カテゴリー

クリスマス礼拝・祝会の案内です

http://church.tenjugaoka.ed.jp/brog/wp-content/uploads/2018/11/e69b0b0bb8f8ee59926cf4726bb5fb5a.pdf

収穫感謝祭がありました

11月20日(火)は天授ヶ岡幼稚園の収穫感謝祭が教会礼拝堂で行われました。

果物たくさん!

幼稚園の畑で今年最初にとれた大根。何だか人間みたい。

先生の楽しいお話。

みんなも元気に、頑張って歌を披露してくれました。

私もお話しをさせていただきました。

みんなが持ってきてくれた果物は農家の人が作ってくれました。自分の分だけではなく、みんなが食べられて、元気になれて、スクスク成長するため、みんなのために作って下さいました。農家の人にも、またみんなを育てて下さる家族や先生にも感謝したいですね。さて今日は、1人の子供の小さなお弁当がたくさんの人たちのお腹をいっぱいにしたというお話し。

イエス様はみんなを愛する神の子救い主。イエス様のお話を聞きたい!とたくさんの人がついて来ました。お昼になりました。みんなお腹がへりました。でも大人たちは誰も食べ物を持っていませんでした。イエス様は弟子のピリポに言います。「町へ行って食べ物を買ってきなさい」。「ええ!200万円あっても1人パン1個ほど。そんなのムーリーです!」とピリポ。弟子のアンデレが1人の子供を連れてきました。「ここにパン5つと魚2匹のお弁当を持った子供がいます。でもこれでは全然足りませんよね。やっぱりムーリーです!」。ムーリームーリー、大人たちはムーリー。でも子供はお弁当をイエス様に献げました。「これを使って下さい」。

イエス様は「ありがとう!」と受け取って、神様に感謝を献げ、そのお弁当を分け始められました。1人、2人、3人…10人…100人…1000人…1万人!みんなお腹いっぱい。余りを集めると12のカゴにいっぱい。お持ち帰りができるほど。さて質問。お弁当を献げた子供はお腹をすかせたままでしたか?違うね。お弁当を献げた子供もお腹いっぱいになった。もう一つ質問。この子供と、たくさんの大人たちとどっちが偉い?子供だよね。子供は精一杯の献げものをイエス様にしました。みんなも、まだ小さいけれど、「ぼくのこれを使って下さい」「私もお手伝いします」と精一杯の献げものをイエス様にするなら、イエス様は喜んで受け取って、たくさんの人たちのために用いて下さいます。

一粒の種から何十倍、何百倍と豊かな実りを与えて下さる神様に感謝しましょう。そして私たちも自分にできる精一杯を献げましょう。神様はそれを祝福して豊かに用いて下さいます。みなさんの祝福をお祈りします。

安息日の家族

『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』で始まったマルコによる福音書。イエス様の福音がどんなものか?何からの勝利か?どんな分け前があるのか?イエス様の活動が本格的に始まりました。そのオープン戦は安息日の会堂での権威ある教えとけがれた霊の追い出しでした。今日は安息日における続きのお話し。ということで、11月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章29節〜31節から、「安息日の家族」と題してメッセージでした。

駆けつけるイエス様

『それから会堂を出るとすぐ、ヤコブとヨハネとを連れて、シモンとアンデレの家にはいって行かれた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床についていたので、人々はさっそく、そのことをイエスに知らせた』。シモンのしゅうとめは熱病で礼拝に出席できませんでした。シモンとアンデレは一足早く家に戻ったのかもしれません。イエス様も『すぐ』ヤコブとヨハネを連れてシモンの家へ。会堂での出来事を目撃した多くの人々も後をついて来ていました。そして人々も『さっそく』しゅうとめのことを知らせました。この『すぐ』『さっそく』は同じ言葉。すぐに。すぐに。イエス様は礼拝の中にいるけがれた霊につかれた人を解放されましたが、礼拝に来られない熱病のしゅうとめのもとにも、急いで駆けつけて下さいました。

