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幸い。小さくなるほど見えてくる

私は野山を駆けまわり、散策するのが大好きです。小さな花から雄大な景色に至るまで、その美しさと生命の息吹に感動を覚えます。自然の中に身を置くと、自分の小ささを思い知らされます。しかしその小ささは決して悪いものではない。自然の大小の営みを味わうにはジャストサイズ。ダビデもそう感じていました。ダビデは若い頃から羊を飼い、自然の中で時を過ごし、星空を眺め、その感動を詠んだ。それが今日の詩篇。ということで、10月27日(日)の礼拝は、詩篇第8篇1節〜9節から、「幸い。小さくなるほど見えてくる」と題してメッセージでした。

幼子による平和 1-2節

『主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう』。神様は私たちを「神のかたち」として創造されました。私たちの務めは神様の命と支配と愛を地に満たすこと。それは言い換えるなら神様の「名の尊さ」を地にあまねく広げることです。しかも『みどりごと、ちのみごとの口によって…(平和の)とりでを設ける』のです。私は子どもに関わる仕事をしていました。乳幼児の意識は常に外に向いています。周りをよく観察し、大人顔負けのホスピタリティを見せてくれることがあります。非常に冴え渡っていて賢い!と感動を覚えます。2節にそんな幼子とは対照的な『敵』『恨みを晴らす者』『あだ』が出てきます。私たちは、いつの間にかそのような者になって、自分優先の、争いの絶えない世の中を造り続けてきたのではないか?神様の名を否定し、その尊さを踏みにじってきたのではないか?しかし神様の名の尊さも平和のとりでも『みどりごと、ちのみごとの口によって』広がるのです。では幼子に任せっぱなしで良いのか?

弱さによる支配 3-8節

『人』(エノス、弱い)という言葉が出てきます。アダムの子カインとその子孫は人間の名を上げて、町を造り、文明を築きました。しかしアダムのもう1人の子セツとその子孫は主の名を呼び求めました。そのセツの子がエノス。幼子はいくら冴え渡る賢さがあっても家族や大人の助けなしには生きられない。それと同じように、私たちはいくら大人になっても、私たちの造り主である神様抜きには生きられない。私たちは自分の小ささ・弱さ・低さを認め、神様に従う必要がある。『少しく人を神より低く造って、栄えと誉れをこうむらせ』とあります。私たちは神そのものではありません。あくまで「神のかたち」。そういう意味で神様より小さく弱く低い。しかし『少しく』。神様の『栄えと誉れ』(冴え渡る賢さ)は同じように与えられている。それを何のために用いるか。生きとし生けるものを治めるため。「キリスト教的西洋文明」という言葉を耳にします。上から目線な支配者のイメージがあります。しかし聖書が語る支配は?神様が人間に最初に託された仕事は土を「耕す」こと。それは「仕える」と同じ言葉。私たちは自然に仕えることで治める。そこに奢りの入る余地はありません。幼子も土遊び大好き。そしてお手伝い大好き。老若男女問わず、私たちは自分の小ささ・弱さ・低さを自覚し、口で神様の名の尊さを証しすると共に、仕え合うことで神様の名の尊さを証しするのです。

キリストによる回復 ヘブル人への手紙2章6-8節

詩篇第8篇は新約聖書に引用されています。『人』が『彼』になっています。それは模範的な「神のかたち」であり真の支配者がイエス・キリストであることを示すため。神の子イエス様は神そのものであったのに、人間の幼子として生まれ、小ささ・弱さ・低さを経験され、人に仕え、『敵』『恨みを晴らす者』『あだ』となった私たち人間に十字架で殺され、三日目によみがえり、天に戻り、万物の支配を完全回復するその時を待っておられます。それが再臨。私たちが幼子による平和と弱さによる支配を回復するためには、そして「神のかたち」を回復するためにはこのイエス様の救いが必要です。そして救いに与ったなら、「神のかたち」の回復のみならず「神の子」ともされる!神そのものになるのではありません。人間でありながらイエス様と同じ立場が与えられ、イエス様と同じ「栄光と誉れ」をいただくのです。第8篇1節と9節は同じ言葉です。しかし今見て来たように、その意味合いは増し加わっている。はじめ私たちは神様の名の尊さを広げる務めを託された。しかし今やイエス様の名の尊さを広げる務めが託されているのです。

