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幸い。どんな中にも祈る

「もうダメだ。どうにもならない。おしまいだ」。絶体絶命。そんな経験をしたことがあるでしょうか。ダビデはそんな経験を幾度となく経てきました。しかし彼は絶望的な状況の中でこう告白します。『わたしはふして眠り、また目をさます』。いつものように眠れる。いつものように目をさませる。なぜか?ということで6月23日(日)の礼拝は、詩篇第3篇1節〜8節から、「幸い。どんな中にも祈る」と題してメッセージでした。

取り囲む敵はある

この詩篇の背景には息子アブサロムのクーデターがあるようです。ダビデは若かりし頃、ペリシテの巨人兵士ゴリアテを倒したことを皮切りに数々の武勲を上げますが、それがサウル王の妬みを買うことになります。サウルは執拗にダビデの命をねらい、人々はサウルへの密告者となります。それでもダビデはサウルに忠誠を尽くそうとし、逃げながらも外敵の侵入を阻止するために戦い続けます。しかしそのサウルが死にダビデが王となります。一息つくも束の間、息子アブサロムのクーデター。国一番の賢者アヒトペルも加担します。王手をかけられたも同じ。ダビデは着の身着のままわずかな家来たちとエルサレムを後にします。「もうダメだ。どうにもならない。もうおしまいだ」の連続。「お前の神様はどこにいるのだ。信じていると言うけれど、助けなどないではないか」とあざける敵。問題。困難。

もっと間近に神はある

ダビデは神様を『わたしを囲む盾』と告白します。軍人だったダビデらしい表現。刀や弓矢から身を守る一番身近な武具。盾のような神様がダビデをぐるりと囲んでいる。敵が取り囲むよりももっと身近にぴったりと。そして王冠にまさる神様の栄光をダビデの頭に輝かせもたげて下さる。そんな神様がいて下さるのだから、いつものように眠り、いつものように目をさますことができると告白するのです。アブサロムはどうなったか?アブサロムは今後どうすればよいかアヒトペルともう1人の賢者ホシャイに知恵を求めます。ホシャイはダビデの友人。そしてエルサレムに残っていました。アブサロムはホシャイの計画を採用します。アヒトペルは自分の計画以外成功はないとわかっていたので家に帰って自死します。そしてアブサロムも命を落とすこととなりました。ダビデは再びエルサレムに戻りました。

民の救いと祝福を祈る

結局敵も「もうダメだ。どうにもならない。もうおしまいだ」という状況に陥りました。あざける敵にも絶望的な状況がある。しかしダビデと敵には決定的な違いがありました。ダビデは神様に祈ったのです。共におられる神様に向いて聞いて従うか従わないか?祈るか祈らないか?その違い。ダビデはどんな状況でも祈りました。もちろんダビデは精一杯のことをしました。何もせず祈っていたのではない。祈りながらすることをした。することをしながら祈った。かつ自分の救いだけでなく、民の救いと祝福を祈った。アブサロムは民の心と国を奪おうとした(サムエル下15:6)。奪う必要などなかった。彼が正しく王にふさわしければ。しかしダビデは民の救いと祝福のために心を配った。神様はそんなダビデの祈りに応えられたのです。

偉大なダビデでさえ時代や敵に翻弄されました。祈りが欠かせませんでした。ましてや私のような者はもっと時代や問題に翻弄されるでしょう。そしてもっと祈りが欠かせません。どこにいても、どんな状態や状況になっても、神様は共におられます。だからいつものように眠り、いつものように目をさまし、いつものように祈ることができる。自分のため、隣人のために。どんな悲惨やどん底の中からも神様の救いと祝福は現れます。これこそ、何者にも翻弄されない真の幸いと言えるのではないでしょうか。

6月30日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章18節〜20節から、「天地をつなぐ祈り」と題してメッセージです。

カフェスタイル礼拝のご案内

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今年度もカフェスタイル礼拝を行います。ぜひご出席下さい。

罪人のお医者さん

お医者さんに行かれたことはあるでしょうか。一度もないという方、行くのがいやで一度もないという方、何かあればすぐ行きますという方、健康診断など病気の予防や生活習慣のチェックに活用しますという方、様々あるかと思います。イエス様は言われました。『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。なんだかイエス様がお医者さんに聞こえます。病人と罪人が重なって聞こえます。イエス様はどんなお医者さんなのか?ということで6月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章13節〜17節から、「罪人のお医者さん」と題してメッセージでした。

罪人を招かれるイエス様

収税所に取税人レビが座っていました。自分の給料を上乗せして(自由裁量)、同胞から取り立て、異邦人のローマ帝国に貢ぐ者。国賊。けがれた人。罪人。同胞からそう見なされ、好き好んで誰も近づかない。それはレビ自身が一番理解していた。彼もユダヤ人。律法も理解していた。賢くもあり、地位もあり、富もあった。でもどうしようもなかった。孤独な状況から抜け出せないでいた。そんなレビにイエス様は近づき、声をかけられた。『わたしに従ってきなさい』。そんな人は初めて。見たこともない出来事。一体何者?レビは思わずイエス様についていきました。

