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キリストの手紙

問題だらけのコリント教会。パウロとの関係がこじれたコリント教会。パウロは第一の手紙を記してテモテに託し派遣しました。パウロ自身も赴きました。さらに涙の手紙を記してテトスに託しました。そしてパウロ自身、コリント教会へ行きたい思いはあっても、コリント教会自らが問題を認め、向き合い、取り組む機会を与えるため、しばしとどまりました。するとコリント教会に変化の兆しが現れた!テトスの報告を受け、第二の手紙を記し始めました。手紙の中で、その変化の報告を『キリストのかおり』『キリストの手紙』と喜びました。ということで、6月24日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第2章12節〜第3章3節から、「キリストの手紙」と題してメッセージでした。

キリストのかおり

パウロの時代、戦争の敗者は捕虜として勝利国へ連行され、死刑か奴隷にされました。凱旋の時、香が焚かれました。その香りは勝利者には栄光、捕虜には死を意味しました。パウロは罪と死に勝利されたキリストの捕虜です。パウロが負けたのでも死を宣告されたのでもありません。キリストの命に生かされ、キリストの栄光に与る者とされた。捕虜なのにキリストと同じ扱い!そのパウロが放つ『キリストのかおり』とはキリストにあって語る神の言です。当時、コリント教会をはじめ、教会を巡り歩く「自称教師」がいました。彼らは神の言を『売り物』にしていました。『売り物』とは「混ぜ物」や「水増し」等、当時の商売上の不正を意味する言葉。それに対してパウロは『真心』を込めて語りました。『真心』とは「純粋」と訳せる言葉。パウロも教会もキリストに救われました。このキリストこそ神の言そのもの。このキリストに従って、足しもしない引きもしない純粋な神の言に立ち続け、語り続ける。「世の中では『ああ』も言われ、『そう』も言われます。しかし聖書は『こう』語ります。私はそれに従うまでです」。そうすればキリストを知らない人に、『キリストを知る知識のかおり』を放つことになるのです。

キリストの手紙

『推薦状』は「手紙」と同じ言葉。「自称教師」は偉い人の推薦状(誰かわかりませんが)を見せて、教会に入り込もうとしていました。そういう人たちがパウロを自称使徒だと批判したようです。今までパウロは「神の御旨によるキリストの使徒パウロ」「神の慰めで慰められるパウロ」「神の真実に従う真実なパウロ」「神の愛でコリント教会を愛するパウロ」「キリストの勝利に伴われ、キリストのかおりを放ってきたパウロ」を記してきました。「ほらやっぱり!自己推薦している!」と批判を受けそうです。しかしパウロはひるまずコリント教会こそ私の推薦状だ!キリストの手紙だ!と語ります。パウロはコリント宣教から今に至るまで、コリント教会にひたすら純粋に神の言を語り続けてきました。キリストのかおりを放ち続けました。コリント教会にどんな問題があろうと、どんな人がいようと、どんな批判があろうと、神の言はコリント教会の心に刻まれ、キリストのかおりは染みこんでいた。そしてついに動き出した!キリストの手紙とは、神の言を語り・聞くだけではなく、神の言に従って生きる教会。コリント教会こそキリストの生きた手紙。コリント教会こそパウロが使徒であることの生きた証拠だったのです。

「クリスチャンなのに、教会なのに証しにならない」なんてことありません?弱さも欠点も問題もある。それをきちんと認めないで、向き合わないから証しにならないのです。問題を乗り越える経験がないから証しできないのです。「コリント化」していた私たちがキリストに救われ、聖徒という立場を与えられました。そして立場だけではなく、実質聖徒になるために、「キリスト化」していく営みを始めるのです。問題を認め、向き合い、乗り越えるのです。問題は乗り越えるためにある。成長のためにある。この営みこそ、世の人々に読んでいただきたいキリストの手紙の醍醐味なのです。パウロはコリント教会を信頼し誇りました。神様も私たちを信頼し誇って下さいます。この神様の言に養われ、なお立ち続け、従ってまいりましょう。

7月1日(日)の礼拝は、創世記第37章1節〜36節から、「蒔いたものの刈り取り」と題してメッセージです。

 

カフェスタイル礼拝のご案内です

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神の子でも

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という書き出しのマルコによる福音書。当時「福音」と聞くと「戦いの勝利」をイメージしました。先に伝令が国に福音を伝える。伝令に褒賞が与えられる。やがて勝利した軍隊が戦利品を携え帰還。国が喜びに沸き返り分け前に与る。ではイエス様の福音とは何の勝利?どんな分け前が?マルコはイエス様の福音を受け取るために、私たちがまずすべきことを記します。罪を悔い改めてバプテスマに与ること。続いてイエス様がバプテスマを受けられることを通し、さらなるバプテスマの恵みを記します。バプテスマの恵みだけでも十分福音と言えそうですがまだ準備段階。さて今回はどんな恵みがあるのか?ということで、6月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章12節〜13節から、「神の子でも」と題してメッセージでした。