起こされるイエス様

『イエスは近寄り、その手をとって起こされると、熱が引き』。『とって』という言葉は「支配する」「自由にする」「獲得する」という意味もあります。『起こされると』という言葉には「目ざめる」「よみがえる」「立たせる」という意味もあります。会堂でのけがれた霊につかれた人は、けがれた霊に支配され、自分を失っていました。イエス様はその人を解放し、取り戻し、自由にされました。今回は熱病です。しゅうとめは熱病に支配され、元気を失い、床に縛られ(縄で縛られていたのではありませんよ。床から出られなくなっていたということ)ていました。当時、熱病は、その人が何かしら罪を犯した結果だ、と考えられていました。しかしイエス様は「これは神の罰だ!」なんて言われません。すぐに来て、引き寄せ、取り戻し、自由にされた。死の床から目ざめさせ、よみがえらせ、立たせられたのです。

もてなすしゅうとめ

『女は彼らをもてなした』。病み上がりで大丈夫か?そこはイエス様の癒し。イエス様を始め、たくさんの人々をもてなせたようです。ここから、イエス様を信じればどんな病気も癒される!と言いたいのではありません。イエス様の活動の中で、病や死について追々触れていきます。一言言っておくなら、私たちは日々癒されながら生きている、ということです。ここで言いたいのは、安息を得た私たちは何をすべきか?何ができるか?と言うことです。それがもてなすこと。喜びをもって丁寧に仕えること。イエス様こそ私たちの解放と癒やしと自由のため、天から地へすっ飛んできて、私たちを丁寧に扱い喜びをもって仕えて下さいました。そんな私たちも、隣人の解放と癒やしと自由を願って、喜びをもって丁寧に仕えるのです。

「おもてなしの国、日本」と言われます。海外からの人々をもてなすだけでなく、最も身近な人からもてなしているでしょうか?イエス様こそおもてなしのお方。喜びをもって丁寧に仕える神様。そこに解放と癒やしと自由がある。上から、尊大に、力でねじ伏せ、何もかも巻き上げる独裁的リーダーとは真逆です。『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』の『はじめ』は「支配」という言葉。支配という言葉のイメージがひっくり返るのではありませんか?これもすごい福音ではないでしょうか。喜びをもって丁寧に仕える神の子イエス様を信じる私たちも神の子です。安息を得た家族から、喜びをもって丁寧に仕える家族として、遣わされてまいりましょう。

11月25日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章1節〜14節から、「教会で偉い人」と題して、足立幹夫先生がメッセージして下さいます。

神に導かれる人生にまさる確かさはなし

「終活」。自らの人生を総括し、その終わりに向けて準備すること。ヤコブの人生も終わりを迎えようとしていました。創世記第46章から第47章にかけて、ヤコブの人生の総括的出来事が記されます。ここでヤコブの二つの名「ヤコブ」と「イスラエル」が入り乱れています。またヤコブが生きているのに『ヤコブはエジプトの国で十七年生きながらえた。ヤコブのよわいの日は百四十七年であった』とあります。アブラハムやイサクの時は死に際して記されました。これはヤコブという個人的な歴史から、イスラエルの民の歴史に移りつつあることを示しています。ヤコブの総括的な出来事から私たちの人生にもある恵みを見させていただきましょう。ということで、11月11日(日)の礼拝は、「神に導かれる人生にまさる確かさはなし」と題してメッセージでした。

