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追いかけてくる恵み

台風のため講壇交換が見送りとなりました。ということで、7月29日(日)の礼拝は、超有名なダビデの詩、詩篇第23篇1節〜6節から、「追いかけてくる恵み」と題して、内田がメッセージしました。私たちは恵みという言葉をよく使います。「今日の集会恵まれたわ〜」「主よ、もっと恵みを注いで下さい」「あなに主の豊かな恵みがありますように」など。恵みとは何か?説明できますか?あったりなかったりするものですか?詩篇第23篇には三つの恵みが記されています。

途切れない恵み(1節-3節)

主は羊飼い。私はその羊です。羊は自分で新鮮な草や水にありつくことができない。転びやすく怪我しやすく弱りやすい。猛獣から自分を守るすべを知らない。羊には羊飼いの途切れることのない見守りと導きが必要です。でも羊飼いがいても病んだり転んだり命の危機に直面することはある。しかし羊飼いは必ず見つけ出し、癒し、命を得させます。私たちは平穏な生活を望みます。それがあるなら主の恵みです。しかし平穏な中にも弱ること、転ぶこと、「これがどうして恵みなんだ!」と思えることもある。しかしそれはあくまでも主の見守りの中で起こったこと。主はご自身の名にかけて、ここぞ!という時に、必ず助け起こし、生き返らせ、進むべき道に導かれます。そういう経験を通して、私たちは当たり前だと思っていたことが実は恵みだったと気づく。そして恵み以上に無くてはならない恵み主をあらためて知るのです。恵みは、平穏な中にも、恵みと思えない中にも、決して途切れていることはないのです。

あふれる恵み(4節-5節)

羊飼いは計画をもって羊を導きます。途中、猛獣もおりてくる谷底の水場も通ります。羊にとっては死を意味します。しかし羊飼いがいれば話は別。羊飼いが谷底を導いて猛獣と戦う。羊は安心して水を飲み谷底を通過する。死は陰に過ぎなくなる。5節では主は仕える主人。私は客人です。目の前には敵がいます。しかしもっと近い目の前に主人のもてなしの席がある。私はその席に座り主人のもてなしを受けるのです。主は私たちを計画をもって導かれます。その途中には、私たちにとって余り喜ばしくない、できれば避けたいような、問題が立ちはだかる所もあります。しかしその問題に立ち向かうのは私たちではなく主。私たちがすべきは、まず主の前に座ってもてなしを受けること。すると今まで問題しか見えなかった所に、主は私たちを生かす恵み、前進すべき道があることを見せて下さいます。そういう経験を通して、「主とわたし」(1節-3節)という関係は「あなたとわたし」(4節-5節)という、より近く深い関係となっていくのです。恵みは困難な中にますますあふれるのです。

追いかける恵み(6節)

『わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴う(追いかけてくる)でしょう』。ダビデは長い間、敵から逃げ回る生活をしていました。敵がしつこく追いかけてきました。しかしもっとしつこく恵みが追いかけていました。人生を振り返る時、そこに敵はなく、恵みだけがありました。ダビデは『とこしえに主の宮に住む』と告白します。単なる羊ではなく、客人という他人でもなく、主の家族とされたのです。私たちは何もせずただ座っているわけではありません。途切れない恵み、あふれる恵みに養われたら、立ち上がって自分にできることを始めるのです。すると恵みが追いかけてくる。じっとしていては追いかけようがありません。私たちが永遠の祝福に入り込むまで追いかけてくる!しかしこの追いかける恵みは自分には見えないかも知れません。でも周りには見える。目の前の困難よりも、そこにある恵みと恵み主が周りに見えてくる。そしてそういう方々と恵み主との新たな出会いが始まるのです。

恵みとは、私たちには作り出せないけれども、私たちに絶対無くてはならないものです。自然の恵みがそうです。イエス・キリストの救いの恵みがそうです。そして神様がその恵みの源泉です。あってもなくてもいい、というものではありません。私たちの人生は、この恵みと恵み主を再発見する人生、新発見する人生。さらには恵み主と恵みを周りの方々に見ていただく人生、分かち合う人生なのです。主の恵みと導きに徹してまいりましょう。

8月5日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第3章4節〜18節から、「新しい契約に仕える者」と題してメッセージです。

変えない生き方

「頑固一徹」という言葉があります。クリスチャンは「信仰一徹」と言えるかもしれません。しかしクリスチャンは日々変えられる存在でもあります。罪人から神の子へ。立場だけでなく、神のかたちを回復し、神の子として成長する。あまり喜ばしくない生活習慣やコミュニケーションの取り方があったなら、そういう面にも変化が必要です。しかしクリスチャンゆえに変えてはいけないこともある。かつて「祝福の境界線」というメッセージで触れました。私たちは神様を礼拝する民。そして神様の祝福を地に広げて行く働きを担っている。その立ち位置は変えない。ヤコブの物語を通して学びました。ではその子ヨセフは?ということで7月22日(日)の礼拝は、創世記第39章1節〜23節から、「変えない生き方」と題してメッセージでした。

共におられる神とそこに

創世記第39章の始めと終わりに『主がヨセフと共におられた』とあります。始めから終わりまで神様が共におられる。ヨセフは17歳の時、兄たちに『長そでの服』を剥ぎ取られ穴に放り込まれ、穴から出されたかと思ったらイシマエル人に奴隷として売られ、さらにエジプトのパロの侍衛長ポテパルに転売され、ポテパルの元で働いていたら無実の罪を着せられ、ポテパルの管理下にある獄屋に放り込まれました。獄屋から出られたのは30歳。「私の青春を返せ!」「なぜ神はこんなことを許されたのか!」「神などいるものか!」と言いたくなるような、人が思い描く幸せや祝福とはほど遠い境遇。私たちも順風満帆とは言えない境遇を経験することがあります。今の時代常にリスクと隣り合わせです。でもどんな境遇にあろうと、祝福の神様は共におられる。それは変わらない。共にある神にまさるものなし。だから私も、祝福の神様と共に、そこにあって生きる。それが変えない生き方なのではないでしょうか。

自分に与えられた分に忠実に

『ヨセフは彼(ポテパル)の前に恵みを得、そば近く仕えた』『主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みを受けさせられた』の『恵み』は「好意」という言葉。人の好意はうれしいものです。しかしポテパルの妻は違いました。暇を持て余すセレブ。若くスタイル抜群のイケメンヨセフに何度も言い寄ります。ヨセフは断りその場を逃れます。『この家にはわたしより大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした』『どうしてわたしはこの大きな悪を行って、神に罪を犯すことができましょう』。ヨセフは自分に与えられた仕事に忠実でした。そしてそれ以外のものに触れませんでした。それは神様から与えられた分だと自覚していたからです。私たちも他人のものに欲を出したり、気を取られたり、口出しするのではなく、神様から自分に与えられた分を大切にし、その分に忠実でありたい。それが変えない生き方なのではないでしょうか。

なしとげる私になしとげる神あり

聖書は『主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり…主が彼のすることをすべて栄えさせられるのを(ポテパルは)見た』『獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた』と記します。この『幸運な』『栄えさせられ』は「なしとげる」という言葉。ヨセフはどんな境遇でも自分の分をなしとげました。しかし神様も共になしとげて下さっていた。『主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑にあるすべての持ち物に及んだ』の『恵まれ』『恵み』は「祝福」という言葉。『主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵み(好意)を受けさせられた』の『いつくしみ』は神様の「恵み」をいう言葉。何が言いたいかというと、神様の恵みと祝福がヨセフをサンドイッチしている。共におられる神様の恵みが先行し、神様から与えられた分をなしとげることで、神様の祝福が拡がっていく。人の好意もうれしいですがあてになりません。しかし神様の恵みと祝福は変わらない。だから私たちは、どんな境遇でも神様から与えられた分をなしとげていく。それが変えない生き方。するとどんな境遇にも神様の恵みと祝福は現れる。そして人々が目撃するのです。

7月29日(日)は講壇交換礼拝。日本イエス・キリスト教団西舞鶴教会の鎌野善三牧師が来て下さって、ヨハネによる福音書第20章19節〜31節から、「復活の証人として生きる」と題してメッセージです。

カフェスタイル礼拝がありました

7月15日(日)のい礼拝はカフェスタイル礼拝でした。

7月お誕生の方々のお祝いや体を使って賛美したり…

お食事をしながら「あなたにとって『信じる』とは?」というテーマで分かち合ったり…

最後はメッセージに耳を傾けました。礼拝が終わってもなお話しが弾んでいました。

 

悔い改めて福音を信ぜよ

4月から月に一度、マルコによる福音書に耳を傾け始めました。そしていよいよイエス様の第一声が記されます。私たちはどんな第一声を聞くのでしょうか。ということで、7月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章14節〜15節から、「悔い改めて福音を信ぜよ」という題でメッセージでした。

悔い改めなさい

『ヨハネが捕らえられた後』とあります。ヨハネとはバプテスマのヨハネ。『罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えて』いました。人々はヨハネのもとに来てヨルダン川で続々とバプテスマを受けました。罪とは「的外れ」。的とは私やこの世界を創造された神様。その神様に向かない聞かない従わない。すると段々私のことも世界のこともわからなくなる。的外れなことをし始める。それがひどくなると犯罪や破壊になっていく。悔い改めとは自分の罪を認め、的である神様に向き直り聞き直し従い直すこと。その意思表明としてバプテスマを受ける。罪ゆるされる。そこへイエス様登場です。イエス様もヨハネからバプテスマを受けられた。神の子なのに、罪を悔い改めようがないのに、なぜ?イエス様がバプテスマを受けられたら、天から『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』との声。罪のゆるしを得させるバプテスマは、私たちを神の子・神の家族とする新しい恵みが加えられたのです。バプテスマは私たちの新しい誕生日。あなたもイエス様の第一声を聞いたなら悔い改めるのです。

福音を信じなさい

当時の人が「福音」と聞けば「戦いでの勝利」をイメージしました。まず伝令が本国に勝利を伝えます。その後、勝利した本体が戦利品を携え凱旋してくる。そして共々に勝利を分かち合い喜び合う。ではイエス様の福音とは?地上にあるあの国、この国の勝利か?いいえ。『神の福音』『神の子イエス・キリストの福音』です。ではどんな福音?第1章の1節からここに来るまでのわずかな間にもいくつも福音がありました。悔い改めるだけで罪ゆるされ神の子とされるバプテスマ。三位一体の神様との交わりの中での成長。荒野のような、誘惑多い世の中にあっても、三位一体の神様という「天からの命綱」で守られ導かれる。これでもか!これでもか!これでもか!でもこれらはほんの「序の口」「はじまり」に過ぎません。とにかく福音の全体はわからなくとも、あなたもイエス様の第一声を聞いたなら『神の福音』『神の子イエス・キリストの福音』が私のものになる!と信じるのです。

そうすれば神の国はあなたに

『ヨハネが捕らえられて後』『時は満ちた』とは一つの時代が終わり新しい時代が幕を開けた、古いものが去り新しいものが来た、ということを意味します。そしてイエス様は『神の国は近いづいた』と言われます。神の国は来た!ではなく近づいただけ?あなたが「来た!」と言えるのは、あなたが悔い改めて福音を信じる時。福音の本体は神の国。当時の人が「神の国」と聞けばメシヤ(キリスト)が政治的・軍事的に世界を支配する、というイメージがありました。マッチョなリーダーと世界帝国です。昔も今もどの国も、宗教が違っても、無宗教でも、そんな強い指導者や国を求めていないでしょうか。しかしイエス様も神の国もそういうイメージとは全く異なります。神の国はシンプル。神様の支配があるところ。そして重要なのはあなたに神の国があるか?です。神の国は一人一人から始まる。だからイエス様は、あなたに向かって『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』と語りかけておられるのです。

神様の支配なんて怖い?私たちは「的外れ」ゆえに、本来の支配を失っています。『神の福音』が何からの勝利かを知れば、神様の支配が歓喜にあふれたものであることがわかります。しかし今までのところは「序の口」「はじまり」「幕開け」に過ぎません。『神の福音』も『神の国』も大きく豊かです。全体がわからなくてもイエス様の第一声に従えば、もうそれはあなたのもの。そして段々わかってきます。

7月22日(日)の礼拝は、創世記第39章1節〜23節から、「変えない生き方」と題してメッセージです。

 

ヤコブのもう一つの歴史。ユダ

信仰継承。家の宗教としてキリスト教に関わる以上に、子や孫が自らキリストを信じて歩むにはどうすればいいか?その課題は昔も今も変わりありません。最初の人アダムは洪水のしばらく前まで生きていました。洪水前の人はアダムから直接教訓を聞いたはず。しかし洪水から救われたのはノアの家族だけ。ノアの子セムは600歳生きました。それはアブラハム、イサク、ヤクブの代に及びます。洪水後の人はセムから生々しく教訓を聞いたはず。でも神様と歩み始めたのはアブラハムだけ。アブラハムの孫のエサウは信仰の歴史から消え、ヤコブも最初は我の力で祝福を追い求めました。ヤコブの子どもたちも悪い噂が絶えませんでした。しかし聖書はヤコブの四男ユダに焦点を当てます。ヨセフの物語と共にヤコブの物語として語られます。なぜか?ということで7月8日(日)の礼拝は、創世記第38章1節〜30節から、「ヤコブのもう一つの歴史。ユダ」と題してメッセージでした。

背を向けるユダ

ユダはヨセフを売り飛ばした頃、カナン人の所に出かけカナンの女性をめとります。そして三人の男の子が生まれました。長男エルは「立ち上がる」、次男オナンは「強い」など、ユダのキャラクターが垣間見えます。ユダは祖父イサクとリベカの結婚物語や、伯父エサウがカナンの女性と結婚して祖父母の心を痛めたことや、父ヤコブとレアやラケルの結婚物語を聞いたはず。しかしユダは祖父や父に背を向けるような行動をします。私の祖母も私の両親も熱心なクリスチャンです。小さな頃から信仰を教えられていました。神様はおられ信じるに値することは理解していました。しかしそれ以外の世界に心引かれたのも事実です。なぜならそれ以外の世界の方が圧倒的だったから。ユダはあえて祖父や父、そして神様にも背を向けてみたかったのかも知れません。

無責任なユダ

ユダは長男の妻にタマルを迎えました。しかし長男は悪かったので神様は『彼を殺され』ました。そこで次男がタマルを妻として迎えますが、次男も悪かったので神様は『彼も殺され』ました。神様はひどい?祝福とはまず、神様にある結婚と親子関係を通して広がるもの。しかし人は祝福ではなく暴虐(破滅)を満たし、自ら死(滅び)を招きました。死がなければ世界は生き地獄と化す。私たちがひどい。しかし神様は死と復活の救いを用意して下さった。それを忘れてはいけない。とにかく。三男まで殺されてはかなわんとユダはタマルを寡婦のままにしておきました。当時、長男が跡取りを残さず死ねば次男が長男の妻をめとり、長男の跡取りをもうけねばなりませんでした。次男がだめなら三男が引き継ぎました。しかしユダはその責任を果たさない。ユダの妻も死にます。続く死に悲しみ暮れたはず。「どうしてこんなことが」と自分を振り返ることもできたはず。しかし遊女に扮したタマルを買い、欲望のままに生きました。

自分を棚に上げるユダ

寡婦のタマルが妊娠したと知ったユダは『焼いてしまえ』と激怒。タマルは冷静に懸命に相手の証拠の品を提示し、ユダは動かぬ証拠によって自分の非を認めます。でも自分にはお咎めなし。今回のユダにいい所なし。今週の金言は?と言われても困ります。なぜユダ?ヨセフとは対照的。後にヨセフはエジプトのつかさになり、ヤコブ一家を救い、エジプトの最上のものを与えます。後にユダは家族の危機を通してヨセフの前に立つことになります。どちらもヤコブの子。かたや神様のような立ち位置で神様の代理者のような存在。かたやドロドロの世界を平気な顔して渡り歩く存在。これはキリストと罪人である私たちの出会いを物語っている。どちらも神様によって生み出された。だから神様にえこひいきはない。私がクリスチャンホームかそうでないか、第何子か、どんな民族か、どんな生まれ育ちか関係なく、私は私で選び、救い、祝福したい。神様に背を向け、人の痛みを知らず、自由を振りかざして欲望に生き、そのくせ責任を果たさず、そんな自分を棚に上げて他人をさばく、どうしようもない私。神様はそんな私をキリストの元へ導こうとして下さるのです。

ユダとタマルの子孫からダビデ王が、そしてキリストが誕生します。ユダには「賛美」という意味があります。ユダは神様を賛美する一族、王を輩出する一族と変えられるのです。私たちも永遠の滅びという危機から救い出して下さった神様を賛美しながら、与えられた救いと祝福を喜び楽しんで分かち合ってまいりましょう。

7月15日(日)はカフェスタイル礼拝。マルコによる福音書第1章14節〜15節から「悔い改めて福音を信ぜよ」と題してメッセージです。

蒔いたものの刈り取り

今日は『ヤコブの子孫は次のとおりである』という言葉で、ヨセフの夢物語から始まります。この『子孫』は『系図』と同じ言葉。創世記は『アダムの系図は次のとおりである』『ノアの系図は次のとおりである』『アブラハムの子イサクの系図は次のとおりである』と、その子孫の名前と共に、アダムの物語、ノアの物語、イサクの物語と、次々記してきました。しかし今回は、いきなりヨセフの物語が始まったように見えます。しかし、実はこれからもヤコブの物語。ではヤコブの何を見るのか?ということで7月1日(日)の礼拝は、創世記第37章1節〜36節から、「蒔いたものの刈り取り」と題してメッセージでした。

ヤコブの偏愛

ヨセフはヤコブにとって『年寄り子』。後の聖書の記述からヤコブ91歳の時生まれた子だとわかります。ヤコブはヨセフに『長そでの着物』を作りました。それは族長ヤコブの権威を示すもの。跡継ぎ待遇。ヨセフの10人の兄たちは「俺たちを差し置いてなんで!」と耐えがたい怒りを抱いたのではないか。しかしヤコブにもかつてこれと似たようなことがありました。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛しました。そしてヤコブはエサウの長子の特権も祝福も奪いました。ヨセフが兄たちの特権も祝福も奪ったわけではありません。しかしヤコブは自分がされたようにヨセフを愛し、自分がしたようにヨセフにしてあげたのです。恐らくヤコブは無自覚でした。しかしこの偏愛と善意は、他の兄たちにとっては憎しみと怒りを生み出すものとなり、家族に暗い影を落としていたのです。

兄弟間の軋轢

ヨセフは二つの夢を見ました。象徴的な形でしたがヨセフを家族が拝んでいる夢。兄たちの憎しみ怒りは倍増!しかしその兄たちにも微妙な力関係があったようです。羊の世話をしていた兄たちの所へ『夢見る』ヨセフがやって来た時、ヨセフを殺すか売り飛ばすか相談しました。長男ルベンが殺さず穴に投げ入れるだけの提案をします。後でヤコブに返そうと考えました。しかしルベンがいない間に、四男ユダが「殺しても益にはならない。イシマエル人(親戚)に売ろう!」と提案してみな承諾。ヨセフは売られました。長男ルベンはスキャンダル。次男シメオンと三男レビはシケムで大虐殺。それもあって四男ユダがリーダーシップ?しかしそのユダもヨセフを売り飛ばす。そして全員でヤコブを騙しました。えげつない!しかしヤコブはかつて「騙す人」でした。スキャンダルや虐殺はありませんでしたが、ラバンの財産を巧妙に奪い、正しさを主張しました。妻ラケルもヤコブにならい、ラバンのテラピムを奪いました。彼らの周りには憎しみや怒りや争いが絶えなかった。ヤコブは家族に、意識して神様や信仰や正しさを教えたかも知れません。しかしヤコブが意識しないでやってきた行為や姿が、家族に暗い影を落としていたのです。

ヨセフの喪失

兄たちはヤコブに「ヨセフは死んだ」と言いません。そう思わせました。親譲りの巧妙さ!家族は悲嘆に暮れるヤコブを慰めましたが、兄たちはどんな顔をして慰めたのか。そんな慰めは何の足しにもなりませ。しかしヤコブもかつて同じようなことをしていました。『長子エサウの晴れ着』と『子ヤギの皮』をもって父イサクを騙し兄エサウの祝福を奪った。今回、兄たちは『長そでの着物』と『雄やぎの血』で父ヤコブを騙しヨセフの命をヤコブの前から奪ったのです。今日のメッセージは「蒔いたものの刈り取り」。「ヤコブ!お前は今までこんな悪いことをしてきたから同じ目に遭いなさい!」と神様が報いておられるのではありません。ヤコブは神様に変えられてきました。しかしそれでも気づかないで、人生かけてこつこつ蒔いてきた、自分の弱さ強さ愚かさがある。その行為の結果を味わっている。でも無意識ゆえに「なぜこんな目に遭うんだ!」と唐突に思える。意図しないトラブルに思える。でも自分の行為の積み重ねの上にある。私たちは神様に救われ、意識して、注意深く、人生を積み上げても、全てカバーできません。無意識による行為も大きな影響を与えます。しかし恐れないで下さい。私が蒔いたトラブルさえ祝福の道具に変えられる神様に向いて聞いて従い続けるのです。その中で善意の行為が裏返しの行為になっていないか点検し、無意識の行為を聖書の光に当てて意識化し改め、刈り取りの責任を果たす。私たちが十字架につけたイエス様によって、私たちに救いと祝福をもたらされた神様です。間違いに気づけば悔い・改めればいいのです。

7月8日(日)の礼拝は、創世記第38章1節〜30節から、「ヤコブのもう一つの歴史。ユダ」と題してメッセージです。


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