神の子キリストでも

イエス様は御霊(聖霊様)によって荒野に追いやられ、サタンの試み(誘惑)にあわれました。『荒野』という言葉は「捨てる」という意味がありました。人が住むに適さない、見捨てられ、見向きもされない土地。『獣もそこに』いましたが、当時は熊やヒョウ、オオカミ、鷲やハゲタカなど生息していました。そんな所に『四十日の間』。なんで40日?当時「40」という数字を聞けば思い出される聖書物語がありました。洪水の40日間の雨。モーセのシナイ山での40日間。イスラエルの荒野での40年間。士師や王の40年間の治世等。いずれにせよ、古いものが過ぎ去り、新しい何かがやって来る、始まる、ということを予感させました。イエス様の荒野の40日間も新しく何かが始まる前触れ。この40日間の内容はサタンの誘惑にあうことでした。その内容はマルコからはわかりません。ここから言えることは、天と地をつなぐ聖霊様が神の子イエス様を荒野に送り込んだということ。神の子イエス様でさえ獰猛な獣のいるような、見捨てられたような所も経験されたとうこと。神の子イエス様でさえサタンの誘惑から逃れられなかったということ。しかし神の子イエス様はどこまでも神の子として歩み通されたということです。

神の子とされた私も

それは神の子とされた私たちも同じ。「そんな荒野のような生活も、サタンの誘惑も嫌です!」と思われます?イエス様を知らずとも、バプテスマを受けずとも、荒野のような世界に、誘惑多い世界に、すでに生きていないですか?弱肉強食の競争社会。馬の目を抜く、しのぎを削る、食うか食われるかの人と人、企業と企業、国と国のせめぎ合い。強い者に富や権力が集中し、弱い者はますます悲惨な状況に追いやられている。依存性の強い誘惑にさらされている。戦争や環境破壊によって人が住むに適さないエリアが拡大している。獰猛な動物でさえ数を減らしている。もはや安全な場所はないのでは?私たちは変わりなくそんな世界にいる。しかし今までと決定的な違いがある。神の子とされた。イエス様と同じように、そしてイエス様と共に、父なる神様と聖霊様とつながっている。天からの命綱でつながっている。私たちもこの三位一体の神様の御腕、天からの命綱にしっかりつながっているなら、そこがどんな所であっても迷うことなく、誘惑に心奪われることもありません。そして必要なものを供給され、供給されたものを他に分かち合うまでになるのです(これも素晴らしい恵み、福音と言えそうですが、まだ始まっちゃいません)。

イエス様は天の王子席から「人間界は悲惨やね〜」と見物されていたのではありません。「人にはどんな悲しみ、傷み、憎しみ、怒りがあるのか、どんな誘惑があるのか、私はそれを知り、肌身に体験し、そして人を助け出そう」と、この世界に飛び込んで下さいました。単身ではなく、父なる神様と聖霊様につながって。その手始めとしての荒野の40日間だった。そして荒野から出てこられたイエス様には、私たち人類の救助者としての働きが始まろうとしていたのです。

6月24日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第2章12節〜第3章3節から、「キリストの手紙」と題してメッセージです。

愛の手紙

ある牧師の研修でこんな話を聞きました。「組織(教会も含む)において、信頼関係を築くには時間がかかる。しかし信頼関係を失うのは一瞬。信頼関係を修復するのは困難だ」。で、その先は?教会はその程度のものか?信頼を修復していったケースや恵みはないのか?問題を起こさないように、ではなく、問題を乗り越えていく話しを聞きたい!研修から帰って聖書に向き合った時、コリント人への手紙が示されました。ということで、6月10日(日)の礼拝は、コリント人への手紙第2章1節〜11節から、「愛の手紙」と題してメッセージでした。

喜びを期待する愛

前回、パウロの旅程変更について触れました。その理由が記されます。それは『喜ばせてくれるはずの人々から悲しい思いをさせられたくない』ためでした。『わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか』と続けます。それらの人々が誰かはわかりません。第一の手紙には『サタンに引き渡してしまった』ような人が登場しますが。私たちは自分が全く気づかない問題を他人から指摘されてすぐに受け入れられるか?拒絶逆ギレ反応がないか?独り冷静になって受け入れられるようにならないか?ではどうすればいいだろうかと前向きにならないか?パウロがコリント教会に乗り込んで「これが問題、あれが問題、こうしろ、ああしろ」とたたみかけてばかりなら、一方的なやらされた感が募らないか?拒絶、受容、再出発、というプロセスを自ら踏めるように距離を置いた。自ら取り組むことで成長がある。喜びがある。その喜びは本物。パウロはそんな喜びを共有できることを期待したのです。

