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心を開きませんか

見方が変われば、同じものを見ても、今までとは態度や関係や価値が変わってしまうことがあります。良い方向へ変わればいいですが、後ろ向きになったり、自分が変わることを恐れたり、前進よりも居座わることがないか。それで自分が良くなり、前進し、成長するか。コリント教会はこの問題を抱えていました。パウロによって誕生し、パウロをよく知っていたはずなのに、後から来た自称教師たちの触れ込みでパウロへの見方をあっさり変え、神様に向いて聞いて従うことも心許なくなり、問題を乗り越えられない、問題がこじれる教会になっていました。しかしパウロはそんなコリント教会に何度も手紙や同労者を送ります。すると変化の兆しが現れた!そこでなお手紙を記す。なお心を開いてほしい!ということで、1月27日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第6章11節〜第7章4節から、「心を開きませんか」と題してメッセージでした。

心ふさいでいませんか

『コリントの人々よ。あなたがたに向かって…私たちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ』。パウロの『心』は霊とか魂と呼ばれる領域を含む言葉。肉体を越える心。一方コリント教会の『心』は「はらわた」という言葉。内臓に囲まれた心。両者の心のあり方の違いが表されている。コリント教会はパウロに心ふさいで、自称教師に心開き、問題を乗り越えられず、問題がこじれ、心悩む状態となりました。パウロのせいではなく、パウロ批判に転じた彼ら自身のせい。一方パウロは患難の中にありましたが、それでも神様に心開き続けて、神様の数々の恵みを体験し続け、彼自身はますます豊かになりました。私たちの心はふさいでいるか?何によって?「あの人のせい!あの出来事のせい!」と、いつまでも辛さ苦さを握りしめていないか?それで自分は良くなるか?

神様に心開こう

『わたしは子供たちに対するように言う』『愛する者たちよ。…肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろう』。パウロは愛情深く呼びかけます。パウロに心開くことは、コリント教会誕生の原点、神様に向いて聞いて従う原点に立ち帰ることになる。『神をおそれ全く清くなろう』とは「畏敬の神の中にあって全く清くなろう」です。神様の中に全ての「貴良い」ものがある。その懐に飛び込むために神様に心開く。パウロは『彼ら(この世)の間から出て行き、彼らと分離せよ』とも記しますが、隠遁生活せよという意味ではありません。この世も神様に癒され回復される必要がある。そのためにまず私たち教会が、この世から神様に心を開き直すのです。それが彼らとの分離。すると清さが流れ込みあふれ出す。周りを癒し潤す。泉のような存在。それが『神の宮』の働き。神様はパウロ以上に、私たちに愛情深く『むすこ、むすめ』と呼びかけ、その清さで癒し、回復し、用いて下さるのです。

神の働き人にも心開こう

『心を開いてほしい』とは「あなたがたの心に私の居場所をください」という意味です。自称教師たちはパウロを「不義を行い、破壊し、だまし取る者」だと批判したようです。そしてコリント教会は心からパウロを閉め出そうとしていました。しかし「不義を行い、破壊し、だまし取」っていたのはかつてのコリント教会。第一の手紙がそれに触れています。見方が変わるにも程がある!一方パウロはずっと変わらずに、コリント教会を『大いに信頼し、大いに誇って』きました。「私の率直な意見をあなたがたは真摯に受けとめてくれる。必ず変われる。成長できる。あなたがたはそういう『できる』人たちだ。素晴らしい教会だ!」ということです。だからコリント教会に良い変化が少しでもあるなら大喜び。パウロ自身は患難の中でも苦しみはどこへやら。辛さも吹っ飛んだ。こんな協力と愛を惜しまない神の働き人、寄り添い続ける神の働き人の居場所が、彼らの中に少しでもあれば、その回復と成長はどれほど進むでしょうか。

あなたの心に神様の居場所はありますか。神様と同じようにあなたのことを思って、語りかけてくれる神の働き人の居場所はありますか。私たちは何でもかんでも心ふさぐのではなく、神でないものに心許すのでもなく、まず神様に、そして神の働き人に心開きましょう。「貴良い」ものを受け取り、分かち合ってまいりましょう。その姿が慰めと喜びを広げるのです。

2月3日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第7章5節〜16節から、「喜びの相乗効果」と題してメッセージです。

