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主を誇る者

パウロはコリント教会の問題解決のためにいくつもの手紙を記し、パウロ自身も同労者も度々コリント教会を訪ねました。コンリント教会は、「退廃的」と言われたコリントの町に生まれました。ですから自ずと町にある問題をはらんでいたと言えます。しかしそれだけなら、パウロの記した第一の手紙までで対処できたかも知れません。しかし問題やパウロとの関係がこじれました。その原因は偽教師にありました。第二の手紙の終盤、最後の問題が露わになってきました。この問題は、全時代、全地域の教会に関わる問題です。私たちもパウロの語りかけに学び、「主を誇る者」として、この問題に備えられたい。ということで、5月26日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第10章1節〜18節から「主を誇る者」と題してメッセージでした。「主を誇る者」とは、

肉ではなく主に従う人

コリント教会から『あなたがたの間にいて面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる』パウロ、という風評がパウロに聞こえてきていたようです。そして偽教師たちは『わたしたち(パウロたち)を肉に従って歩いているかのように思っている人々』だったようです。偽教師たちとパウロは面識がありません。ですからコリント教会のパウロ評を偽教師たちが聞いて、「パウロは肉に従って歩いている」と判断したのでしょう。私たちにもこんなことがないか?自分を棚に上げておいて人を批判する。自分で確かめないで風評を鵜呑みにする。拡散する。自分が正しいわけでもないのに人を批判することで自分を正しいとする。そんな独善性が。偽教師たちこそ肉に従って歩いていました。「肉の力」を振りまわしていました。しかしパウロは主に従って歩き、「神の力」を武器に戦うのです。

教会を高める主の権威を誇る人

『彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない』。これもパウロについての風評。パウロは自分の弱さについては第12章で、外見についてはガラテヤ人への手紙で触れます。また、話しが長く若者が眠り込んでしまったことや、哲学者に「このおしゃべりは何が言いたいんだ」と言われたことが使徒行伝に記されています。この風評は当たらずとも遠からず。しかしそれを言って誰得?誰が成長し高められる?「しめしめ」と思っているのは偽教師ぐらい。偽教師は風評や問題を煽って人を自分に引きつけるだけ。教会は混乱し倒れかかっていた。彼らに教会を高める知恵がない証拠。パウロは主から『権威』を賜って奉仕した。人々の高慢を引きずり降ろし主への従順に導くために。主への従順は決して人を低めません。私たちが主に従順になる時、主によって高められるのです。これが「神の力」「神の知恵」。パウロは主の『権威』に秘められた「神の力」「神の知恵」を誇ったのです。

主から割り当てられた限度を誇る人

『わたしたちは、あなたがたの所まで行けない者であるかのように、無理に手を伸ばしているのではない。』とパウロ。この言葉にもパウロへの批判が伺えます。パウロは『行けない者』ではなく、最初にコリントに赴き、教会を生み出し、1年半指導し、なお手紙を記し足を運んでいた。そしてコリント教会をヨーロッパ宣教の拠点にしたいと願っていた。コリント教会がヨーロッパに向かって成長するのです。それが主から割り当てられたパウロの『限度』(範囲)。そして誇り。主に忠実であらんとするからこその誇り。しかし偽教師がこっそり割り込んで教会の成長を止めたのです。パウロは主に救われ、主にコリントへ遣わされ、教会を生み出し、主の権威によって教会を育てようとした。主なくしてコリント教会なし。だからパウロは主のために戦う。そしてコリント教会のために主を示すのです。他の誰でもない『主を誇れ』と。

実は、偽教師のように振る舞う危険性は誰にでもあります。自分自身を筆頭に、主以外を誇り始めると、歪んだ支配構造が生まれます。家庭に、学校に、職場に、社会に、教会に、ありとあらゆる関係に。虐待、監禁、いじめ、ブラック、差別、排斥、カルト…。誇る人が頂点、それに従う人が底辺の三角形。しかし主を頂点とする時、この三角形が逆三角形になるのです。上の辺に私たちが並ぶ。主によって高められる。お互いは主に支えられた信頼関係と協力関係で結ばれる。その要は主。主に従う人は謙遜。権威を振りまわさない。他人の限度もわきまえて大切にする。主を誇る人は威張らなくても高められる。そう言う人こそ『主に推薦される人』なのです。

