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自由の福音の威力

人間の歴史は自由を獲得する歴史でもあります。しかし自由を獲得した!と拳を振り上げるほど、自由を失ってはいないか?自由のはずが無秩序になって、秩序を取り戻すために抑圧的な支配が息を吹き返すようなことはないか。自由すぎて何をどうしていいか分からず、依存的な問題にのめり込むことはないか。自由がいつの間にか無秩序になり、手に負えなくなり、秩序をもたらすためにまた自由を失う。秩序、無秩序、秩序、無秩序…振り子が振れるだけで、いずれにしても自由ではないのではないか。パウロはかつて、自由とはほど遠い人でした。今日はその証しに耳を傾けたい。ということで、11月24日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章11節〜23節から、「自由の福音の威力」と題してメッセージでした。

神の教会を滅ぼそうとしたパウロ 13-14節

ここには『わたし』という言葉がたくさん出てきます。俺の民族最高!俺の民族宗教最高!俺の受けた教育最高!俺の先祖たちの伝統文化最高!誰よりも俺熱心!精進している!教会?クリスチャン?同じ聖書を使って違うことを言ってる連中?そんな奴らはゆるしておけない。撲滅するのが俺の使命!ある意味、秩序の権化のようなパウロ。宗教を、法律を、社会を、自分の誇りやアイデンティティを守るため、他人を排斥し、苦しめ、殺して構わない。どこかの過激な人たちと変わらない?しかしパウロは「それが正しい!聖書に忠実だ!神様のために良いことをしている!」と心底思っていたのです。しかしパウロが滅ぼそうとしていた教会が、実は『神の教会』だと知らなかった。自分が神様に敵対していると知らなかったのです。ここに、二千年の歴史の中で、教会も抱える問題の一端が伺えます。教会にもこの問題が巧妙に入り込んでいる。それは、私たちが身を置く世界や国、社会や地域、そして家族や自分自身が抱える(培ってきた)無自覚な問題でもあるからです。「俺たち最高!」と言ってどれほど他を傷つけてきたことか。パウロもこの考え方にガチガチになっていた。カチンコチンになっていた。しかし圧倒的な福音の威力に打ち砕かれるのです。

自由の福音を伝えるパウロに 11-12節

パウロは、十二使徒のように地上におられた頃のイエス様とは面識がありません。彼は『神の教会』を撲滅するダマスコへの旅の途中、復活のイエス様の天からの呼びかけで方向転換します。『キリストの福音』を伝え『神の教会』を生み出す働きに転じたのです。180度変わったのですから劇的と言えます。しかし大事なのはその後です。彼が元々属していたコミュニティから命狙われる身となり、新しい『神の教会』からも不審がられます。パウロはしばらくアラビヤに退きます。再びダマスコに戻り3年、バルナバというクリスチャンリーダーに見出され、使徒たちに紹介されます。しかしまたも以前のコミュニティから殺されそうになり、郷里のシリヤ・キリキヤに逃れます。どれほど経ったかは定かでありません。再びバルナバに見出され、異邦人宣教の新拠点になっていたアンテオケ教会で奉仕するようになりました。方向転換してからの自己変革には時間がかかります。『御子をわたしの内に啓示して下さった』『イエス・キリストの啓示によった』。パウロは退く中で、神様の言葉である聖書が本当は何を言っているのか、イエス様から直接、純粋に、徹底的に教えられ、ものの見方、考え方、行動が変えられていったのです。

『ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが』。『み恵みをもって』は『優しく』『喜んで』という言葉。母親のような神様。『神の教会』を撲滅しようとした敵対者パウロ。しかしそのパウロは元々神様の愛によって生み出された存在。その愛は彼がどんなであっても(どんなになっても)変わらない。彼はこの神様の愛(キリストの福音)によって砕かれ、柔らかにされ、我を回復し、自由を得たのです。私たちも同じ。パウロを変えた自由の福音は全ての人を変える威力があるのです。

12月1日(日)は待降節第1週礼拝。マタイによる福音書第24章1節〜31節から、「繰り返しの中で近づく再臨」と題してメッセージです。

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ゴスペルだより06ができました

福音の口コミ力

最近は動画も撮れるスマホが普及し、お金をかけないでもいつでもどこからでも、即座にインターネットにアップでき、世界中にあっという間に拡散します。驚異のデジタル口コミ力と言えます。イエス様が地上を歩まれた時代はアナログ時代。しかしアナログ時代であっても、デジタルはなくとも、口コミ力は強力でした。ということで、11月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章7節〜12節から、「福音の口コミ力」と題してメッセージでした。