イエス様に従う罪人

レビは自分の家にイエス様を迎え入れて宴会を開きました。弟子たちも、イエス様の教えを聞いてついてきた人々も、そしてレビと同じ取税人や当時『罪人』と呼ばれたたくさんの人々を迎え入れました。レビの周りにはたくさんの人々があふれている。食卓を囲んで喜び楽しんでいる。今までの孤独な状況が一変している。取り立てる人から与えてもてなす人に変わっている。彼はこの時点で、取税人をやめたわけではありません。世間からすれば相変わらず罪人です。でも彼は変わった。なぜ?イエス様の招きに従い、イエス様を迎え入れたからです。

イエス様と距離を置く罪人

その様子を見たパリサイ派の律法学者が、イエス様の弟子たちに言います。『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』。彼らはイエス様の名前を決して言いません。いつも『彼は』です。パリサイ派は律法を字義通り厳守することを最優先課題にする人々。彼らは『罪人などと』自分は違うとし、距離を置き、イエス様にも近づきません。弟子ではなくイエス様が即答されます。それが『丈夫な人には医者はいらない…』でした。けがれに対してきよさ、罪に対して義。義人は罪がない。的が神様に当たっている。神様の義が内にあふれている。本物の義人なら罪人と一緒にいても問題はない。きよさがけがれを圧倒し、義が罪を圧倒するから。律法学者はなぜ罪人と距離を置いたのか?義を保つため?いえ義が彼らになかったから。彼らは自称義人。同じ罪人。本物の義人であるイエス様は彼らにも声をかけ招かれたのです。

聖書が言う罪は神様から的が外れた状態。神様に向いていない、聞いていない、従っていない状態。あらゆる死と病と問題の根本原因。原罪とも言われ、全ての人にある。イエス様に招かれていない人はいません。イエス様は人類のお医者さん。そしてあなたのお医者さん。イエス様の最優先課題はあなたの罪をゆるすこと。あなたの最深部に光を当て、メスを入れ、癒すこと。イエス様は優しいまなざしを向け、あなたの無自覚な罪ゆえの苦しみ、生きづらさを知り、深くあわれみ、触れて『わたしの心だ、きよくなれ』『子よ、あなたの罪はゆるされた』と癒したいのです。周りが何と言おうとも、レビはイエス様の招きに従い、イエス様を迎え入れたことで、罪のゆるしと癒やしが起こっていた。そして人生に変化が現れ始めていたのです。

6月23日(日)の礼拝は、詩篇第3篇1節〜8節から、「幸い。どんな中にも祈る」と題してメッセージです。

花の日礼拝がありました


6月7日(金)は天授ヶ岡幼稚園花の日礼拝。お友達が教会礼拝堂に来てくれて、練習中の讃美歌を披露してくれました。雨のためか、お花の香りが2階まで立ち上っていました。

今日は少年ダビデのお話。昔々、イスラエルとペリシテが戦っていました。ペリシテは強く、ゴリアテというとても大きな戦士がいました。「やいやい!イスラエルの弱虫ども!俺と一対一で勝負しろ!俺が負けたらお前たちの家来に、俺が勝ったらお前たちの家来になる。どうだ!」。ゴリアテはイスラエルの信じる神様も馬鹿にしました。でも、イスラエルから勝負に出る人は誰もいません。そこへお父さんのお使いで少年ダビデがやってきました。ダビデはイスラエルの兵隊に尋ねます。「どうしてイスラエルと神様を馬鹿にするあのゴリアテと戦わないのですか?僕は羊飼いで羊を襲う熊やライオンもやっつけます。神様を信じ、神様が共にいて下さるから。あのゴリアテにも負けません!」「マジか?」と兵隊は王様の所にダビデを連れてきます。「なぬ?子供?」「王様、僕は神様を信じ神様が共にいて、勝利を下さいます。ゴリアテに負けません」。「な、ならば、わしのカブト、ヨロイ、刀を身につけなさい」「王様!ブカブカ重すぎです!いつもの格好で大丈夫!」。ダビデはゴリアテの前に出て行きます。「なぬ?子供?俺は子供と遊ぶ犬か?馬鹿にしやがって!かかってこい!」。ダビデは丸いすべすべの石を5つ拾って、石投げで1つめをゴリアテに投げつけました。するとゴリアテの額に石が突き刺さってドッシーン!それをきっかけにイスラエルは大勝利。ダビデはゴリアテを倒したからといって威張りませんでした。それからイスラエルを助けるためにずっと戦い続けました。王様になりました。でも威張りません。イスラエルの幸せのために仕えました。ダビデはみんなから愛されました。

このお話しの中で誰が一番強かった?ダビデ。どうして強かった?神様を信じ、神様が共にいてくれたから。ここには小さいお友達から大きなお友達までいます。小さくても大きくてもダビデが信じた神様を信じて下さい。神様の言うことをよく聞いて下さい。小さな人、弱い人、困っている人を助けてあげて下さい。強がって威張っている人に優しくしてあげて、仲良く遊んであげて下さい。優しくすることでみんな優しくなる優しさ攻撃!

神様の愛をいっぱい受けて、たくさんの人に愛を分かち合い、たくさんの人から愛される、優しくて本当に強い、素敵な人として成長されますよう、祝福をお祈りします。

幸い。主に聞いて従う

私たちは自由が大好きです。いろんな自由を叫び、主張し、要求します。自由のためには人を傷つけ、血を流し、命を奪うこともあります。人によっては「その自由に賛成です」と言えることもあれば、「それはちょっと行き過ぎではないですか」と躊躇してしまうこともあるのではないでしょうか。しかし私たちはどんな基準でそう考えるのでしょうか。「神は存在せず、全ては偶然の産物で、強い者だけが生き残り、死んだら終わり」という価値観なら、善悪もモラルも必要なく、何でもあり、何でも自由のはず。しかし「何でも自由だ」と言うには少なからず抵抗を感じるのはなぜか?ということで、6月2日(日)の礼拝は、詩篇第2篇1節〜12節から、「幸い。主に聞いて従う」と題してメッセージでした。

自由を叫ぶ地の王たち

第1篇では「悪しき者」と「正しい者」が対比されていました。第2篇では「地の王たち」と「油そそがれた者(メシヤ)」が対比されています。前者は『むなしい事(からっぽ)をたくらむ(くちずさむ)』とあります。そして地の王たちの『立ち構え』『はかり』『主とその油そそがれた者とに逆らって』という三段階が記されます。そして『主とその油そそがれた者』がみんなの自由を奪っている、奴隷状態にしている、だからその『かせをこわし、かれらのきずな(なわ)を解き捨てる』と叫ぶのです。自由への叫びです。第1篇では正しい者は『主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う(くちずさむ)』とありました。かたや悪しき者は「もみがら」にたとえられていました。中身がない。また「悪しき者」は「罪人」に、「罪人」は「あざける者」に、という三段階が記されています。いずれも第二篇の「地の王たち」と重なります。

自由の子であるメシヤ

地の王たちの叫びに対して『天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられる』。立ち構えて自由を主張する地の王たちとは対照的。神様は彼らに対してメシヤを立てられます。メシヤとは神様に向く人々の中から神様が王とした者。油そそぐとはその任命を意味します。そのメシヤに神様は『おまえはわたしの子だ』と宣言されます。人間だけれども神の子。それは自由の子を意味します。自由を叫ばなくても自由。神様との関係は奴隷関係ではなく親子関係。自由と遺産全ての相続者。そのメシヤは『鉄のつえをもって彼ら(地の王たち)を打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕く』ために立てられました。実は自由を叫ぶ「地の王たち」こそ人々から自由を奪い、奴隷にし、搾り取り、奪い取る者。器物のように中身が空っぽ。その空洞を満たすために彼らは人から奪うのです。そんな偽物の自由を叫ぶ支配を打ち砕き、私たちを解放するのがメシヤなのです。

私たちは主(メシヤ)に聞いて従う

『それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。恐れをもって主に仕え、おののきをもってその足に口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされる』。結局神様にビクビクして仕えるなんて奴隷と同じ?ここはこう訳せます。「もろもろの王よ、悟って成功せよ。地のつかさらよ、教えられて訓練されよ。畏敬の念を持って主に仕え、驚き喜んで口づけせよ」。神様が彼らを怒られるのは、彼らが神様に向かないで、求めないで、人々から自由を奪い、奴隷にし、食い物にしているからです。第1篇の「悪しき者」が自ら滅びの道を進むように彼らも同じ道を進んでいるのです。しかし神様は彼らさえ滅んでほしくない。だからメシヤに向いて聞いて従って、本当の王とは何か、支配とは何か、自由とは何かを学ぶように呼びかけておられるのです。

ではメシヤとは誰か。ダビデをはじめ、油そそがれた王は他にもいます。しかし本命はイエス様。神の子にして人。神様はイエス様に対して『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』と宣言されました。イエス様は常に神様に向いて求められました。そして人々を癒し、解放し、教えられました。イエス様は十字架の死と復活を持って、罪と死を打ち砕く救いを用意されました。このイエス様に私たちの自由(自らのわけ)がある。だからイエス様から外れる自由に私たちは違和感を覚えるのです。このイエス様を私のメシヤとして迎え入れる時、私も神の子とされ、永遠の命が与えられ、復活の体と新しい天地までいただける。罪と死からの解放と大いなる相続をイエス様と共にいただける。従うとは隷属を意味しません。みんな好きな人や憧れの人に積極的に喜んで聞いて従っているはずです。私たちはイエス様に向いて聞いて従って自由を学び、あらゆる営みに自由を取り戻していくのです。そこに本当の喜びや楽しみもある。「主のおきてを喜ぶ者」「主に寄り頼む者」は幸いなのです。

6月9日(日)はペンテコステ礼拝。ガラテヤ人への手紙第5章16節〜24節から、「御霊の実」と題してメッセージです。


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