6月2日(日)の礼拝は、詩篇第2篇1節〜12節から、「幸い。主に聞いて従う」と題してメッセージです。

見たことのない出来事

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。イエス様の福音とは何からの勝利か?何をいただけるのか?どんな支配なのか?マルコによる福音書が少しずつ紐解きます。しかしまだ序の口。ようやく第2章に突入です。人々は『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と叫びました。どんな福音なんだ?ということで5月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章1節〜12節から、「見たことのない出来事」と題してメッセージでした。

イエス様というお方

まずはイエス様そのものが今まで見たことのない出来事です。『神の子』と表現されます。当時大人気だったバプテスマのヨハネは『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない』と告白しました。イエス様が洗礼を受けると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と天から声がありました。イエス様が安息日に汚れた霊につかれた人を解放されると、人々はイエス様を『権威ある新しい教だ』と驚きました。悪霊さえ『あなたは神の聖者です』と叫びました。『権威』『聖者』ともに神様に使われる言葉。言うこと成すこと人間をはるかに越えている。見た目は人間。中身は神様。それが今まで見たことのない存在。イエス様だったのです。

イエス様への信仰

今まで見たことのない存在であるイエス様に向かった信仰が、これまた今まで見たことのない出来事です。信仰が見える?イエス様は見ておられました。『中風の者』(脳梗塞や脳出血などによって全身不自由になった人)を『四人の者』が担架に乗せてイエス様の元へ来ました。しかしイエス様のいる家は立錐の余地がないほどの人。入れません。そこで外階段で屋根に上がり、屋根を剥いで中風の人をつりおろしました。みんなつりおろされてくるその人を見たでしょう。しかしイエス様はつりおろしている『彼らの信仰』を見られました。そこにはたくさんの人がひしめき合っていました。でもイエス様はその四人に、イエス様へ向かう信仰を見とめられたのです。

イエス様の罪のゆるし

イエス様は中風の人にいきなり『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われました。これも、いえこれが今まで見たことのない出来事です。「病よ去れ!癒されよ!」ではなかった。なんで?罪を赦す権威があるのは神だけだ!と『心の中で論じた』のは律法学者たち。イエス様は『自分の心ですぐ見ぬいて』『中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか』と切り返されます。ここでも見えない心を見ておられる。どっちがたやすい?昔は不治の病と言われたものでも、今は治療できるようになってきました。でも罪は今もってゆるすことはできない。できるのは罪が有るか無いかを判断するだけ。有る罪を無いことにはできない。ゆるす不変の根拠がない。では中風の人は犯罪を犯したから病気になったのか?ここで言う罪は「的外れ」と言われるアダム以来の罪。原罪とも言われる罪です。この罪があらゆる死と病と問題の根源。イエス様には見えていました。私たちの最優先課題がこの罪のゆるし、癒やしであることを。罪からの解放であることを。そしてイエス様なくして罪のゆるしはありえないのです。これぞ福音!では罪をゆるす根拠は?それはこれから語られていきます。

中風の人は病も癒されました。大変喜ばしいことです。人々もそれを見て『こんな事は、まだ一度も見たことがない』と神様を賛美しました。でも見るべきは他にある。私たちはとかく、目の前の見える問題を最優先課題にしがちです。しかしそれは、忘れ去っている、見えていない出来事の積み重ねによるかも知れません。氷山の一角を何とかしようとしているかも知れません。しかし本当の問題は見えない所にある。イエス様はそこを見ておられる。優しいまなざしを向け、温かな光を当て、丁寧に取り扱おうとしておられるのです。

5月26日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第10章1節〜18節から、「主を誇る者」と題してメッセージです。

待っておられる神

今日は母の日です。しかし家族の日として互いに感謝する教会もあります。家族の形が多様化しているからです。時代の流れの中で母(母性)のイメージも、父(父性)のイメージも随分様変わりしました。特に父(父性)のイメージの変わり様は激しいのではないでしょうか。それは神様のイメージともリンクしているように思えます。今日は母の日ですが、父について、神様のイメージについて見たいと思います。ということで、5月12日(日)の礼拝は、ルカによる福音書第15章11節〜32節から、「待っておられる神」と題してメッセージでした。

