエス様に献げてまいりましょう。そして私たちみんなで豊かになりたいと思います。

10月22日(日)の礼拝は、創世記第23章1節〜20節から、「人生は祝福を目指す旅」と題してメッセージです。

秩序を大切にする教会

日本人は行列に忍耐強く並びます。割り込みません。一緒に頑張って並んでいるという連帯感すら生まれます。また譲り合い精神もあります。以前バスの中で大きなキャリーバッグを持った老婦人に席を譲ろうとすると「座ると立てなくなる。このバッグで安定しているから、どうぞ座っていて下さい」と逆に席を譲られました。順番を守る。割り込まない。譲り合う。それは互いを大切に思う気持ちあってこそ、ではないでしょうか。しかしコリント教会では…ということで、10月8日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第14章26節〜40節から、「秩序を大切にする教会」と題してメッセージでした。

順番を守る

パウロは霊の賜物、特に預言と異言について、用い方のルールを示しました。当時の礼拝は言わば家庭集会。今風の司会者、説教者、プログラムがあったわけではありません。内容的には賛美、教え、啓示、異言がありました。教えや啓示は預言と言い換えられます。礼拝の要素としては今とあまり変わりません。そして異言も預言も二、三人が順番に語り、かつ異言は解く必要があり、預言は吟味する必要がありました。異言は解けなければ家で個人的に語るようにとパウロ。そして『預言者の霊は預言者に服従する』と。教会は自己主張したり、誰かが会話を独占したり、誰かを口撃したり、誰かが語っているのに我も我もと語り出す場ではありません。一人が語るならみんなで傾聴する。語る人は慰め励ましいたわり合うことに配慮し、時間や人数に考慮し、次の人へバトンを渡す。そういう理性を働かせた吟味が必要なのです。

割り込まない

『婦人たちは教会では黙っていなければならない』とパウロ。またも女性に対する差別的な意見?パウロは礼拝で女性が預言や祈ることを禁じていません(11章)。この婦人たちはコリント教会の特定の人たちだったようで、預言の流れを中断し話の腰を折るような批判や議論を割り込ませていたようです。集まりが神様を礼拝し神様からいただいた恵みを分かち合う場ではなく、議論の場になっていました。パウロはなぜルールを示すのか。それは互いを大切にし守るため。互いを信頼し尊敬し愛し合うため。本当に信頼する友人なら、あなたは友人の話に共感をもって傾聴し、真摯に労いや感想を述べ、そこで語られた個人情報は他言せず、互いをより解放し、信頼を深めるているはずです(意識せずともルールを守っている)。教会はそういう関係を、教会に集うどんな人とも、ゼロから培う場なのです。

聖書に譲る

コリント教会は今まで様々な主張をしてきました。そして礼拝で異言を語って何が悪い!批判や議論をして何が悪い!と自由の拳を振り上げていました。しかし混乱が起こり無秩序に陥っていました。学級崩壊ならぬ礼拝崩壊?自由とは「みずからのわけ」を知ってそのわけに従うことです。自分の「ぶん」をわきまえ、それを果たす人こそ自由な人です。また相手の持ち場立場も大切にし、出しゃばらず、割り込まず、ルールに沿うことができます。聖書はその「みずからのわけ」「ぶん」「ルール」を教えます。時代遅れや時代からずれた古い堅い書物ではありません。全時代全地域を見渡した神様の霊によって記された聖書です。その言葉に丁寧に傾聴するなら、自由を主張し混乱する今の時代にこそ必要なメッセージが伝わってきます。私たちが互いに語ること以上に、聖書が語ることに傾聴し従うなら、強制された堅苦しい秩序ではなく、本当の自由から来る柔らかな秩序、キリストのからだとしての調和、キリストの営みとしての平和が生み出されるのです。

私たちの交わりは教会堂の中とは限りません。どこででも楽しんで下さい。そんな時今回のルールを思い出して分かち合って下さい。慣れてくれば信頼と尊敬と愛が培われています。互いの交わりがそこまで成長すれば、教会がしっかり建て上げられていることになるのです。