神様が共におられる

エジプトからヤコブに迎えが来ました。パロは「家財に心引かれるな。エジプトの良いものはあなたがたのものだ」と言いましたが、ヤコブは財産を携えて出発します。途中、ベエルシバで神様を礼拝します。ヤコブを富ませ導くのは神様だから。しかし約束の地を離れエジプトに下ることに少々不安があったようです。『恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民とする。わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフ手ずからあなたの目を閉じる』と神様。エジプトで死ぬことが示唆されます。しかし『必ずあなたを導き上る』?二つの意味がある。ヤコブの遺体をカナンの地へ。そして大いなる国民となったイスラエルをカナンの地へ。神様はヤコブが死んでもなお共におられ、多くの子孫をも『あなた』と呼んで共にあって導かれる。それが神様の約束だから。私たちも同じ神様を信じている。神様は私たちが信じる以上に、確かに救い祝福するために、強力にぴったりと共にいて下さるのです。

ふしあわせと言えども

ついにヤコブはヨセフと再会します。パロが年齢を尋ねると『わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません』とヤコブ。かつて、神様そっちのけで、我の力で祝福をもぎ取ろうと、トラブル連発だったヤコブ。そんな苦労を思い出していたのか?確かにアブラハムやイサクの年齢には及ばない。しかし父祖たちにも並々ならぬ苦労はあったし、ほめられない事件も起こしました。その辺りは変わらない。逆に「ヤコブ。お前の方が祝福されているぞ」と父祖たちに言われそう。子や孫がたくさん与えられていたから。アブラハムの民でもイサクの民でもなく、イスラエルの民になりつつあったから。「隣の芝は青い」。自分にあるものを感謝しないで、ないものを比べている。神様に導かれる互いの人生は比べても意味がない。なぜなら、私の人生は、私と神様とでしか得ることのできない人生だから。神様は私にとって最上の体験と救いと祝福の人生として下さるのです。

裏が表になるごとく

飢饉は続く。エジプト国民は食料を銀で買い、銀は国有化。今度は家畜で買い、家畜も国有化。さらに田地で買い、田地も国有化。最後は自らで買い奴隷になりました。ヤコブ一家は?エジプト人にとって羊を飼うヤコブたちは『忌む者』でした。であれば、国有化された家畜は誰が管理する?ヤコブ一家がうってつけ!エジプトの家畜部門を任されます。そして飢饉とはいえ草が生える肥えた土地としてゴセンの地をあてがわれました。エジプト人には忌む者でも、エジプト人のように奴隷にならず、緑多き地に住まうことができた。まさに表が裏に、裏が表になるような出来事。私たちも「神様が共におられる!」と信じていても「ふしあわせだ」と思えるような状況や状態になることがある。しかしどんな状況や状態にあっても、神様の救いと祝福は現れてくる。ヤコブはヨセフに『親切と誠実とをもってわたしを取り扱ってください』と自分の亡骸を父祖の墓に葬るよう誓わせます。この『親切と誠実』こそ「神様の約束に基づく愛と真実」を現す言葉。ヤコブは「私の人生はふしあわせだ」という言葉とは裏腹に、腹の底では神様の約束と真実の確かさに全面信頼していたのです。

神様はあなたと共にいて、あなたの人生において、他と比べられない最上の救いと祝福を現して下さいます。どんな状況や状態にあっても。それが神様の約束に基づく愛と真実。強力で確かな神様の臨在と導きなのです。

11月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章29節〜31節から、「安息日の家族」と題してメッセージです。

神の大いなる救い

試練とは、その人が持つ弱さや罪が明らかにされ、真実になり、さらに良いものが現れるためのものでした。ヨセフのテストを通して、ユダが真実になった時、「神の大いなる救い」が現れました。ヨセフは神のイメージ。ユダは悔い改める私たち、かつとりなすイエス様のイメージ。ヨセフやユダの行動はひな形。完璧なひな形はありません。完璧ならそれは本物。そしてこの物語に現された「神の大いなる救い」もひな形です。このひな形の「神の大いなる救い」を通して、本物の「神の大いなる救い」を味わいたいと思います。ということで、11月4日(日)の礼拝は、創世記第45章1節〜28節から、「神の大いなる救い」と題してメッセージでした。