神様はイエス様を通して、私たち人間も自然界も万物も神様の祝福に回復しようとしておられます。私たちの「神のかたち」を回復させ、「神の子」としてもっと祝福しようとしておられます。なんと幸いなことでしょうか。なんと壮大な恵みでしょうか。それは、私たちが小ささ・弱さ・低さを自覚するほどに現れてくるのです。

11月3日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章1節〜5節から、「自由の福音の手紙」と題してメッセージです。

同じ礼拝なのに

礼拝堂では毎週日曜日、礼拝があります。どんな思いで礼拝に集っておられますか。どんな思いで賛美し、交読を読み、祈りを献げ、使徒信条を告白し、聖書朗読や説教に聴き、献金をし、交わりをしているか。そしてどんな思いでそれぞれの生活に帰っているか。「今日は恵まれたわ〜」とウキウキ帰るか。「今日はいまいちやった〜」とションボリ帰るか。「お金と時間をかけてきたのになんじゃこりゃ」と腹立たしく帰るか。一体礼拝って何?と考えさせられるのが本日の箇所。10月20日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章1節〜6節から、「同じ礼拝なのに」と題してメッセージでした。

安息を奪う人ではなく 1-2節、6節

『イエスがまた会堂に入られると』。これより前に、第1章に会堂での礼拝シーンが記されます。第1章の礼拝では『ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて』イエス様はその人をけがれた霊から解放されました。『ちょうどその時』たまたま。人々はイエス様の教えとわざによい意味で驚嘆し、「この人スゲー!」と、周りに伝えました。そして第3章の礼拝。『そこに片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って…いやされるかどうかをうかがっていた』。『うかがって』とは「悪意をもって見ていた」という言葉。たまたまではなく意図的。イエス様はその人を癒されます。それを見届けて出て行く人あり。パリサイ人です。律法学者、民の教師、指導者。その中でも律法に厳格な人々。ユダヤ人の王を求め、ユダヤ人の自主独立を願っている人々。彼らは『すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた』。ヘロデ党はユダヤ人ではない現在の王ヘロデを支持する政治団体。パリサイ人とヘロデ党は相容れないはず。共通の敵ができて仲良くなった?第1章の礼拝にも第3章の礼拝にもイエス様がおられ、人が解放され、癒された。同じ礼拝なのに。人々の反応はこうも違う。パリサイ人は人が癒されたことを全く喜ばない。逆にけしからんと思っている。これを口実にイエス様の命を奪う相談まで始めた。外面は礼拝や安息日を厳守していたパリサイ人。しかし内面に安息はあったか?人に安息を分かち合っていたか?いいえ。安息日の主の命を奪おうとしていたのです。

安息を与える人に 3-5節

『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか』。イエス様が片手のなえた人を癒やそうとされる時、彼らに質問されました。しかし彼らはだんまりを決め込んだ。よくわかっていたのに。善を行い、命を救うことが大事だと。しかしそれを認めるとイエス様の行動も認めることになる。それは律法に矛盾する。答えられない。沈黙。しかし彼らの心はこれだけにおさまらないでしょう。「しのごの言わずに早くそいつを癒せ」。イエス様の命を奪う理由がただ欲しかった。だから『うかがっていた』。感動の礼拝、殺意あふれる礼拝。同じイエス様がいるのに。こうも違う。しかしイエス様は変わらない。イエス様は安息日の主。どんなに大人数の礼拝でも少人数の礼拝でも、時代や国や文化が違う礼拝でも、どんな思いで人々が集まっていようとも、イエス様は変わらずおられます。私たちに安息を賜い、善を行い命を救うために私たちを派遣されます。私たちはイエス様と家族なのですから。客ではない。献金という料金を払って講演を聞いて「面白かった」「つまらなかった」と帰って行くようなものじゃない。礼拝は神の家族が帰ってくる場であり、神の家族の日常はここから始まるのです。そして私たちは礼拝を「献げる(持ち寄る)」のです。礼拝は自発的、能動的でもある。神様の声に耳を傾け、イエス様の姿を思い巡らし、互いの賛美、祈り、献金、持てるものを神様の前に持ち寄り、献げ、分かち合う。そういう営みの中に、「神のかたち」「神の子」としての安息と養い、善を行い命を救う新たな生活のスタートがあるのです。

私たちは同じ礼拝に集っています。毎週変わらず礼拝を献げています。あなたは何を感じ、考え、受け取り、持ち帰り、分かち合うことができますか。

10月27日(日)の礼拝は、詩篇第8篇1節〜9節から、「幸い。小さくなるほど見えてくる」と題してメッセージです。

幸い。神にさばきを求める祈り

人から根も葉もないことを言われ、批難され、罪を着せられると大変な苦痛や怒りを感じます。根も葉もないことだと明らかになっても、それで全て解決し、相手と仲良くなれるかというとそうとも限りません。言う方、言われる方、双方、後々になっても、気持ちの良いものではないのではないでしょうか。これが国のリーダーならどうでしょう。何を言っても、何をやっても、批難されることがあります。誹謗中傷があります。足もとを掬おうと狙う者もあります。ダビデもそんな状況にありました。ということで、10月13日(日)の礼拝は、詩篇第7篇1節〜17節から、「幸い。神にさばきを求める祈り」と題してメッセージでした。

私を攻撃する存在はある 見出し・1-2節

この歌が詠まれたきっかけは『ベニヤミンびとクシ』という人物にあるようです。この人物は聖書の中でここにだけ登場しますが、ダビデを攻撃(口撃)する存在だったようです。ダビデは自分が王になりたくてなったのではありません。神様がそう望まれ、召され、王になったのです。でもそんなダビデを攻撃する人があった。ダビデはすぐさま弁明し、にらみ返し、反撃に出たかというとそうではありません。神様に訴えた。「神様!あなたが勝利して私を解放し、私から奪われたものを取り返して下さい!」と。今の世の中は訴訟社会。自分の権利を守るために必要です。しかし、自分だけ有利であればそれで良い、となっていないか。また見えない所から、自分とは全く関係ない人を攻撃するネット社会になっていないか。そんな攻撃する人ばかりに心を奪われると、自分の立ち位置を見失ってしまう。まずはもとい。神様に訴える。寄り頼む。それはダビデも私も変わらないのです。

義なるさばきびと神様がおられる 6、11節

ダビデは潔い人。クシが口撃するように自分に非があるかも知れない。であれば敵に捕まっても、踏みにじられても構わないと告白します。しかし実際は、批難されたようなことはなかったようです。だからといってすぐさまにらみ返し、怒りの反撃に出たかというとそうではありません。神様に訴えた。「神様の怒りをもって、敵の憤りに立ち上がり、正しくさばいて下さい!」と。神様はいつも怒っておられるわけではないし、逆にいつもヘラヘラ笑って何でも赦しておられるわけでもない。神様は日ごとに、不当なことで苦しみ、悲しみ、怒る人に共感される『義なるさばきびと』です。人間は感情の生き物であると共に理性の生き物です。感情も理性も神様が与えて下さったもの。私たち人間のさばき(ものごとの判断)は、この感情と理性のバランスの中でなされます。しかし時として強すぎる感情が判断を狂わせることがある。強すぎる理性が共感させなくしてしまうこともある。だからもとい。神様に感情をぶつけ、さばきを訴える。それはダビデも私も変わらないのです。

私は心と思いを神様に向ける 8-10節

ダビデは「相手をさばいて下さい!」と訴える前に、いえいつも、神様の前にも人の前にもオープンであろうと努める人でした。自分が正しい時は正しい、悪い時は悪い、うれしい時は嬉しい、腹が立つ時は腹が立つと素直に自分を現す人。裏表なく全部見える人。間違いや問題があれば隠さず、開き直らず、素直に認め、軌道修正する人。それが『心の直き者』。昔も今も『心の直き者』が求められているのではないか。見栄えのする立場や立派な人格よりも、神様の前にも人の前にも『心の直き者』。ダビデは神様にさばきを求めると共に、悪しき者は自ら掘った穴に落ちていくとも記します。神様と人の前に、自分の間違いや問題を隠して人を攻撃しているなら、その隠し持っているものがその人自身を毒するのです。他人を貶めるために穴を掘ったり道を曲げるなら、自分が軌道修正しない限り、自分がその道を歩むことになるのです。だからもとい。私たちは、『心(理性)と思い(感情)とを調べられ』る神様に『直き者』であり続ける。それはダビデも私も変わらないのです。

さばきは私たちの権利を守るために必要です。そのためにさばきびとが健全でなければなりません。訴える側も訴えられる側もその心と思いをオープンにしなければなりません。でなければさばきを曲げることになります。しかし人間のさばきは時として曲がることがあります。しかし神様のさばきはどこからどう見ても明らかで鮮やか。曲がることはありません。神様のさばきを受けられることは幸いなことなのではないでしょうか。

10月20日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章1節〜6節から、「同じ礼拝なのに」と題してメッセージです。

