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十字架の香りいつまでも

日本人は「におい」に敏感だと言われます。微かな「くさい」にも、強い「かおり」にも敏感。上下水道が完備され、機能的な浴室や洗面台、消臭・除菌機能のあるトイレや空気清浄機の普及によって、「くさい」も「かおり」も取り去られてきたからではないでしょうか。しかし上下水道や今のような洗面台や浴室やトイレがなかった時代はどうだったか?「におい」が立ちこめていた。「くさい」か「かおり」かと言うなら「くさい」が圧倒的だった。ですから「かおり」が極めて重要でした。今回はイエス様の「かおり」のお話し。ということで3月25日(日)の棕櫚の主日礼拝は、マルコによる福音書第14章1節〜11節から、「十字架の香りいつまでも」という題でメッセージでした。

弟子たちの垂れ流した悪臭

体臭の話ではありません。キリストが十字架にかかられる2日前。ベタニヤという村の『重い皮膚病人シモンの家』。当時、重い皮膚病の人は社会から隔絶された生活を強いられました。しかしそこでキリストと弟子たちは食事をしていました。キリストがシモンを癒やされたのかも知れません。そこへ『ひとりの女』がやってきてナルドの香油をキリストの頭に注ぎます。誰が嗅いでも超高級品だとわかりました。すると『ある人々』が激怒して「なんと無駄なことを!」「お金に換えて貧しい人々に施したらいいのに!」と批難します。『ある人々』とは弟子たち。他の福音書にも同じ記事があり、そこから弟子たちだとわかります。イスカリオテのユダの可能性もあります。また別の福音書に似た記事があり、彼が同じように発言しています。イエス様は「貧しい人々はいつもお前たちといる。お前たちこそ日々良いことをしてやれるじゃないか」と、女性にではなく、弟子たちに「できること」を諭されました。しかし弟子たちがしていたことと言えば、金持ちにペコペコ、子どもややもめには上から目線、挙げ句の果てにキリストを裏切る。イスカリオテのユダにおいてはキリスト一行の会計から横領までしていた。えげつない?私たちは弟子たちを責められる?他人のしていることに批判旺盛でない?正論をぶって、欠点をあげつらい、やる気を失せさせ、引きずり落とす。そのくせ「いえいえ私のような者は」と謙遜を装い何もしない。それどころか人に言えないことをしている。批判や不平不満や欺瞞という心の悪臭を垂れ流していないか?自分の「するべきこと」を忘れていないか?いや知っていながら知らぬふりをしていないか?キリストは私たちのこのような悪臭を一身に浴びて十字架にかかられました。

女性の献げた香り

ナルドの香油の女性。名前は出てきません。ナルドの香油は弟子たちの見積もりで『三百デナリ以上』。300日分の日当。将来の結婚準備のための香油だったのか?なぜキリストに?重い皮膚病人シモンの娘で父が癒やされたことへの感謝か?温かい交わりへの感謝か?キリストへの愛か?想像はつきません。しかしはっきり言えることが一つある。それはこの女性がキリストに『できる限りのことをした』ということです。キリストは『全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう』とまで言われました。この女性の行為は、端から見ればなんと愚かなことをと思われました。しかしこのナルドの香りは十字架のキリストを支え続けたのです。翌日の最後の晩餐の時も香り、ゲツセマネの祈りの時も血の滴りのような汗が落ちる度に香りを放ち、十字架当日のむち打ちの時も体が裂けて血しぶきが上がる度に香りもはじけ飛び、十字架を担ぐ背中からも香りが立ち上り、ゴルゴタへ向かう道にも香りが漂い、茨の冠の刺し傷や釘に貫かれた手足の傷からも香りが放たれました。キリストはその香りを嗅いで激痛をたえられた。死んで脇腹を刺されても香りを放ち、埋葬されるまで香り続けました。私たちの罪の悪臭を一身に浴びたキリストの十字架でしたが、ナルドの香り、キリストの香りはそれを完全に消し去ったのです。

私たちは他の誰でもない、自分に罪の悪臭(やがて滅びの死臭となる)があると認め、キリストの十字架がそれを取り去ると、信じて告白することが、まず「するべきこと」です。キリストの十字架は罪の死臭を取り去るだけでなく、永遠の命と復活という香りを満たし、その香りを注ぎ出す者へと変えてくれるのです。キリストは私たちが『できる限りのこと』をする時、それを「キリストの香り」として喜んで用いてくださいます。無名のような私たちであっても、聖書の偉人たちと同じように、心に刻み、永遠に記念してくださるのです。