救うためのヨセフ 4節〜8節

ヨセフはついに素性を明かします。ここに『救う』『救(すくい)』という言葉があります。前者は「栄養を与える」、後者は「解放する」という言葉。神様はヤコブ全家に食糧を与え養い、危機的状況から解放するため、先にヨセフをエジプトに遣わされました。田舎の17歳の少年だったヨセフ。兄たちはヨセフを売った後どうなったか知らない。ヤコブは死んだと思い込んでいる。しかし今、エジプトの栄光を身にまとったヨセフが現れた!このヨセフ、イエス様に似ている。田舎に生まれ育ち、同胞から憎まれ、異邦人に渡され、殺されよみにまで降り、よみがえられたイエス様。今は天に昇られ見えません。しかしやがて神の国の栄光を身にまとって私たちの前に現れる。ヨセフの兄たちもイエス様の同胞もあらん限りの憎悪を持って悪をなした。しかし神様はそれさえ用いて、悪をなした張本人さえ救う「大いなる救い」を用意された。しかし私たちはそれで自分の行いを正当化できません。罪を認め真実にならない限り自らの行為で裁かれる。罪を認め真実になるなら「大いなる救い」に与れる。この測り知れない知恵と愛の神様に感謝したいと思います。

最上のものを振る舞いたいパロ 16節〜20節

ヨセフは喜び家族のために便宜を図りますが、『パロの家』はさらに喜び便宜を図ります。パロは言います。『わたしのもとへきなさい』『良い物を与えます』『この国の最も良いものを食べる』『(カナンにある)家財に心引かれてはなりません』『エジプト全国の良い物は、あなたがたのもの』。赤の他人とは思えない破格の待遇。このパロ、神様に似ている。私たちがイエス様の救いに与るなら、天上では大きな喜びがあります。神様も御使いも喜ぶ。赤の罪人ではなく、神の国の国民、神の子となったから。地上でどんなに貧しかったか、富んでいたか、問題ではない。地上の物に心引かれる必要は全くない。新しい天と地の祝福をイエス様と共に全て受けつぐから。新しい世界の最上のものは全て私たちのものだから!この破格の親切を持って喜んで下さる神様に感謝したいと思います。

車を見て信じるヤコブ 24節〜28節

ヨセフは兄たちをヤコブへ遣わす時『途中で争ってはなりません』と言います。「争う」は「震える」「わななく」という言葉。今や全てが明らか。兄たちは自分の悪事をヨセフやヤコブにどう謝ったらいいだろうと心中震えわなないたと思います。ヨセフは「ありのまま言えばいい」と言いたかった。だから兄たちはヤコブに『ヨセフが語った言葉を残らず彼に告げ』ました。ヤコブは気が遠くなった。兄たちの嘘と悪事よりも、ヨセフが生きていてエジプトのつかさであることの方が圧倒したからです。ヤコブはまだ見ぬヨセフを、贈られた車を見て信じました。ヤコブは今まで不満たらたらお先真っ暗だったのに『満足だ』と言った。車を見て全てが変わったのです。私たちは神様の前に罪を告白します。ありのままに。それが私たちの真実。しかしイエス様がその罪の死からよみがえられた真実はそれを圧倒する!イエス様は見えません。新しい天と地の祝福もまだです。でも十字架の向こうにそれはすでにあると信じることができる。十字架を見て満足し喜ぶことができる。

ヨセフの車は「大いなる救い」の証拠。ヤコブはそれに乗りさえすれば良かった。私たちの「大いなる救い」の証拠はイエス様の十字架。それに与りさえすればいい。神様のヨセフによる「大いなる救い」はあの時代のあの人々だけの救い。でも神様のイエス様による「大いなる救い」は全時代の全ての人々の本物の救い。このとてつもないスケールの「神の大いなる救い」を用意して下さった神様に感謝したいと思います。

11月11日(日)の礼拝は、創世記第46章1節〜第47章31節から、「神に導かれる人生にまさる確かさはなし」と題でメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved