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救いに向かうそれぞれの自覚

「胎動」という言葉があります。赤ちゃんは生まれる直前に母親のお腹に宿り、突然生まれるわけではありません。外からは見えませんが、赤ちゃんは生きていて、動き、成長し、時間をかけて誕生に備えます。それと同じように、物事においても突然はありません。災害や事故や病気も、突然起こったり遭遇したりわかったりするように見えますが、私たちの目や感覚では気がつかないところで、その出来事に向けて全ては動いているのです。そんな胎動がヤコブ一家にもありました。ということで、9月23日(日)の礼拝は、創世記第43章1節〜34節から、「救いに向かうそれぞれの自覚」と題してメッセージでした。

ユダの自覚

ヤコブの子どもたちがエジプトから持ち帰った食糧が尽きました。ヤコブはまた行って食糧を買ってくるように言います。そこで四男ユダが末弟ベニヤミンを連れていくことが条件だと話します。ヤコブは嘆きますが、ユダはこの件に自分が責任を持つと説得。ヤコブは受け入れます。かつて長男ルベンもヤコブを説得しようとしましたがスルーされました。違いは何か?まず言い出す時期が違いました。ルベンは食糧を持ち帰った時、ユダは食糧が尽きた時。またルベンは、末弟を連れて帰れなかったら自分の二人の息子を殺してくれと、えげつない責任の取り方を提示。かたやユダは、ヤコブも子供も孫も助かることを強調。責任は自分が負うと言いました。かつてヨセフを売ったユダ。嫁タマルにも無責任だったユダ。しかし危機に直面し、試されることで、変わり始めている。命を救おうとする者、とりなそうとする者、責任を負う者としての自覚が芽生えているのです。

ヤコブの自覚

聖書はヤコブをイスラエルと言い換えています。名前の変化は中身の変化。ユダの言葉を受けて、ヤコブはお土産攻撃に転じます。かつてエサウと再会する時に似たようなことがありました。祝福の神様を信じるヤコブらしさが戻ってきた。『どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい』とヤコブ。ベニヤミンを犠牲にすることを厭わない、と言っているのではありません。彼は子どもたちが助かるよう「全能の神のあわれみ」に頼っているのです。「乳房の神の胎」と訳せる言葉です。母親が子を生み出すように、神様が命を与えて下さるのです。執着の強いヤコブ。自分の力で握りしめるヤコブ。でも自分の力を失うことで神様の祝福が流れることを知ったヤコブ。でもいつのまにかベニヤミンを握りしめていた。でも自分の力では守り切れない。ベニヤミンを手放すことで、神様の命と祝福が流れる。家族全員を救える。家族の長としての自覚が芽生えたのです。

ヨセフの自覚

ヨセフの兄たちはベニヤミンと共にエジプトへ来ました。兄たちは前回の食料代返却の件で戦々恐々としていましたが、ヨセフの家づかさに『安心しなさい。恐れてはいけません。その宝はあなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたの袋に入れてあなたがたに賜ったのです』と言われ、ヨセフの豪勢な食事の振る舞いにホッと一息できました。ヨセフは同じ母親の弟ベニヤミンを見て、その場で泣いて自らを告白したい衝動にかられますがグッとがまん。エジプトのつかさとして振る舞います。それはまだ越えなければならない試練(テスト)が兄たちにあったからです。ヨセフはそれを自覚していました。

私たちは自分が罪人であるという危機的状況を自覚する(真実になる)ことで救いに向かって胎動をはじめ、キリストを信じて神の子として生まれました。しかしいつの間にか自分の力で握りしめているものがあるかも知れません。そのことで自ら試練を招いているかも知れません。それを突然の災いや神様の罰だと思うこともある。でもそれがどんなものでも、私たちが恐れたりあきらめたり滅びたりすることは、神様の本意ではありません。神様は祝福したいお方。惜しみなく与えたいお方。私たちと共に楽しみたいお方。試練は自己確認のチャンス。神様はその試練を通して、私たちが握りしめているものに気づき手放し真実になり、祝福を受け取り周囲へ流し出す者となっていほしいのです。神様は私たちが真実になるまで涙の心を持って忍耐して待っておられます。

9月30日(日)の礼拝は、創世記第44章1節〜34節から、「罪を認め、罪を負うユダ」と題してメッセージです。

年長者祝福カフェスタイル礼拝

9月16日(日)の礼拝は、年長者祝福カフェスタイル礼拝でした。75歳以上の方々のお祝いをし、80歳以上の方々の証しや賛美を聞き、そして老人ホームで生活しておられる姉妹方や自宅で療養されている兄姉の最近の様子を映像で見たりしました。

今回のメインメニューはバーベキュー。持ち寄りもたくさんありました。

煙もくもく。窓を全開。外からは「礼拝?何してるの?」という感じだったでしょうか。

80歳以上の方々から三言証し。①今までで大変だったこと一つ。②感謝だったこと一つ。③みんなにぜひ伝えたいこと一つ。「いっぱいありすぎて困る〜」「また次回よろしくお願いします!」。

いつも変わらぬパワフルな歌声を披露して下さいました。

大いに愛せられる人

年長者のこれまでの信仰と歩みに敬意を表し、祝福が増し加わることを祈ります。そして神様の御前に集った私たち全員の信仰と歩みを感謝し、この交わりを喜び合い、共に祝福にあずかり続けるよう祈ります。そこでダニエルという人の生涯から、変わらぬ神様に、変わらぬ信仰を持ち続けて生きる姿を学びたいと思います。ということで、9月16日(日)の年長者祝福カフェスタイル礼拝は、ダニエル書から「神に愛せられる人」と題してメッセージでした。

信じ続ける

北イスラエルがすでに滅び、南ユダも大国バビロンの前に風前の灯火となっていた頃、南ユダの王族だった若者ダニエルは、3人の友人とバビロンに連れて行かれ、ネブカデネザルの食事で養われることになりました。弱小国家の若者を大帝国が最大のもてなしで養うというのです。しかしダニエルたちは信仰上の理由で断ります。ただ断るだけではなく「野菜(「種」という言葉でもある)と水」で試してみてほしいと提案。結果は他の若者たちの健康に勝りました。聖書はここから「野菜と水だけを食しなさい」と言いたいのではありません。ダニエルたちの信仰の姿を言いたい。どんなに若くても、どんなに小さく弱い国の出身でも、相手がどんなに強大であっても、変わらぬ信仰が貫くのです。

告白し続ける

今度は3人の友人のエピソード。ネブカデネザルはダニエルを信頼し、ダニエルの神様を賞賛もしますが相変わらずな面も。巨大な金の像を立て、それを拝まない者は燃える炉の中に投げ込むと言うのです。3人の友人たちは金の像を拝まず密告されます。王の前に連行された彼らは告白します。『ネブカデネザルよ…もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません』。王は怒り狂い、火を7倍にして彼らを投げ込みますが、炉の中には4人。王はその1人を『神の子のようだ』と表現します。王が彼らを呼び出すと、3人が無傷で出てきました。聖書はここから「こんな告白があれば、こんな奇跡が起こる」と言いたいのではありません。3人の告白の姿を言いたい。神様を信じていても災難に遭うことがある。面倒な人に仕えなくてはならないこともある。しかしどんな状況でも、誰に仕えようと変わらぬ信仰と告白が貫くのです。

祈り続ける

ダニエルは約80年にわたって何人もの王に仕え、バビロンもペルシャに変わりました。晩年はダリヨスに仕えます。ダニエルは歴代の王に信頼され用いられますが、周りから妬まれました。妬む者たちは王に「30日間、王にのみ願い事をし、それ以外の神や人に願い事をするなら、ししの穴に投げ入れる」という法律を出させます。その法律を知ったダニエルは、家に帰り、今まで通り窓を開け放ち、膝をついて神様に祈り、感謝を献げました。妬む者たちはその習慣を知っていて王に密告。王はダニエルがそんなことになると思いもよらず、何とかしようと東奔西走。しかし何ともならずダニエルをししの穴に。眠れぬ夜を明かしダニエルの元へ。すると全く無傷で生きている。王は大喜びでダニエルを引き上げ、妬む者をししの穴へ投げ込み、新しい法律で悪しき法律を解きました。聖書はここから「こんな祈りがあれば、こんな奇跡が起こる」と言いたいのではありません。そんなこともあります。しかしそれ以上に、ダニエルの祈りの姿を言いたい。どんなに若くとも、老いても、なんにん・なんびとに仕えようと、どんな状況でも、変わらぬ信仰と告白と祈りが貫くのです。

聖書はダニエルを『あなたは大いに愛せられている者』『大いに愛せられる人ダニエル』『大いに愛せられる人よ』と繰り返します。神様は同じように私たちも愛しておられる。炉の中で3人に付き添った『神の子』のように神の子キリストが共におられる。全時代、全世界を貫いて、私たちを愛し、共にいて下さるのです。『ダニエルよ、あなたの道を行きなさい』『終りまであなたの道を行きなさい』という『あなたの道』は、この神様に向いて聞いて従い続ける「私たちの道」、信じ告白し祈り続ける「私たちの道」でもあるのです。

9月23日(日)の礼拝は、創世記第43章1節〜34節から、「救いに向かうそれぞれの自覚」と題してメッセージです。

教会案内「ゴスペルだより04」ができました

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2018/09/a93c1db7a475f52decb9c6f1514caee2.pdf

真実を求めるヨセフ

心理テストを受けたことがあります。結果は「うそ尺度」が高い。「牧師なのに!私、最悪です」と言うと、先生は「厳格な親や大人たちの中で育ったり、成果を厳しく求められる環境に置かれると、必死になって認めてもらおうと頑張る。でもどれだけ頑張っても認めてもらえない。ますますよく見せようと頑張る。そしていつまでたっても自信がない。そんな状態になるのです」と説明して下さいました。「ありのままに」とはよく聞く言葉ですが、知らず知らずのうちにありのままではいられない自分がある、とその時教えられました。このありのまま。聖書でいう『真実』に近いのではないかと思います。ヨセフの兄たちは『真実』ではありませんでした。ということで、9月9日(日)の礼拝は、創世記第42章1節〜38節から、「真実を求めるヨセフ」と題してメッセージでした。

正直を自称する兄たち

パロの夢は現実となりました。7年の大豊作の後、7年の大飢饉が始まった。その飢饉はヤコブ一家をも襲いました。ヤコブは末っ子ベニヤミン以外の子どもたちを食糧確保のためエジプトに行かせます。ついに10人の兄たちはヨセフにひれ伏します。ヨセフの夢の実現です。ヨセフは兄たちがわかりましたが、兄たちはヨセフだとわかりません。ヨセフは彼らを回し者だ!と言います。エジプトは国防上の理由で東から来る民族に警戒していました。兄たちはそれを理解してか、こたえます。『いいえ、わが主よ、しもべらはただ食糧を買うためにきたのです。われわれは皆、ひとりの人の子で、真実(正直)な者です。しもべらは回し者ではありません』。そしてヨセフが聞きもしない「いなくなった」弟や家に残してきた末弟の話をべらべら。しかし彼らは正直に話しませんでした。ヤコブのもとに帰ってからも、エジプトでのやりとりを正直に話しませんでした。兄たちはヨセフにもヤコブにも聞こえの良いように話したのです。

真実を求めるヨセフ

『あなたがたに誠実(真実)があるかどうか、あなたたがたの言葉をためしましょう』。先ほどの「正直」と違い、神様の「真実」を言う言葉が使われています。そして私たちが神様の前に真実になった時、神様に「アーメン(真実です)」と告白し従える、そういう言葉。そして真実はためされることで出てくることもある。ヨセフは兄たちを三日間監禁所に入れました。彼らは心探られます。監禁所から出されヨセフの提案(兄弟一人をここに置き、食糧を持って帰り、末弟を連れてくる)を聞いて、ヨセフの前で自分たちの『罪』について語り合います。彼らとヨセフの間には通訳がいて、兄たちはヨセフにはわからないと思っていました。まるで兄たちの心を見ているかのようです。ヨセフは沈黙し見守ります。そして涙せずにはおれませんでした。

不信仰な信仰者たち

2番目の兄シメオンをエジプトに残し9人でヤコブのもとに帰ることになりました。帰り道、食糧の代金が袋に返してあることがわかります。『彼らは非常に驚き、互いに震えながら言った、「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」』。ヤコブも同じように恐れました。そしてこう嘆きます。『ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンも取り去る。これはみんなわたしの身にふりかかって来る』『あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせる』。彼らの反応は、神様が恐ろしいお方で、何もかも奪い去るかのようです。でも神様は祝福の神様。良いものを与えてやまないお方。彼らの方が今まで、さんざん、人を欺き、奪い、殺し、恐ろしいことをやってきた。でも今、自分たちは哀れな正直者だと思っているのです。

私たちも心に秘密や闇がないか。それはひょんなことであらわれる。そして取り繕っていないか。自分を正しいとしていないか。神様はその心を、憐れみの目で見ておられる。だからといって土足で踏み込むようなことはなさらない。私たち自ら、真実になってほしいと願っておられる。祝福を受けるにふさわしい者になってほしいと願っておられる。良いも悪いも、強いも弱いも、表も裏も、成功も失敗もあることを認める。開き直るのではなく神様に向き直る。アーメンと従う者になるのです。真実を求める神様。それは私たちをさばくためではなく、祝福を分かち合う者としたいからなのです。

9月16日(日)は年長者祝福カフェスタイル礼拝。ダニエル書から、「大いに愛せられる人」と題してメッセージです。

神のかたち、ヨセフ

「子は親の鏡」「親は子の鑑」という言葉があります。前者は子どものすることが親に似ているということです。後者は親が子どものお手本だということです。いずれにしても親が本元。今時、子どもは親ばかり見ているわけではありませんが、それでも親の影響は絶大です。さて。私たちは見えない神様を世に映し出し、祝福を地に広げる「神のかたち」として創造されました。ペリシテ人アビメレクはアブラハムやイサクの労苦する生き様に、神様を見ました。そしてパロの侍従長ポテパルもヨセフの仕える様に、神様が共におられるのを見ました。創世記の最初に創造された「神のかたち」を、創世記の終わりに登場するヨセフに見て、私たちの基本を学ばせていただきたい。ということで、9月2日(日)の礼拝は、創世記第40章1節〜第41章57節から、「神のかたち、ヨセフ」と題してメッセージでした。

神がしようとされることを知る

ヨセフはポテパルの管理下にある獄屋にいました。しかし獄屋であっても神様はヨセフと共におられます。ヨセフは獄屋番の好意を得、獄屋番の仕事を肩代わりし、他の囚人に仕えました。この獄屋は政治的高官が入ってくる獄屋でした。ここに登場する『給仕役の長』も『料理役の長』もパロの最も身近な重要人物です。彼らはそれぞれ夢を見、ヨセフの夢解きの通り、給仕役は釈放され、料理役は処刑されました。それから2年後、パロも夢を見ます。この時、ヨセフは獄屋から出され、パロの夢を解き、7年の大豊作と、その後の7年の大飢饉が現実になります。ヨセフはいずれの夢解きの場合も「私ではなく神様が解かれる」と前置きし、パロには『神がパロに平安をお告げになりましょう』と言います。命と死の現実や順風満帆と逆風破船のような現実は、夢を解いても解けなくてもあります。聖書はそういう現実を正直に記します。でもそれで終わらない。神様は私たちを祝福したい。平安を与えたい。それが神様がしようとされること。私たちもそんな神様がしようとされることを知る者、語る者でありたいと思います。

自分のするべきことを知る

ヨセフこの時30歳。まるで権威ある者のように語ります。これからの大豊作と大飢饉に備えて、国家の危機に対して、よどみなく、具体的に、それでいて端的に、パロのするべき明確なビジョンを。なぜこんな提案ができたのか?それは政治的高官が入ってくる獄屋で仕え、エジプトのあらゆる情報を知ることとなったからです。「なんでこんな所に!神様ひどい!神様なんか信じない!」と言っている間は、そんなことはわからない。「こんな所」にも神様はおられ、しようとされるお考えがあり、私たちのするべきことがある。私たちはヨセフよりもはるかに恵まれた時代に生きています。神様のお心を知るための聖書をみんな手にできます。瞬時に世界中の情報を知ることのできる道具を常に携帯しています。神様の言葉である聖書から神様がしようとされることを知ると共に、今の時代や今ある場所をよく捉えて、私たちのするべきことを知る者、伝える者でありたいと思います。

祝福を広げるために仕える

ヨセフは囚人からパロの次の位へ一気に変えられました。そこで彼がしたことは威張ることではありません。国家を救うため、パロとその国民を生かすため、引いてはより多くの人を助けるため、仕えて治めたのです。ポテパルに仕えポテパルの家を治め、獄屋番に仕え獄屋を治め、パロに仕えパロの家を治めたのです。彼の人生は仕える人生。そのスタンスは変わらない。この「治める」という言葉は「置く」という意味があります。「神のかたち」は地に置かれ、仕える(創世記の最初では「耕す」と訳されている)ことで治め、神様の祝福を満たすために創造されました。ヨセフもポテパルの家、獄屋、パロの家へと次々置かれ、治め、祝福と平安をもたらすのです。ヨセフは「神のかたちの鑑」のようです。「仕事」という漢字も「仕えること」。私たちの仕事は本来、みんな仕えること。仕えることで治める。治めることで祝福をひろげるのです。私たちも神様に置かれている生活や学びや働きの場があります。委ねられている人間関係があります。そこに私たちのするべきことがある。するべきことを通して仕え、治め、祝福と平安を分かち合う者でありたいと思います。

9月9日(日)の礼拝は、創世記第42章1節〜38節から、「真実を求めるヤコブ」と題してメッセージです。


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