ゆるしを勧める愛

パウロは関係がこじれた後「涙の手紙」をテトスに託しましたが、それによってコリント教会に変化が現れました。コリント教会が『その人』を自分のことのように悲しみ処罰したのです。どんな処罰かわかりません。第一の手紙には『あなたがたの中から除かねばならない』『そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている』『サタンに引き渡してしまった』ような人が登場します。が、ここではサタンの側に行きかけた人が立ち止まり悔い改めた!言葉を換えればその人が「真実」になった!教会に敵や悪役はいない。みな『喜ばせてくれるはずの人々』。問題の取り組みはみんなが神様の御元に回復されるため。パウロは『その人』を赦し、愛を示すよう『勧め』ます。実は『勧める』は『慰める』と同じ言葉。真実になった人を赦しと慰めでサンドイッチ!それが愛!第一の手紙ではパウロがコリント教会を離れていても共にその人をさばくと言いました。今度は離れていても共にその人を赦すと言います。パウロはコリント教会が経験しうる赦しと慰めを自分のこととして喜んだのです。

従順が示す愛

『わたしが書き送ったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった』の『ためすためにほかならなかった』は「その練られた品性を知るためだった」と訳せます。従順とは自ら喜んで神様に従うこと。組織において、問題が起これば誰かに責任を負わせて切り捨て、リセットばかりだとどうなるか?同じ問題がまた起こる。組織に成長はない。世間の信頼を失う。パウロは『サタンに欺かれることがないため』『サタンの策略を知らないわけではない』と記します。教会が問題に飲み込まれて世俗化するか、問題を切り捨てて正論をぶつ原理主義的になるか、どちらに転んでも成長はない。サタンの思うつぼ。私たちはサタンの思うつぼにはまるのではなく、慰めの、真実な、愛の神様に喜んで従って問題を乗り越え、お仕着せではない、他人事ではない、本物の赦しと慰めと喜びを分かち合うのです。その姿を通して、教会は粘りに粘る神様の愛(練られた品性)を世に示すのです。

パウロは『あふれる愛』(アガペ:神の愛)を知ってもらうために手紙を記しました。パウロも、コリント教会も、現代の私たちの教会も、同じ神様の愛が土台です。問題を通してこの愛を分かち合い、ますますこの愛に至るのです。

6月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章12節〜13節から、「神の子でも」と題してメッセージです。

こどもの日・花の日礼拝

6月8日(金)は、天授ヶ岡幼稚園のお友達が教会に来て下さり、こどもの日・花の日礼拝が行われました。今年入園のお友達は初めての教会。他のお友達は一つずつクラスが上がっています。来る度、見る度、皆さんの成長が見られるのは嬉しいことです。

 

今回も、みんな元気な歌を披露してくれました。

私も「わらべサムエル」のお話しをさせていただきました。

幼稚園のお部屋にもあるサムエルさんの絵。みんなと同じくらいの男の子。家を離れ、教会のような所で、エリというおじいさん先生と暮らし、神様にお仕えしていました。そんなある夜のこと。サムエルさんは礼拝堂のような所で独り寝ていました。「サムエル、サムエル」「あっ!エリ先生が呼んでいる!」「エリ先生!僕を呼びましたか?」「私は呼んでいない。帰って寝なさい」。「サムエル、サムエル」二度目!「エリ先生!呼びましたか?」「呼んでない。寝なさい」。「サムエル、サムエル」三度目!「エリ先生!」。エリ先生はわかりました。「サムエル。今度名前を呼ぶ声がしたら、『しもべは聞きます。主よ、お話し下さい』とこたえなさい」。「サムエル、サムエル」四度目!来たーっ!サムエルさんは「しもべは聞きます。お話し下さい」とこたえました。その時の絵がこれ。神様はこれから起こることを話して下さいました。それ以来、サムエルさんはエリ先生の言うこともよく聞いたけれども、神様の言葉もよく聞いて、スクスク育って、神様からも人々からも愛される、国を治めるほどの人になりました。

神様はみんなにも語りかけておられます。聖書を通して。みんな「みことばカード」をもらっていますね。園長先生がみことばカードからお話し下さいますね。そうやっていつだって神様は語りかけて下さっています。またみんなもお祈りしています。そう主の祈り!これからもサムエルさんのように神様の言葉をよく聞いて、お祈りして下さい。神様と人に愛され、神様と人を愛する、お花のように慰めや喜びや励ましを与える、素敵なお兄さんお姉さんとして成長されますよう、祝福をお祈りします。