4月1日(日)はイースター召天者記念礼拝。ルカによる福音書第24章13節〜35節から、「復活の主と共に歩く」と題してメッセージです。

卒園式がありました

3月19日(月)は、天授ヶ岡幼稚園第64回卒業式がありました。34名の子どもたちの門出の時。これからの新しい生活の祝福をお祈りさせていただき、「下に根を張り、上に実を結ぶ」という聖書の言葉から祝辞を述べさせていただきました。

教区青年部交流会がありました

3月18日(日)の午後は京都教区青年部交流会が京都聖徒教会を会場に行われました。

ギター、ベース、ウクレレ、ピアノ、ドラム、カホン、パンデイロ等、様々な楽器も使って賛美。

2017年度、ほぼ月一回のペースで例会を行い、青年たちもこういった交わりに慣れてきたようです。

天授ヶ岡教会前任牧師の吉田美穂先生(現知多教会牧師)がイスラエル旅行の報告から、イエス様の十字架までの道のりのお話しをして下さいました。

復活の勝利の姿

コリント人への第一の手紙のクライマックスは復活。信じられない人には最大の障壁、信じられる人には最大の恵み。パウロはキリストの復活の事実、復活への信仰、復活に向かっての生活と記してきました。そして最後に復活の勝利の姿を記します。パウロは手紙の最初に奥義について記しましたが、ここでまた『あなたがたに奥義を告げよう』と記します。奥義中の奥義。復活の姿とはどんな姿か?ということで、3月18日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章35節〜58節から、「復活の勝利の姿」と題してメッセージでした。

地のものから天のものへ

コリント教会の中には『どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか』と言う人もいました。私たちも興味のあるところ。パウロはいくつかのたとえで説明します。『種』。種は殻や実におおわれています。やがて殻や実は取り除かれ、種だけが残ります。種にこそ命があります(「命あっての物種」という表現もあります)。殻や実は私の体。種は私の霊。私の外側は朽ちても霊は残る。種を蒔けばまた実を結びますが、パウロは『やがて成るべきからだをまくのではない』と言います。今と変わらない体をまたまとうのではないことを、地上の生き物の『肉』と天の星々の『栄光』(輝き)で語ります。地上の生き物がまとう肉には形や大きさや役割の違いがあります。しかしあくまでも『地に属するもの』で土に還ります。しかし復活の体は『天に属するもの』で、星々も形や大きさや色など違いがありますが、肉のような死はなく、ずっと輝き続けるのです。似ているところもあるけれど「天と地ほど」違う、とパウロは言いたいのです。

最初の人から第二の人へ

さらに『最初の人』『第一の人』『土に属する人』アダムと『最後のアダム』『第二の人』『天に属する人』キリストを比較します。天地創造の時、神様は土で人の体を造り、命の息を吹き込まれ、『最初の人アダムは生きたものと』なりました。肉があって命があった。私たちもアダムに連なり、アダムに属したままなら同じ。土が土台、肉が土台、朽ちる体が土台。しかしキリストは十字架の死と復活を通して『命を与える霊』となられました。自分だけじゃない、人にも与えるほどの、湧きあふれる命の霊!私たちがこのキリストを信じるなら、キリストに連なり、キリストに属する者となります。霊が土台、命が土台、その上に朽ちない体があるのです。パウロは『朽ちるものでまかれ、朽ちないものに、卑しいものでまかれ、栄光あるものに、弱いものでまかれ、強いものに、肉のからだでまかれ、霊のからだに』と言葉を重ねます。私たちの今の体も神様によって与えられた素晴らしい体ですが、新しく用意される復活の体はかくも劇的に違うと、パウロは言いたいのです。

死から命の勝利へ

ここに『神の国』が登場します。今も私たちの内側にあります。見えない霊の世界において−天国とも表現しますが−存在します。しかしここでは、目に見える形で出現する新しい天と地を指します。復活の体は何のためにあるか?新しい天と地で生活するためにある。ここでパウロは『あなたがたに奥義を告げよう』と記します。それが私たちの復活の瞬間と死への勝利宣言です。その時『終わりのラッパ』が鳴り響きます。今時は緊急災害速報がスマホを通して同時にあちこちで鳴り響きます。その時はどこにいてもラッパが鳴り響くのを聞くのです。そして先に眠った兄弟姉妹−言い換えれば天国で待機していた兄弟姉妹−も、その時地上で生存していた兄弟姉妹も瞬く間に復活の体が与えられます。では地上で生存していた兄弟姉妹は死を経験しないのか?経験します。新しい服を着るために古い服を脱がねばなりません。パウロは別の手紙で『上に着ようと』とも表現しますが、いずれにしても今の体の死は、その瞬間に経験します。そして今の世界も死を迎え、今まで見えなかった天国が新しい天と地という形を身にまとうのです(詳細はヨハネの黙示録が記します)。そして死への勝利宣言がなされて私たちは新しい天と地で永遠に住まうのです。

