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この宝で生きる者

コリント教会は、パウロによってキリストに出会い、救われ、神の家族となった人々です。しかし後から来た自称教師のパウロ批判によって、パウロが使徒であることを疑うようになりました。パウロはそれでもコリント教会に向き合い続け、なお愛し続け、なお信じ続け、なお手紙を記し、自分が使徒であることをこの手紙の第3章から語り続けます。この不屈の忍耐と熱意と愛は一体どこから来るのか?それは人間的なものではなく、神様から来るもの。ということで、8月26日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章7節〜15節から、「この宝で生きる者」と題してメッセージでした。

土の器だけれども

『しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである』。まず知るべきは、私たちは土の器だということです。土の器とは素焼きの器を言います。ものを入れることはできますが、液体はしみ出します。釉薬をかけて高温で焼いていないので強度もありません。雑に扱うとすぐに壊れてしまいます。私たちも土の器のように脆く壊れやすいのではないか?パウロはそんな私たちの置かれる状況を「四方から患難を受ける」「途方に暮れる」「迫害に会う」「倒される」と記します。あまり身を置きたくない状況ですが、クリスチャンであろうとなかろうと、私たちを取り巻く自然環境や社会状況も過酷になりつつあります。じゃあ私たちは土の器のように砕け散って行くのみなのでしょうか?

この宝を持つならば

次に知るべきは、私たちの中に持つべき宝です。その宝とはイエス様。もう少し細かく言うとイエス様の死と命。これがあれば『四方から患難を受けても窮しない』『途方に暮れても行き詰まらない』『迫害に会っても見捨てられない』『倒されても滅びない』のです。先ほどの素焼きの器。役に立たないかというと役に立つ。香水が中にあるなら香りを放ちます。灯りが中にあるなら優しい光を放ちます。私たちにもそういう特徴がある。中に何を持っているかが重要。イエス様を中に持つならば、苦難を受けるほど、死に直面するほど、イエス様の命が内側から輝き出てくる。イエス様こそ十字架(苦難)の死を打ち破ってよみがえられた方だから。イエス様は私たちをどんな苦難の中にも保ち、死んでもまたよみがえらせる不滅の命。イエス様という宝は、死を命に変換する力、死を燃料に命を生み出す力。だから人間的なものではない『測り知れない力』であり『神のもの』なのです。

イエス様を証しする者となる

『こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語る』。イエス様の死と命が使徒パウロを生み出し、パウロの内に働いた死と命がコリント教会を生み出しました。イエス様によってもたらされた『益』は、働き人へ、そして教会へと広がりました。最終的にはこの益に与った人々全員が、共によみがえり、共に感謝を献げ、共に栄光に至ります。そのためにパウロは言葉と生き様で、この宝を証しし続けました。先ほどの素焼きの器。素焼きの器が自己主張していては、香りも灯りも周りには届けられません。香りや灯りを周りに届けることが目的です。素焼きの器あってこそですが、香りや灯りがあってこそ。神様は私を通して、また私たち教会を通して、この宝を多くの人々に届けたい。私たちもこの宝で生きるなら、どんな中にも輝くのです。

9月2日(日)の礼拝は、創世記第40章1節〜57節から、「神のかたち、ヨセフ」と題してメッセージです。

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ついていけばわかる

『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。イエス様は町々村々を巡り歩いてそう語られました。福音と聞けば当時の人は「何かからの勝利の知らせ」をイメージしました。福音を伝える者には褒賞が与えられ、福音を聞く者には分け前がある、という期待感がありました。しかしマルコによる福音書は、イエス様が宣べ伝えた福音がどんなものかをまだ記しません。じれったい!まず、福音に備えて私たちのするべきことを記しました。そして今回、イエス様の仕事始めにされたことを記します。ということで、8月19日(日)の礼拝は、「ついていけばわかる」と題してメッセージでした。

イエス様は招かれる

イエス様の仕事始めは、人を招かれることでした。イエス様はガリラヤ湖岸辺を歩かれ、網を打っているシモンとアンデレという兄弟に『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』と言われました。すると2人はすぐにイエス様についていきました。漁師はガリラヤ湖周辺ではありふれた職業。貧しくとも少しの準備でできます。次に舟の中で網を繕っているゼベダイの子ヤコブとヨハネをお招きになりました。するとこの2人もすぐについていきました。ヤコブとヨハネは漁師でも裕福な家庭。雇い人や舟があるからです。イエス様は福音を宣べ伝えることを1人でやろうと思われませんでした。イエス様はまず、イエス様の言葉やわざを間近で見、共に生活し、共に働いてくれる人、福音を一緒に体験してくれる人を求められたのです。イエス様は近づきにくいお方ではなく、近づきやすいお方。いえ、イエス様の方からどんどん近づいて下さるお方。貧しいか富んでいるか、ありふれた職業かそうでないか、関係ありません。イエス様の方から断る理由を誰にも持っておられません。シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネと同じように、イエス様は私たちにも「わたしについてきなさい」と招いて下さっているのです。

私たちはついていく

私はこの記事を読んで疑問に思いました。小さい頃、知らない人に声をかけられても、ついていっちゃダメ!と教えられました。しかし彼らは仕事や道具や家族をその場に置いてホイホイついていった。大丈夫か?最初に登場したバプテスマのヨハネが、ユダヤ全土とエルサレムの全住民に、イエス様のことを紹介していました。またイエス様も、最初にあげた御言葉をガリラヤで宣言しておられました。「イエスって知ってる?」「バプテスマのヨハネが言ってた人?」「福音、福音、言うてるあの人?」と噂は広がっていた。みんな興味津々だった。ゼベダイも「ここはええから、ついていってみ!」と送り出してくれたのかも知れません。この記事は全てを捨てて従うような献身を言っているのではありません。彼らは漁師をやめたわけでも家族を捨てたわけでもありません。後の記事を読めばわかる。私たちは安心してイエス様についていけばいい。仕事や学校をやめる必要はない。今ある家族を捨てる必要もない。別世界に旅立つのでもない。イエス様は私たちと共に、私たちの日常生活の中を歩んで下さるからです。今まではイエス様のいない日常生活。これからはイエス様が導かれる日常生活になる。それがイエス様についていく、ということなのです。

『人間をとる漁師』とは一見穏やかでない言葉に聞こえます。しかしイエス様が私たちを魚のようにとって食べるわけではありません。イエス様についていく人がどんどん増えていくことを言います。イエス様は神の国と福音の豊かさを、ついてくる人に分かち合い、味わってもらい、楽しんでほしいと願っておられます。百聞は一見にしかず。ついていけばわかる。招かれていない人はいない。あなたも招かれています。

8月26日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章7節〜15節から、「この宝で生きる者」と題してメッセージです。

キリストを宣べ伝える者

コリント教会はパウロの使徒としての「資格」に疑問を持ち、後から来た自称教師によって、さらにパウロ批判の炎は燃え上がりました。パウロはコリント教会に怒りや悲しみや落胆を露わにするのではなく、パウロが神様に召されたキリストの使徒であることを語り始めました。パウロはまず自分が新しい契約に仕える者だと語りました。そして今回、主に仕える者とそうでない者との違いを語ります。ということで、8月12日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章1節〜6節から、「キリストを宣べ伝える者」と題してメッセージでした。

この世の神に向かわせる者

パウロは自称教師を念頭に置いているようです。彼らは『この世の神』に向かわせる者です。『この世の神』が本当にあるわけではありません。人々が神だと思っている「神でないもの」です。宗教的なリーダーや政治的リーダー、お金や物、名声や権力等々。そういった「神でないもの」に向かわせる者。彼らには『恥ずべき隠れたこと』があったようです。また『悪巧みによって』歩いていました。会いもしないパウロを批判し、分裂を引き起こすような事をしていたからです。さらに『神の言を曲げ』ていました。パウロは『神の言を売り物にせず』純粋に語りましたが、彼らは神の言に混ぜ物をし、曲げて全く別物にしていました。私たちは「神のかたち」として創造されました。神様に向いて聞いて従う時、見えない神様を現すことができる。神様の命と支配と愛がある。しかし「神でないもの」に向いて聞いて従うならそれらのものを失います。その状態が呪い、行き着く果てが滅びです。「神でないもの」に向かわせ聞かせ従わせる者は、自分が滅びるだけではなく、他の人々の心にも覆いをかけ、思いをくらませ、滅びに至らせます。パウロはそれを『神のかたちであるキリストの福音の栄光の輝きを、見えなくしている』と記すのです。

キリストを宣べ伝える者

まずキリストを宣べ伝える者は神様の御前に立つ者です。『推薦する』は「立ち続ける」、『落胆せず』は「あきらめない」という言葉。パウロは神様の御前で、人々の良心に対して、あきらめず立ち続ける者。神様に向いて聞いて従う。隠し事をしないで問題を明らかにし、乗り越え、なおこじれるなら、あきらめず向き合い続ける。今の時代、問題を指摘されればどうですか?隠したり、嘘をついたり、逆ギレしたり。それを見る人の良心は麻痺しませんか。でも問題に真摯に向き合うなら?「ああ、私にも問題はある。でもあんな風に向き合って取り組んで乗り越えればいいんだ」と、良心を呼び覚ますことにならないか。次にキリストを宣べ伝える者はキリストの光に照らされる者です。パウロはかつて教会を迫害する者でした。しかし復活のキリストに出会い、その栄光に照らされ、彼の心に神様の命と支配と愛が注ぎ込まれ、『真理を明らかにする』者、『神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを』見えるようにする者、『キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにする』者となったのです。パウロは神の子キリストこそ神のかたちだとわかりました。私たちはキリストによって神の子とされるのみならず、罪によって見失っていた神のかたちも取り戻すのです。神のかたちを回復し、神の子として栄光に向かって成長するのです。キリストに神のかたちと神の子の原型がある。私たちの「自らの由(わけ)」がある。だからパウロはキリストを宣べ伝えるのです。

神様の前に立ち続けるなんて堅苦しい?キリストがモデルやゴールなんて無理?キリストを伝えるなんてどうしていいかわからない?神様は監視されているのでも、にらみつけているのでも、罰を下そうと身構えておられるのでもありません。私たちはキリスト共に神の子とされた。神様は温かなまなざしを向け、あふれる愛を注ぎ、必要なものを与え、命に満たして下さいます。一番リラックスできて、身軽になって、力が発揮できるのが神様の御前。キリストはいつも神様の御前でノビノビ生きられました。神様が太陽で、キリストがその光のようなもの。私たちは神様の御前で、キリストの光を燦々と浴びるのです。まずはそこから始めればいいのです。

8月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章16節〜20節から、「ついていけばわかる」と題してメッセージです。

新しい契約に仕える者

コリント教会に様々な問題が起こっても、パウロが批判されても、よそから来た自称教師がその批判に油注いでも、パウロはとことんコリント教会に向き合い、慰めを語り、真実を現し、愛を勧め、あなたがたこそ私が使徒であることの推薦状だと絶大な信頼を表明します。そしてついにコリント教会が変わり始めました。その変化こそ「キリストの手紙」としての醍醐味でした。以上が今までのダイジェスト。パウロはしばらく、その変化をもたらす働き人としての務めを記します。ということで、8月5日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第3章4節〜18節から、「新しい契約に仕える者」と題してメッセージでした。

キリストに仕えて義を宣言する

『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす』。『力』は「資格」を意味する言葉。『霊』はキリストです。新しい契約に仕える資格を与えられたパウロ。キリストに仕えるパウロ。では新しい契約とは?古い契約もあるのか?古い契約は石の板に刻まれた十戒をはじめとする律法です。「あれをしてはならない。したら罪である」「これをしてはならない。したら死ななければならない」というような文字による禁止事項があり、破ると断罪です。これが『文字は人を殺し』です。新しい契約は『墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心に書かれた』とあります。何が書かれたか?神の言であるキリストです。このキリストに罪の赦しと永遠の命がある。そのキリストを私の救い主と信じる時、私の内に罪の赦しと永遠の命であるキリストが刻まれる。罪ではなく義が、死ではなく命があふれる!『霊(キリスト)は人を生かす』のです。『もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣言する務は、はるかに栄光に満ちたものである』。罪を明らかにすることは大切です。そのために古い契約は今もって大切です。しかし罪を宣告してばかりでは、宣告する側もされる側も、あまり喜ばしくありません。しかし義を宣言することは、宣言する側もされる側も、大変喜ばしい。パウロはキリストに仕えて、その喜ばしい務めにあずかったのです。

キリストに向けさせて栄光に至らせる

『今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる』。古い契約に仕えたのはモーセ。モーセはイスラエルの民を代表して神様と度々会見しました。すると神様の栄光でモーセの顔も輝き、人々は恐れました。モーセは輝きがなくなるまで顔に覆いをかけました。人々は神様の栄光を恐れ、輝きを失ったモーセの顔に安心し、罪を禁止されても犯し続けました。神様よりも人。栄光よりも闇。義よりも罪。命よりも死。それが「おおいが心にかかった状態」です。新しい契約に仕えるのはパウロ。パウロは人々をキリストに向けさせようと務めました。罪ではなく義を、死ではなく命をもたらし、神様の栄光を輝かすのはキリストだから。私たちは古い契約の創世記から神様に向いて聞いて従うことを学んできました。新しい契約ではキリストに向いて聞いて従うのです。いずれも同じこと。すると神様にある全てがキリストを通して私に流れ込む。それが「おおいが取り除かれた状態」です。『主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく』。私たちは向く対象によって映し出すものが変わります。私たちは神様を映し出すべく「神のかたち」として創造され、キリストと同じ「神の子」とされました。ですから当然、キリストに向くべきなのです。そこに私たちの「自らの由(わけ)」がある。素晴らしい「神のかたち」「神の子」のわけを知って、喜びと輝きを増していくのです。

パウロはキリストに仕えて、人々をキリストへ向かせました。自分だけが義とされて栄光に向かうのではなく、人々に義を宣言し、共に栄光を目指しました。それはパウロや牧師だけの務めではありません。私たちはパウロと同じ神のかたち。同じ神の子。同じ主が共におられます。私たちにもパウロと同じ務めが委ねられています。

8月12日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章1節〜6節から、「キリストを宣べ伝える者」と題してメッセージです。


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