真実な手紙

人間関係がこじれると、何を言ってもやっても裏目に出てしまう、疑心暗鬼になり批判噴出ということがないでしょうか。実際の言動がどうかより、感情で拒絶していないでしょうか。パウロはコリント教会の問題解決のために手を尽くしました。しかしなお関係がこじれました。コリント教会の中にパウロに対する疑心暗鬼と批判があふれました。パウロはその最初の批判にこたえます。ということで、6月3日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第1章12節〜24節から、「真実な手紙」と題してメッセージでした。

真実な神様

まずは真実な神様です。12節の『神の神聖と真実』とは「神の純真と誠実」と訳せます。18節の『神の真実』は12節の「誠実」とは違う言葉、ギリシャ語のピストスという言葉が使われています。真実。本当のこと、裏表がない、変わらない、などの意味が含まれます。神様の『しかり』は、イエス様によってすべて『しかり』になりました。「こう」と言って「ああ」なることはない。その神様の真実に対して『わたしたちは、彼(イエス様)によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰す』るのです。このアァメンは「真実です」というヘブル語です。ギリシャ語のピストスとヘブル語のアァメン。どちらも真実。真実な神様から、真実な言葉が発せられ、真実な出来事が実現し、その実現を「真実です」と告白することによって、神様が賛美され、神様に栄光が帰結する。パウロは、その真実な神様に従っているから私もこの手紙も真実だ、そしてあなたがたも同じ神様を信じているのだから、私を理解してくれるはずだ、そしてお互いを誇りに思えるはずだと記すのです。

真実なパウロ

コリント教会がパウロに疑心暗鬼になった問題の一つがパウロの旅程変更です。パウロがコリント教会の問題解決のために訪問を計画しましたが、結果は随分な変更となりました。真実な神様に従っていると言いながらこの変更は何?真実じゃないぞ!私たちのこと本当に考えているの!「予定は未定であって決定ではない」と世間でも言われます。天候、交通、情勢、体調は刻一刻変化する。予期せぬ事が舞い込む。予定は自ずと修正されます。だからといって「あなたは真実じゃない」と言うか?「仕方ない。でも来られて良かった」とならないか?真実は、予定をその通りこなせたか、ではなく目的が果たされたかどうかで問われるのではないか?私たちは本質でないところにこだわりすぎて、本質を見失っていないか?聖書を見ると、神様も人間の祈りや行動によって譲歩されたり、計画を変更したりなさっています。目的(「しかり」が「しかり」に)は変わらないけれどプロセスを変更する柔らかさを持った神様。それで神様の真実が失われるわけではありません。パウロも常にコリント教会に配慮し、目的を見失うことなく、目的が果たされるための変更を随時加えたのです。

真実なお互い

パウロは最後に旅程変更の理由を語ります。23節の『あなたがたに対して寛大でありたいためである』は「あなたがたを大切にしたい」と訳せます。パウロは理知的かつ情熱の人でした。歯に衣着せず物言う所もありました。コリント教会に乗り込んで断罪し大手術し服従させることも可能だったかも知れない。でもそこに「信仰」「信頼」はありません。支配(強制服従)は何の問題の解決にもなりません。見かけの問題はなくなったように見えても、隠れている本当の問題(誤った支配。パウロはこの問題を後に触れます)に誰も気づかないからです。「私は正しい!あなたは謙遜になって私に従いなさい!」「いや、私こそ正しい!あなたこそ謙遜になって従え!」…どちらも謙遜じゃないですよね。問題解決には真実と信頼が必要です。実はピストスは「信仰」「信頼」の意味でも使われる言葉。神様の示された真実に信頼する私たち。神様の私たちへの信頼に真実を示す(認罪もその一つ)私たち。パウロはコリント教会と少し距離を置くことが適切と判断しました。コリント教会へ絶大な信頼を示しました。あなたがたはよくわかっている。問題に向き合える。乗り越えられる。私はそのための協力者。その労を惜しまない。ピストスな神様をピストスするコリント教会をピストスしたのです。

この手紙はアカヤ全土、さらに今日の私たちにまで届けられた手紙。どの教会にも起こりうる問題がある。だからといって教会が教会でなくなるのではない。世の中と一緒なのでもない。真実な神様の教会です。「しかり」を「しかり」とされたイエス様の御霊が宿る教会です。問題発生もこじれもプロセスにすぎません。真実な三位一体の神様は問題を通して、恵みを得させ喜ばせ賛美に至らせて下さいます。私(牧師)はそのための真実な協力者。そして互いもまた真実な協力者なのです。

6月10日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第2章1節〜11節から、「愛の手紙」と題してメッセージです。

 

 


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