10月15日(日)はバーベキュー礼拝。ヨハネによる福音書第6章35節から、「わたしが命のパンである」と題してメッセージです。

霊の賜物で建て上げる教会

かつて「愛の配慮で建て上げる教会」という話しをしました。パウロは『徳を高める』(建て上げる)という言葉を使いました。また「霊の賜物を持ち寄る教会」という話しをしました。それぞれに与えられた違う賜物を持ち寄りいたわり合うことが教会の営みでした。そして様々な賜物を意味あるものとして活かすために、みんなが求めるべき賜物がある、それが愛だ、という話をしました。愛の配慮で建て上げる教会は、賜物で建て上げる教会、賜物で建て上げる教会は愛で建て上げる教会。そしてパウロは再び『徳を高める』という言葉を使って、コリント教会の賜物についての問題を記します。ということで、10月1日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第14章1節〜25節から、「霊の賜物で建て上げる教会」と題してメッセージでした。

建て上げるために

コリント教会の今回の問題、それは異言の賜物についてでした。異言には二種類あります。突然外国語が話せるようになって、その外国語を理解する人々に福音を語ること。使徒行伝に記された福音宣教最初のしるし。現在ではレアな賜物。宣教師は現地の言葉を時間をかけて学んで宣教に出かけています。もう一つは地上の言語ではない音声を発すること。これは現在もあります。コリント教会の異言問題は後者。パウロは異言を否定しません。誰よりも異言を語れることを感謝しています。しかしそれよりも預言することを熱心に求めるよう促します。預言とは(予言も時に含まれますが)神様からの言葉を預かって、人々に向かって語り、慰め、励まし、いたわって、徳を高めるためのもの。福音宣教最初のしるしである異言は「教会を建て始める」ためのもの。そして預言は「教会を建て上げ続ける」ための賜物なのです。

理解するために

パウロはコリント教会の異言を次のようにたとえています。『また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか』。前の章でパウロは『たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである』と語っていますが、どこか似ています。パウロは第12章で賜物や賜物を持つ人々を列記しますが、いずれも預言を前の方に異言は後ろの方に記しています。要するに神の奥義、キリストの福音、聖書の真理は、人に向かって意味が明らかにされて理解されてなんぼだ、ということなのです。

分かち合うために

パウロは異言を自分で解くことができるように、また誰かが解けるようにしなさいと語ります。解くことができれば、自分にも周りの人にも明らかにされ理解され伝わるからです。異言で祈っていて、お互いが理解して共有できるものがあるか。自分だけで完結していないか。異言で祈れない人が傍観者になっていないか。『しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい』。パウロは霊と知性(理性)の両方が大切だと語ります。霊で語ると共に理性で語る。異言の方が預言よりも霊的なのではありません。どの賜物も霊的です。またどの賜物も理性を持って活かし、神の奥義、キリストの福音、聖書の真理が理解され、分かち合う必要があるのです。

救われるために

パウロは『初心者の席にいる者』『未信者』『不信者』にも配慮します。当時の教会に特別席があったかはわかりません。クリスチャンの家を開放して、日常的に集まり共に食事をし礼拝していました。そこへクリスチャンでない同僚や友人を連れて来ていました。そこでみんなが異言で語っていたらどんな風に目にうつるか?びっくりしないか?拒絶反応が起こりはしないか?預言ならその言葉がすっと入ってこないか?理解され、心響いて、神様を認めるに至らないか?預言−神様の言葉を預かって語る−は、牧師の説教に限りません。親や子に、妻や夫に、同僚や友人に、神様の言葉を語るのはあなた。お祝いの席で神様の祝福を、お見舞いで神様の励ましを、お悔やみで神様の慰めを語るのはあなた。教会は日曜日の礼拝だけに集まる教会堂ではありません。神の奥義と現実の世界を結ぶ交わり。キリストの救いと祝福を日常生活の中で具体的に分かち合う交わり。預言はそれを橋渡しするためのもの。私にもあなたにも神様から預けられた言葉、証しの言葉があるはずです。

10月8日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第14章26節〜40節から、「秩序を大切にする教会」と題してメッセージです。

 


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