どんな中でも恵みに生きる者

「恵み」とは「愛ぐし」(いとおしい)という言葉から来ているそうです。「切ないほど愛おしいから何かプレゼントしたい」からプレゼントしたもの。それが恵み。また恵みという漢字はぶら下げられた糸巻きと心をつなげた様で、相手を丸く抱え包み込もうとする心を意味するそうです。これらの恵みは、まさに神様のまなざしと心を表している!と思えてなりません。ではどんな恵みか?ということで、1月20日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第6章1節〜10節から、「どんな中でも恵みに生きる者」と題してメッセージでした。

今は恵みの時

『神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」』。パウロは神様からの恵みの数々を記してきましたが、なお恵みを恵みとして味わうよう勧めます。自然界は私たちが生きるための全てがそろった神様の恵みでした。医食同源というように私たちの食物は癒やしと活力をもたらすものでした。雄大な自然に立つ人や宇宙から地球を見る人は感動します。神様がいかに大きく、かつ私たちを包み込み愛おしんでおられるかを感じるからです。恵みは自然界だけではありません。私たちの営みも神様の恵みでした。アダムはエバを見て『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉』と喜びました。骨肉の愛があった。仕事は食物の次に与えられました。耕すことです。耕すとは「仕える」という言葉。自然界に仕え、互いに仕え合うことで治まるようにされました。しかし今は?結婚も家族も傷んでいる。骨肉の争いになっている。仕事は食べるため。仕えるのではなく、こき使いこき使われている。自然からも奪いまくり破壊している。人も自然も治まるどころか荒ぶるばかり。愛の枯渇したデストピアを広げている。全ては恵みだった。しかし恵みをいたずらに扱い、恵みでなくなってしまった。「こんなに台無しにしてゆるさん!」と神様のまなざしは怒っているか?いえ。今なお、私たちを切ないほど愛おしく思っておられる。神様は恵みを回復するために新たな恵みを用意された。それがイエス様の救い。この救いに罪の赦しと神の和解がある。神のかたちの回復と神の子としての成長がある。死が命に変換されるように、失った恵みも新しい恵みに変換される。ちょっと人が良すぎる、いえ神が良すぎると言えるほど。破格といえる恵みの時。私たちは今を大切にできなければ将来を大切にできません。今を大切にできれば過去を悔やむこともありません。今という恵みの時に、新しい恵みをまず受け取り、恵みを回復するべきなのです。

どんな中でも恵みの時

『この務(給仕としての振るまい)がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕(給仕)として、自分を人々にあらわしている』。パウロは人に「恵み!恵み!」と言っておきながら、恵みがないかのように自分の行いや努力で救いを達成しようとしていないか注意しつつ、神様の恵みを振るまう者として、どんな状況でも神様の恵みに徹しました。どんな状況かというと4節後半から記すわけですが、「これはちょっと御免被りたい」と思える過酷さです。「クリスチャンになってもろくなことないやん!」と突っ込まれそうです。しかし過酷な経験や恵みとは思えない状況は、今や誰にでも起こりうることです。しかし恵みに思えない「この世」をつくってきたのは私たち。神様に向かず聞かず従わず荒ぶる世界をつくり自分を貶め押し込んできた。それでいて「神はなぜ放っておくのか」「神も仏もあるものか」と叫ぶ。心が乾き、凝り固まり、トゲだらけになっている。そんな中で、一体誰が神様の恵みを伝えられるのか?同じような経験をしながら、同じような状況にありながら、神様の恵みに生きて、恵みを振るまうパウロや私たちではないか。過酷な中でのパウロの様子が6節から10節にあります。余裕やユーモアさえ感じられます。神様の恵みは人も状況も選びません。良い条件でしか受けられないのではなく、どんな中でも受けられます。ですからまず神様の恵みを受け取る。今、いつも、どこででも。この恵みに生きて振るまう。この恵みに生きなければ、恵みは途端に途切れて伝わらない。でもこの恵みに徹すれば、恵みは流れて、どんな中にも伝わるのです。

1月27日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第6章11節〜第7章4節から、「心を開きませんか」と題してメッセージです。

あなたは、わたしに従ってきなさい

1月13日(日)はドロシー・エレン・ホーア先生と福田八重先生の記念礼拝であると共に、教会70年記念礼拝でもありました。90年前から今日に至る貴重な写真をスライドで見ながら、お2人の働きと教会の歩みを振り返り、鍋をいただきながらこれからの教会の姿を語り合いました。

お2人は伝道者・牧者として働きを全うされました。しかし伝道者・牧者だけが献身し、伝道し、教会を生み出し、養うのではありません。それは私たち全員の営み。学びの場があるならそこで主の証し人として立つ。働きの場があるならそこで主の証し人として立つ。家庭があるならそこで主の証し人として立つ。「でもホーア先生や八重先生のようにはようしません」「主の証し人なんて、そんなに気負って勉強や仕事や生活をようしません」と気後れするでしょうか。神様は無いものを絞り出して頑張れとは言われません。私たちに必要なものを与え、力づけ、用いて下さいます。ということで、ヨハネによる福音書第21章1節〜22節から、「あなたは、わたしに従ってきなさい」と題してメッセージでした。

たとえマイナスでも

かつてペテロは「おれは他の弟子たちとは違う!イエス様を一番愛している!従っている!イエス様のためなら死んでもいい!」と豪語していました。イエス様はそんなペテロに『鶏が鳴く前に、あなたは三度「知らない」と言う』と言われました。イエス様が捕らえられ夜中の裁判が始まりました。ペテロはこっそり裁判の庭に入ります。周囲から「あんた、イエスの弟子じゃないか?」と言われ、「おれは関係ない!イエスなんか知らない!誓ってもいい!」と答えます。そんなことが3度。鶏が鳴きました。あれだけ愛し、息巻き、自信があったのに。裏切り、失敗し、打ち砕かれた。もう赦されない、回復不能、致命的。罪意識と後悔と恥に苛まれる。ゼロというよりマイナス。私たちにもないか?クリスチャンなのに何もできない。いや「これでもクリスチャンか!」。自分が思うだけではなく人に言われる。「だからクリスチャンは嫌いだ!」とまで。ペテロは漁師に戻って漁に出ていた。しかし復活されたイエス様は火をおこし、魚を焼き、パンまで用意してペテロを迎えられた。イエス様の方から声をかけられた。私たちにはこのイエス様が必要。たとえマイナスでも、いやだからこそ、イエス様は声をかけ、手を差し伸べて下さるのです。

癒し力づけ新しく

イエス様は3度『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』と尋ねます。ペテロは三度『わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と答えます。イエス様は意地悪?いいえ。三度の傷を癒すため。イエス様の1回目と2回目の『愛するか』はアガペー(神の愛)、3度目はフィレオー(兄弟愛)という言葉が使われています。一方ペテロは3度ともフィレオーで返事をしています。ペテロはありのままの自分を告白し続けたのです。以前のような背伸びする姿はありません。イエス様もありのままのペテロを受け入れ、イエス様の方からペテロの目線に合わせて下さったのです。それでいい。そこから始めるんだ。素直になったところから。身の丈に合ったところから。イエス様はペテロに『わたしの羊を養いなさい』と新しい使命を与えられました。私たちがたとえマイナスでも、ありのままの姿を告白するなら、イエス様は受け入れ、力づけ、それぞれにふさわしい新しい使命を用意して下さるのです。

そういうお互いと共に

ペテロは三度のやりとりで少し元気と余裕が出てきました。近くにいたヨハネが気になって、イエス様に『この人はどうなのですか』と尋ねます。するとイエス様はすぐに『あなたは、わたしに従ってきなさい』と言われます。他より自分が一番だと比べてきたペテロ。もう比べるな。気にするな。とにかく、まずわたしに従いなさい。これはワンマンでやれ!という意味ではありません。イエス様はチームの監督のようなもの。一人一人の特徴や賜物を一番理解して適材適所で用いられるのです。だからまず、イエス様に従う。そして私たちはワンマンプレーやスタンドプレーをするのではなく、イエス様の配置に従って、協力し合う。そこにチーム全体の調和が生まれる。力が発揮される。それが私たち教会なのです。

イエス様の昇天と聖霊降臨の後、ペテロはヨハネや他の弟子たちと協力してエルサレム教会を指導し、伝道へ出かけました。ホーア先生と八重先生も、他の働き人や多くの信徒と共に協力しながら、戦前から戦後にかけて、東京・大阪・京都と伝道し教会を生み出し、戦後の教団や神学校の礎を築かれました。皆さんにもイエス様は必要なものを満たし、それぞれにふさわしい働きを用意し、『あなたは、わたしに従ってきなさい』と語られます。その声に従うなら新しい主のみわざが始まります。そんなお互いが協力するならどんなに大きなみわざが実現するでしょうか。天授ヶ岡教会を創造された神様に期待し、監督であられるイエス様に従い、豊かな成長と結実のために共に労してまいりましょう。

1月20日(日)の礼拝は、コリント人への第2の手紙第6章1節〜10節から、「どんな中でも恵みに生きる者」と題してメッセージです。

あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ

この教会にも成人を迎えられた青年、迎えようとしている青年、そして若い方々があることを感謝します。これからの学び、仕事、生活、人間関係が主の恵みと祝福で満たされ、主の栄光とみわざが現されますようお祈りいたします。ということで、1月6日(日)は青年祝福礼拝。伝道の書第11章9節〜第12章14節から、「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と題してメッセージでした。この箇所は青年祝福の時によく開かれます。『若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ』。まず楽しめ!喜べ!やりたいようにやれ!と言っておいて、その結果は神様がさばかれるぞ!って、脅してる?上げておいて突き落としている?さて、聖書は何を言いたいのでしょうか。

人生はあっという間だ

『伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と』。伝道の書に何度も出てくる言葉。伝道の書を記した『伝道者』はソロモン王のような人物だったと言われます。博学聡明。富も権力もほしいまま。そういう立場を最大限に活用し、あらゆる事に挑戦し、人が経験しうることをなめ尽くし、振り子が振り切れるくらいやりたいことをやり倒しました。その結果、その感想が『空の空、いっさいは空である』。「むなしい」「つまらない」という意味もありますが、「あっという間だ」「瞬く間だ」という意味もあります。人が100年生きても、振り返るのに100年必要ありません。走馬灯のようにあっという間にできます。どれだけ長く生きてもあっという間。その人生がむなしくつまらないものになるか?充実した喜びに満ちたものとなるか?伝道者は人生が決して『空』ではない答えがある!と、最後に記すのです。

だから造り主を覚えよ

『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ』。『造り主』とは、あなたを始めとする天地万物の創造者である神様です。『覚える』とは「知っている」というだけではありません。英単語を暗記してテストで答えられても、普段の思考や会話や生活に使えなければ意味がありません。意識せずとも日常生活と一体になっていることを『覚える』というのです。「自由」とは何か?やりたい放題か?「自らの由(わけ)」を知って、それに従うことです。自分の特徴、使い方、目的を知って使いこなすことこそ自由。そこに最大限の満足と自分らしい人生がある。そんな「あなたの由(わけ)」を一番ご存じなのはあなたの造り主である神様。だから、あなたのあっという間の人生を最大限に活かすために、あなたが意識せずとも、体が覚えるほどに、あなたの造り主である神様に、向いて、聞いて、従い続けることが一番なのです。

そうしたら人生を楽しめる

『年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に』。老後に必要な三要素があるそうです。1つは生涯取り組める仕事や趣味。1つは夫婦や身近な人とのコミュニケーション。1つはお金の使い方。高度経済成長を猛烈社員として支えてこられた方々が退職を迎えた時、これらの問題に直面しました。「どうしていいのかわからない」。しかしこの問題は現代に限ったことではありません。三千年前の老人のつぶやきでもあったのです。『若い者』への話しが老後の話かいな?と思われるかもしれません。しかしこれらのことは、老後になってすぐできることではない、ということです。あなたの若い日に、今一番若いこの時に、あなたの造り主を覚えることで、生涯楽しみ続けられるのです。そこには、「神様に後から責められるなら楽しめない。羽目を外せない」という自由ではなく、羽目を外さなくても、神様のさばきを心配せず存分に喜び楽しめる自由があるのです。

伝道者はいろいろやり倒した結果、過ぎたるは及ばざるがごとしで、何事をするにも程々が良い、バランスが大切だと記します。あなたを絶妙なバランスで造り上げて下さった神様が、その程々やバランスをご存じです。全てのことについて言えるのは、全ての人について言えるのは、今日という、あなたの一番若い日に、あなたの造り主を覚えなさい、ということなのです。

1月13日(日)はホーア師&八重師記念礼拝(教会70年記念カフェスタイル礼拝)。ヨハネによる福音書第21章1節〜22節から、「あなたは、わたしに従ってきなさい」と題してメッセージです。

御言葉を土台に

今年もよろしくお願いします。

1年は365日。8760時間。日曜礼拝は52回。元旦礼拝が別の場合、会堂での礼拝は1年53回。1回の礼拝は1.5時間。1年79.5時間。1年の0.9%。平均すると1日13分程度になります。長い?短い?この時間で私たちの最も大切な部分が養われ、私たちの(永遠の)生涯が決まる、と思えばとても貴重な時間に思えます。いろんな事情で礼拝に出席できない方もあります。そんな場合「1日13分」を思い出して聖書に目を通して祈る、神様との交わりを大切になさってはいかがでしょう。しかし新年の最初に共に集い、礼拝を献げ、神様の語りかけに聞けますことを感謝します。とうことで、元旦礼拝はマタイによる福音書第7章24節〜27節から、「御言葉を土台に」と題してメッセージでした。

御言葉は聞いて行うもの

『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう』。イエス様の有名な「山上の説教」の結論分、これまた有名な「岩の上に自分の家を建てた賢い人」のたとえ話。『これらの言葉』とはイエス様の言葉、聖書の言葉、神様の言葉、御言葉です。御言葉は聞くだけではなく行うもの。テレビでも「イイ話し」「ためになる話し」「健康」など題材にしたわかりやすい番組がたくさんあります。それを見て、聞いて、良い人になれるか?賢くなれるか?健康になれるか?肝心なのは、見たり聞いたりしたことを自分もやってみる、自分に習慣づける、ということではないでしょうか?どれだけ知識があっても、難しい話ができても、人間関係がボロボロだったり、生活が無茶苦茶では「宝の持ち腐れ」なのではないでしょうか。御言葉も同じ。単に聞いておしまいなら無視しているのと同じ、忘れているのと同じ、聞いていないのと同じなのではないでしょうか。

御言葉を聞いて行うは地道

『雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである』。『岩』は岩山や岩盤を指します。私が小さな頃、このたとえ話を題材にした「コロちゃんのお家」という紙芝居がありました。コロちゃんは熊で、いろんな動物がキャラクターとして登場しました。その紙芝居で一番印象的だったのが、岩の上に家を建てることの大変さでした。コロちゃんたちは汗を流しながら、材料を運び上げ岩をうがちコツコツと建設に勤しんでいました。今時「早軽短」「早軽安」「早軽楽」が求められますが、御言葉を行うとはその逆。時間がかかる。苦労もある。地味なことが多い。でもその苦労を厭わない喜びがある。びくともしない『自分の家』を建てるため。この世界でのマイホームではありません。永遠の私、私たち教会、神の国の建設です。「急がば回れ」と言われますが、御言葉に従う地道な営みを続けるなら、見返りとしては余りある最大級の喜びを得ることになるのです。

御言葉を聞いて行うは普段の生活

『また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである』。賢い人も愚かな人も同じように嵐に遭う。しかし土台で変わってくる。私たちは『御言葉を聞いて』行っても、『御言葉を聞いて』行わなくても、私たちを取り囲む環境は差ほど変わりありません。しかし御言葉を聞いて『行う』か『行わない』で私の状態は大きく変わってくるのです。この礼拝の後、家に帰ってどうするか?学校や職場でどうするか?で変わってくる。それが伝道。「伝道しなければ!」と拳を振り上げる必要はない。あなたの何気ない、普段の一言や一挙手一投足が伝道。御言葉を行うことで、まずあなたが変えられ成長する。自ずと周りに変化が及ぶ。神の国建設が進むのです。

土台は目立たない。しかし土台こそ大事。上物がいくら派手でも土台がなければ「砂上の楼閣」。派手が悪いというよりも、実を伴わないと意味がない、ということです。御言葉に聞く礼拝を大切に、そして御言葉を行う一週間を大切にしてまいりましょう。

1月6日(日)は青年祝福礼拝。伝道の書第11章9節〜第12章4節から、「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と題してメッセージです。


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