パウロは『必ず朽ちないものを着、…必ず死なないものを着る』と言います。この世がもてはやす勝利にはいろいろあります。しかしどんな勝利も死が飲み込んでいきます。私たちを死から救ってくれません。死の向こうの生活を保障してくれません。しかし地上で私たちがどんなに卑しく弱く小さくとも、パウロが伝えた福音、私たちが立ってきた福音を固く守っておれば必ず、この世の勝利に勝る勝利、死への勝利、復活の勝利の姿を手にすることができるのです。『だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい』とパウロ。最後の部分は「主のわざを豊かにしなさい」とも訳せます。私たちは地上の生活で手を抜くことなく、また無いものを絞り出して頑張るのでもなく、神様からいただいたあふれる『命を与える霊』の祝福を喜び楽しみ、豊かに分かち合ってまいりましょう。

3月25日(日)は棕櫚の主日礼拝。マルコによる福音書第14章1節から11節から、「十字架の香りいつまでも」と題してメッセージです。

 

 

復活に向かっての生活

『兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである』。パウロは復活の問題の始めにこう記しました。福音は過去に一度信じればいいとか、死ぬ直前に信じればいいというものではなく、常に信じ続けるなら(現在進行形)、救いは今ある(現在完了形)、ということです。これまで復活の事実、復活への信仰と見てまいりました。今日は復活の事実と信仰に基づく生活、福音を信じ続ける生活を見ます。ということで、3月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章20節〜34節から、「復活に向かっての生活」と題してメッセージでした。

福音の過去・現在・未来を踏まえる

パウロは20節〜28節で、福音の壮大な歴史をコンパクトに記します。私たちの死は最初の人アダムによって入りました。アダムは神様に向かず聞かず従わなくなり、神様からの命と支配と愛が流れなくなりました。私たちは、神様から断絶し、的を外したアダムに連なって生まれてきました。ですから私たちも断絶したまま、的を外したままなのです。これが福音の過去。しかし神様は人が死ぬのをただ手をこまねいて見ておられただけではありません。神の子キリストを世に遣わされました。キリストこそ神様に向き続け聞き続け従い続けたお方。このキリストがアダム以来の死を一手に十字架で背負い、滅びの苦しみをただ一人味わわれ、『眠っている者の初穂』として復活された。当時イスラエルでは麦の収穫の時、最初に鎌を入れた麦(初穂)を神様に献げました。すると後の収穫も全て神様のものとみなされました。神様は、キリストという初穂を私の救い主と信じるなら、私もその死と復活に連なる者とされるのです。これが福音の現在。しかし今まで復活したのはキリストだけ。キリストが再び地上に来られる時、『キリストに属する者』が一斉に復活します。また人が肉体の死を迎えるように、この世も死を迎える時が来ます。その時、キリストはこの世の権威・権力を滅ぼして、万物を神様にお返しされる大団円を迎えます。これが福音の未来。私たちは生活や学びや仕事において、自分がいる持ち場立場をよくわきまえて、目標やビジョンを持って進むことが大切です。福音の過去・現在・未来を踏まえて、福音の大団円を楽しみに日々前進するのです。

神様に向いて聞いて従い続ける

29節〜34節には『死者のためのバプテスマ』が出てきます。福音を信じて死んだかどうかわからない人の代わりに、バプテスマを受けたらその人が復活するかも…というようなことです。聖書に出てくるのはここだけ。パウロは否定も肯定もしません。ただ復活を信じる人々の様子を言っている。復活を信じるのはパウロも同じ。パウロは福音を信じたかどうかわからないで死ぬことがないように、生きている人々に命懸けで福音を伝えました。そして何度も死にそうになりました。『わたしは日々死んでいる』。裏を返せば「わたしは日々復活して今日に至っている」と言うことです。本物の死は後からやってきますが、パウロは日々小さな死と復活を体験しながら生かされてきた。しかし復活がないなら、これほど愚かなことはありません。信念を曲げずエペソで獣と戦っても(当時の死刑方法の一つ)無駄死になだけ。なら『わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ』と誰かの言葉を引用します。死で終わりなら好き放題すればいい。神はいない。この世界も生命も偶然発生した。強い者が生き残るだけ。倫理なんて関係ない。やったもん勝ち!こういう人、世の中にたくさんいません?福音の過去・現在・未来とは違った歴史観を刷り込まれて、世の中は混沌としていない?『目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい』とパウロ。聖書は死ぬことを「眠る」、復活を「目ざめる」と表現します。「死で終わり」とは寝言のようなもの。違う!復活はある!目を覚ませ!「罪を犯さないように」するにはどうすればいい?「悪いことをしない」というよりも、キリストのように神様に向いて聞いて従い続けることが大切。そうすれば神様がよくわかってくる。パウロは、コリント教会の中に復活はないという人がいて、神様がわからなくなってきていることを指摘しました。

神様に向いて聞いて従い続ける。新約聖書的に言えばキリストに向いて聞いて従い続ける。すると神様の命と支配と愛が、キリストを通じて、私に流れ下る。福音を信じ続ける所に救いがある。パウロは自分のように危険に遭え!獣と戦うほどのガッツある信仰を持て!と言いたいのではありません。私たちの人生にも姿形は違っても日々小さな死や復活がある。自暴自棄になるのでも、禁欲主義や快楽主義に走るのでもなく、完全な復活という素晴らしい目標を楽しみに、今与えられている小さな復活の恵み、神様の命と支配と愛を喜び、楽しみ、分かち合ってまいりましょう。

3月18日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章35節〜58節から、「復活の勝利の姿」と題してメッセージです。

 

復活への信仰

パウロが宣べ伝えてきた福音、コリント教会も信じ立ち続けてきた福音。その核心はキリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、よみがえっていること。このよみがえり、復活こそキリスト教がキリスト教たるゆえん。また信じるか信じないかの分かれ目になる出来事。なぜ復活なのか?なぜ信じるのか?ということで、3月4日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章12節〜19節から、「復活への信仰」と題してメッセージでした。

復活は私たちのためにある

『さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか』。コリント教会の中に『死人の復活はない』と言う人々がありました。キリストの復活も他の人々の復活もない、ということか?キリストの復活はあっても他の人々の復活はない、ということか?パウロはどっちもある!と言います。しかもキリストの復活があったからみんなの復活もある、と言うのではなく、みんなの復活があるからキリストの復活がまずあったんだ、と言うのです。神様は私たちの復活を前提にキリストをこの世に送り込まれました。現代の科学技術で人や動物の体再生の可能性は出てきました。しかしその体に入る霊までは決められません。体は同じでも別人または別の個体となります。ですから正確には復活になりません。しかし神様は、死を持って一旦体を失った私たちに、朽ちない、似て非なる、新しい体を与えられます。これが復活。ノアが生きた洪水前の世界は人がなかなか死なず、地は暴虐に満ち破滅状態でした。洪水後、人の寿命は今と変わらなくなっていきました。人間は罪を持ったまま永遠に生きられません。もし科学技術でそうなったとしても、またあの洪水前の世界になってしまいます。死は人間が永遠に苦しんで生きることがないために必要とも言えるのです。しかし神様は死を、私たちを滅ぼすための最期の壁として置かれたのではありません。罪を持たない状態に復活させ、永遠に健やかに生きられるようにするための「信仰の門」とされたのです。神様は私たちの救いのために、死と復活をセットで用意されているのです。

復活がなければ信仰はむなしい

『もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい』。キリストは私たちの罪を身代わりに背負った十字架で、永遠の滅び、完全な滅び、神様に見捨てられたという死をただ一人経験されました。でも復活がないなら?キリストの犠牲的な行為はありがたいですが、罪が赦された証拠は何もありません。キリストにせよ、私たちにせよ死んだままというのは犯罪人が監獄から出られないのと同じ。しかしキリストは墓から出られた。復活している。それが罪の赦された明確な証拠。キリストは元々神の子であり罪はなく死ぬ必要はありません。ですからその死は純粋に私たちの罪のため。その復活は純粋に私たちの罪の赦しの証拠。ですから私たちの復活もまた確かにあるのです。キリストの死だけでは福音にならない。復活あっての福音。私たちが無いことを有ると信じて、命を懸けて伝えているなら、これほどむなしいことはありません。憐れな嘘つきです。私たちは無いことを有ると信じているのではなく有るから有ると信じている。「じゃあ別にクリスチャンにならなくてもみんな復活できるんじゃないの?」と思われるかもしれません。そうであれば復活後の世界もまた暴虐と破滅が続きます。キリストの福音は私たちの罪と死への完全な治癒薬です。先ほど死は「信仰の門」だと言いました。私が罪を自覚せず、福音を信じないなら(飲まないなら)私の罪はそのまま。死は「滅びへの門」となります。しかし私が罪を自覚し、福音を信じるなら(飲むなら)私の罪は赦され除かれ、死は「救いの門」「復活への門」となるのです。復活への信仰がなければ私の存在そのものがむなしくなってしまうのです。キリストの復活は私の(あなたの)罪の赦しのため、復活のため、新しく永遠に健やかに過ごすためにあるのです。

次回は、復活の事実を知り、復活への信仰を持ち、福音を固く守り続ける生活について学ぶことといたしましょう。3月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章20節〜34節から、「復活に向かっての生活」と題してメッセージです。

 


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