放蕩息子の帰りを待つ父

有名な放蕩息子のたとえ話です。父親は、田舎で大規模農業を営んでいます。弟息子は財産分与を願い出ます。普通は父が死んでから。しかし父は分けてやります。すると弟息子はさっさと荷物をまとめて遠い所へ行ってしまいます。戻るつもりはない。お金のある内は人が群がる。人脈もできたかに見える。でもいろんな人がいるし誘惑もある。お金はあっという間に底をつく。おまけに大飢饉ときた。金ない家ない食物ない助けてくれる人もいない。なんとか地元の養豚場で豚の世話ができた。当時、ユダヤ人にとって豚は避けるべき動物。その豚の糞尿にまみれ、餌さえ美味しそうに見える。食べたい。でもそれさえ許されない。悪臭モウモウの、ひからびた、死んだも同然の弟息子。我を失いかけていた彼は『本心に立ちかえって』父の元へ帰ろうと思い立ちます。どの面下げて?自分の罪(的外れ)を認め、息子ではなく雇い人として受け入れてほしい、そう言おうとヨロヨロフラフラ歩き始めた。父は毎日見晴らしのいい所で息子の帰りを持っていた。変わり果てた息子なのに遠くから認めて走り寄り、抱きとめ、接吻した。みなさんにはできますか?息子が雇い人同様にしてくれと言おうとすると、それを遮り僕に命じて『最上の着物』『指輪』『はきもの』を身につけさせた。きれいにしてからでもいいのではないか?この3つは、息子の証し、相続者の証し、権威の証し。父は息子を息子として家に迎え入れたのです。ここまでなら話半分。

真面目息子との交わりを待つ父

弟息子は家に迎えられ(もちろんきれいに洗ってもらったことでしょう)、盛大なバーベキューパーティが始まりました。そこへ畑仕事から兄が帰ってくる。楽しそうな音楽や会話が聞こえてくる。なに?弟が帰って来だと?兄は怒りに打ち震え家に入ろうとしません。それを聞きつけた父が迎えに出ます。兄は怒りをぶつけます。弟と兄は対照的。兄は真面目。父の言葉に忠実だった。でも彼は『あなたに仕え』と言った。それは奴隷として仕えるという言葉。そして弟を『あなたの子』と唾棄しました。兄は父と一緒にいながら、息子ではなく奴隷だと思っていた。ひたすら仕えて完璧であろうとし、それで息子と認められようとした。だから。財産を食い潰し、尻尾を巻いて逃げ帰ってきた弟への待遇に、ゆるしがたい怒りを覚えた。兄は遠くには行きませんでしたが、その心は父から遠く離れていました。しかし父の態度は弟にも兄にも変わらない。父の方から出迎えに来てくれた。兄の思いや行いがどうであれ、すでに弟の二倍の相続がある。牛でも羊でも自由にできた。そして父の立派な相続者。弟の立派な兄だったのです。父は兄にずっと語りかけていた。しかし耳を閉ざし、心を閉ざし、父の心を知らずにいたのは兄だったのです。父の語りかけに心を開いて、父の心の豊かさや懐の深さを知っていたなら、父と共に、余裕を持って弟の帰りを喜べたのです。

私たちには弟や兄のような両面が大なり小なりあります。「神は死んだ」と善悪も倫理もお構いなく「自由」の拳を振り上げる。はたまた「神は厳しい。聖書にこう書いてあるからその通りにしなければならない」と自分にも他人にも強制する。振り子が振れるように弟と兄を行き来する。神様という支点から遠く離れていないか?このたとえ話は神の息子イエス様が語られました。イエス様こそ父なる神様の優しさ、愛、楽しさを知っておられる。神様とイエス様は、私たちが帰るのを両手を広げて待っておられる。帰ってくるなら息子や娘、弟や妹として迎え入れて下さる。今までがどんなであろうとも。そしてきれいにして下さる。喜びの交わりを用意して下さる。私たちは教会の礼拝や交わりの中で、神様とイエス様を知る者としていただきましょう。全ての家族の原点は、この神の親子にあるのですから。

5月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章1節〜12節から、「見たことのない出来事」と題してメッセージです。