幸い。極限でも交われる祈り

御利益。何かいいことをすれば、真面目に正直に生きていれば御利益がある。これだけ献金すれば、修行すれば御利益がある。この教祖様、あの神様を信じれば御利益がある。反対に何か悪いことをすれば悪いことがある。罰が当たる。当然の報いを受ける。献金しないから、修行しないからだ。この教祖様、あの神様を信じなかったからだ…そんなふうに考えたりしません?クリスチャンもそんな考えが支配的になりません?神様を信じるとは、そんな損得勘定や恐怖心からするものか?ということで、10月6日(日)の礼拝は、詩篇第6篇1節〜10節から、「幸い。極限でも交われる祈り」と題してメッセージでした。

そこに極限状態がある 1-3節

この詩篇は伝統的に「悔い改めの詩篇」と言われます。ダビデは若い頃から神様を信じる人。そして王様にまでなった。しかしいいことずくめではありません。彼自身に弱さや問題があり、様々な問題がいくつも降りかかり、その立場や権威を私欲のために使う誘惑もありました。ダビデはここで『わたしは弱り果てています』『わたしの骨は悩み苦しんでいます』『わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます』と激しい苦痛を訴えます。体も骨(心の詩的表現とも)も魂も貫く苦しみ・病です。それはダビデが何らかの罪を犯したゆえの神様からの罰なのか?古今東西、あまたの天災、人災、悲惨があります。そこにはクリスチャンもいれば教会もある。神罰か?神は見放したのか?と思える極限状態。自分に問題があったのか?他の誰かに問題があったのか?何が原因だったのか?自分を責め、他人をさばき、神様に文句を言いたくなる。ダビデもまさにそんな極限状態。しかし彼はいい子ぶることなく、その引きちぎられるような思いや感情を、混乱した自分の心を、包み隠さず、赤裸々に、他の誰でもない、神様にぶつけたのです。

そこに涙がある 4-7節

この詩篇は「悔い改めの詩篇」か?ダビデのことです。罪があればはっきり悔い改めるはず。理由が分からないからこそ悩み苦しむ。『懲らしめないでください』『あわれんでください』『いやしてください』『命をお救いください』『助けてください』と手当たり次第に訴える。ダビデが最も恐れたのは『死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか』です。神様が恐ろしいのではなく、神様との交わりを断たれることを恐れた。ダビデは涙の誇張表現でそれを訴えます。泣くとストレスホルモンが軽減され、副交感神経が刺激され、痛みが和らぎ、免疫力が上がり、リラックスする。しかも相手に共感する涙こそ効果がある。これも神様の創造のわざ。神様は私たちを問題の何もない温室で育てるのではなく、痛みや悲しみを感じること、極限状態の中で悩み苦しむことも許しておられるようです。それは誰かのために共感できるようになるため。神様は、災いの外にいて「それは天罰だ」「祈らないからだ」「信仰が足りないからだ」と、災いの中にある人に対して傲慢になる人ではなく、災いの中にある人に共感し、共に問題に向き合う人になってほしいと願っておられるのです。

そこに交わりがある 8-10節

雰囲気ががらりと変わります。確信に満ちています。ダビデは涙を流して訴える中で、落ち着き、心が整理され、何が問題か見えてきました。『すべて悪を行う者』『わたしの敵』です。彼は神様に任命された王でしたが、それを良く思わない人々のデマや揚げ足取りやクーデターなど、様々なストレスにさらされていた。そういうことに体も心も魂も振りまわされ、神様が遠くに行ったか、いなくなったかのように感じていた。しかし。彼がどう思い、どう感じようと、神様はいつも変わりなく側にいて、向き合って下さっていた。ダビデはそのことに気付いた!私たちの涙・鼻水・よだれの伴うようなグダグダや悩みにも、共に向き合ってくれる相手があれば心強い。そういう相手に向かって心を開き語り合う時、事の真相が見えてくる。進むべき一歩が見えてくる。立ち上がる力が湧いてくる。そんな相手としての原点・始点・源が神様。私たちにとって最も大事なのは、この神様との交わり、この神様との交わりを知った者同士の交わりなのではないでしょうか。

神様は私たちを愛しているからトコトン向き合っておられるのです。御利益や恐怖心でつながったり切れたりする関係ではありません。私たちはどんな中にあっても、いつもこの神様の交わりに帰り、根ざし、分かち合うのです。これほど心強い交わり、これほど幸いな交わりはないのです。

10月13日(日)の礼拝は、詩篇第7篇1節〜15節から、「幸い。神にさばきを求める祈り」と題してメッセージです。

きよめのプロセスと目的

天授ヶ岡教会が所属する日本イエス・キリスト教団は「きよめ」を大切にします。あちこちで「聖会」が開かれますが、テーマの多くも「きよめ」。10月には京都聖会が開かれますがやっぱり「きよめ」。そして長らく『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え』(ローマ12:11)という言葉が掲げられてきました。私たちが『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕える』ための「きよめ」のプロセスとその目的を知りたい。ということで、9月29日(日)の礼拝は、ローマ人への手紙第12章1節〜5節から、「きよめのプロセスとその目的」と題してメッセージでした。

体を献げる 1節

まずは私たちの体を神様に献げること。パウロは『そういうわけで』と切り出します。何がそういうわけか?それは第1章から第11章にかけて記してきた、恵みと命と力にあふれた、豊かで壮大で全時代を貫くイエス様の救い。パウロは、その救いに与った私たちに『あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい』とお願いするのです。『ささげる』とは「側に置く」という言葉。小さな子どもが父の膝の上で、父にいろいろと教えてもらうイメージ。父の子として生まれたなら、子自ら父の膝の上で父の子らしく成長する。イエス様の救いに与り神の子として生まれるなら、神様の側に自分を置いて動かない。取り下げない。それが「献身」。牧師になることだけを言うのではないし、それが「直接献身」なのでもない。直接も間接もない。神の子として生まれた者全てが自発的にすべき、当然で自然なこと。そこから神の子らしくなっていく「きよめ」が始まるのです。

心を新たにする 2節

次に『心を新たにすることによって、造りかえられ』なさい。体の次は心。ここでは「御霊によって変えられなさい」とは言わず、「自分が心を新たにすることによって、自分を変えることによって、変えられなさい」。私は鬱になって長い間リハビリしました。その最初にしたのは自分の心の歪みを知ること。私を育てた人間関係、時代背景、社会的立場によって身につけた心の歪みや色眼鏡がある。それによって物事の見方・感じ方・行動も歪んでくる。そしてその歪みの修整方法も学びました。いずれも教えられなければわからなかった。そして歪みの修正は、自分が実際にやってみなければ、実感することはできなかった。『造りかえられ』とは「中身が変わる」という言葉。さらに継続も意味します。罪人から神の子へと立場が変わるだけではなく、中身も神の子らしく変えられ続ける。体の変化は知れています。心の変化は実に大きい。難しい?私たちは生まれた時から『この世』の物事の見方・感じ方・行動を教えられ、自ら苦もなく率先して体験を積み重ね、『この世と妥協した』自分を造り上げてきた。神の子とされたなら、神様の物事の見方・感じ方・行動を教えられ、自らそれを行い、形造り、神の子らしく変えられ続けるのです。そうやって「きよめ」は自分のものになっていくのです。

キリストの体を営む 3節-5節

これが最後にして目的。きよめは個人にとどまらない。「孤高のきよい人」になるのではないし、似たり寄ったりの人を増殖させるのでもありません。イエス様の救いは、私たちの歪みを転じて、豊かな個性や賜物にするのです。歪みは罪ではないし責めるべきものでもない。歪みを知ることは誰にもマイナスにならない。自分の個性・能力・働きの再発見のチャンス。今ある持ち場・立場・責任の範囲や限界を捉え直すチャンス。出過ぎることも引っ込み過ぎることもなくなり、自分にあるものを引き出し、自分の分を果たせるようになる。互いの間がゴリゴリギスギスすることなく、ピタッと結び合い、組み合わされていく。『わたしたちの数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである』。互いの営みが、教会全体として、イエス様の大きくて多様で豊かな働きを現すようになるのです。その具体例が6節以降に記されるのです。

1節では私の体を献げ、2節では私の心を変え続け、3節以降、互いの心と心は結び合い、私たち全体でキリストの体となり、多種多様な働きを世に現す。それが『霊的な礼拝』。日曜日の礼拝は私の体を献げ、教えられる更新の時。始まりに過ぎない。献げた体をキリストの体として用いる一週間へ続く。それは目に見えない何かではなく、私たち教会の、目に見える、日常の具体的な営みを言うのです。そのために『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え』てまいりましょう。

10月6日(日)は、詩篇第6篇1節〜10節から、「幸い。極限でも交われる祈り」と題してメッセージです。


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