神の恵みの経済学

私たちにとって経済は重要です。個人投資の裾野が広がり、一国の経済危機があっという間に世界を駆け巡り、国家予算ほどのお金がネットで瞬時に動きます。経済規模は大規模になり、その巡り方も急激になっています。しかしそれ故にもろさやリスクも大きくなっているように見えます。さて。パウロはコリント人への第二の手紙第8章で「神の恵みの献げもの」について語りましたが、第9章では「神の恵みの経済学」とも呼べる内容を展開します。ということで、5月5日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第9章1節〜15節から、「神の恵みの経済学」と題してメッセージでした。

神の恵みが先行する

コリント教会はエルサレム教会の支援献金を始めました。それを知ったマケドニヤの諸教会も立ち上がりました。しかしコリント教会に問題発生。支援停止。しかしパウロの「涙の手紙」やテトスの訪問によってコリント教会は回復し始める。そこでテトスと諸教会の代表者2名を先発隊として派遣し、献金を準備させ、パウロとマケドニヤの諸教会を後発隊として受け取りに行く段取りを示しました。献金を催促しているように見える?5節の『贈り物』『心を込めて』は「祝福」という言葉です。心からの贈り物。それは相手を祝福するための祝福です。祝福とは神様から始まります。神様は私たちを祝福するために天地万物を創造されました。これが祝福の元手。神の恵みが大先行している。私の体だって元手です。コリント教会もパウロに小突かれて支援献金を始めたのではありません。エルサレム教会の祝福のため自ら始めました。私たちは先行する神様の恵みを分かち合う神の子たち教会です。神の恵みの経済は献げることで回り始めるのです。

神の恵みは必ず増える

6節の『豊かにまく者は、豊かに刈り取る』は「祝福をまく者は、祝福を刈り取る」と訳せます。5節に『しぶりながらではなく』は「貪欲」という言葉。「無理矢理人から奪う」「見返りを要求する」という意味があります。献げものは自発的な行為。今、相手が必要としていることへの行為であって、後の見返りを考えません。先行投資でもない。神様が天地万物を与えられたのも、人から奪うためでも、見返りを要求するためでもありません。祝福したいから、もっと豊かになってほしいから与えられたのです。私たちの献げる行為は『種まき』です。その行為は神様に『義』と見なされます。種は蒔けば蒔くほど豊かな収穫につながります。種はそのように造られている。相手がどうであれ、神様が私たちに豊かな収穫をくださいます。それをパウロは『義の実』と呼んでいます。私たちはスッカラカンになることはありません。与えてやまない神様は、献げる私たちを愛し、勘定以上のもの、想像以上のもの、お金や物では推し量れない豊かな義の実を増して下さるのです。

神の恵みは感謝となる

11節『神に感謝するに至る』12節『神に対する感謝によってますます豊かになる』15節『言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝する』。感謝の連続。15節の『感謝』は「恵み」という言葉です。恵みと感謝は表裏一体。神様からは恵み。受け取る私たちは感謝。労働の対価はある意味、恵みではないし、感謝する必要もありません。当然だから。では恵みとは?私たちに絶対必要なもの。でも私たちには造り出せないもの。私たちの努力では得られないもの。なおかつ無料(ただ)。自然の恵みがそうじゃないですか。救いの恵みがそうじゃないですか。神様を知らなくても大自然に向かって「有り難い」と手を合わせないですか?何かしら救いの本尊があると思って寺社仏閣を詣で「有り難い」と手を合わせないですか?人間的にはどうにも「有り難い」から感謝するのではないですか?その自然の恵みと明確な救いの本尊イエス様を与えて下さった神様に感謝すべきではないでしょうか。私たちの献げものは、この神様の豊かな恵みに感謝し、私たちに与えられて「有る」ものを具体的に分かち合う営みなのです。

『すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて』。口先だけではなく、実際に行動するからわかってくる、ということです。お金や物にとどまらない。私たちの労力や能力も活用するのです。神様は『すべての良いわざに富ませ』て下さいます。神様に感謝しつつ、互いにその恵みを分かち合いましょう。互いにも感謝しましょう。そこに恵みと喜びとホットな好循環が生まれるのです。

5月12日(日)の礼拝は、ルカによる福音書第15章11節〜32節から、「待っておられる神」と題してメッセージです。


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