拡大するイエス様のうわさ

当時、情報の伝達は口コミでした。口から口へと伝えられ広がりました。マルコによる福音書第1章にはこうありました。『こうしてイエスのうわさは、たちまちガリラヤの全地方、いたる所にひろまった』『イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう」…そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教を宣べ伝え、また悪霊を追い出された』。はじめはガリラヤだけ。噂が広がった後、イエス様の実際の活動も広がった。そして第3章。『それから、イエスは弟子たちと共に海べに退かれたが、ガリラヤからきたおびただしい群衆がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、更にヨルダンの向こうから、ツロ、シドンのあたりからも、おびただしい群衆が、そのなさっていることを聞いて、みもとにきた』。聖書の後ろには地図が載っています。今記されていた地名を地図で見て下さい。第1章から第3章に至る間に、ガリラヤから東西南北の広大な地域に、イエス様のうわさが広がっていたことが分かるはずです。

イエス様がお一人であるという限界

噂が広がると、イエス様の働きも広がります。しかしイエス様の働きにも限界はあります。「イエス様に限界はない!」と言われる方があるかも知れません。確かに何でもできないことはありません。天地創造から今日に至るまでその通り!しかしイエス様が私たちと同じボディをまとっておられた約30年間は、物理的な制約がありました。ガリラヤにいればユダヤにはおれない。1人の人の病気に触れておられる間は、他の人は待たねばなりませんでした。『イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである』。イエス様お一人での働きは限界にも思えます。これ以上どうすんの?と言いたくなりますが、その解決策は次に記されます。それは次回に譲るとして、今回は口コミ力、あなたの口コミ力、私たち教会の口コミ力を考えたいのです。

私たちの口コミ力

口コミ力は身近な人であるほど影響力があります。信頼関係が深いほど強くなります。あなたにとって一番身近な人は誰ですか?大好きですか?尊敬していますか?その存在を喜んでいますか?話したいと思いますか?話を聞きたいと思いますか?その人と時を過ごすことが楽しみですか?一番身近な人に、あなたの信仰や教会のこと、聖書やイエス様のことを聞かれたら何と答えますか?もし茶化されたり攻撃されたらどうしますか?一番身近な人に、あなたの本当の姿は現れます。無意識のうちに。「先生がその人に話してくれるといいのに」と言われることがあります。私がいれば私なりに話しますが、私は特効薬ではありません。しかしあなたは?その人と長年かけてどんなコミュニケーションを積み上げてこられたのか?今更変えようがない?いえ。変えられます。イエス様を信じて神の子に変えられた。だから変われる。あなたのコミュニケーションを変えられるのはあなたです。小さな一言から始めればいい。一手間(行動)を加えればいい。真摯に向き合う中で、興味や関心や疑問を素直に分かち合えるようになる。あなたらしく、信仰や教会のこと、聖書やイエス様のことを話せるようになります。福音は、一人一人の、一番身近な人との大切なコミュニケーションの中で、「伝わっていく」ものなのです。

11月24日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章11節〜23節から、「自由の福音の威力」と題してメッセージです。

偽りの福音への「しこう」

「しこう」には「指向」「嗜好」「信仰」をあてはめます。最後は「ん」が入りますがご容赦下さい。これらの言葉は、「もの」や「人」に対する関係の深まりを表します。最初はその「もの」や「人」に向く。目に入り、関心が生まれる。指向です。触れて、馴染んで、好きになる。嗜好です。そして切っても切れない深い関係になっていく。信仰(信頼)です。それは良い方向に進んでいく場合もありますし、悪い方向に進んでいく場合もあります。私たちが自由と言う時、「自分の好きに何でもやりたい」という意味合いが多分にないでしょうか。自分が指向する嗜好にどんどんはまっていく。ガラテヤ教会にも、そんな自由を持ち込もうとする人々がいたようです。ということで、11月10日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章6節〜10節から、「偽りの福音への『しこう』」と題してメッセージでした。

偽りの福音への指向 6節

パウロや!どうしたんや!と、ピンポンも押さずに、いきなり玄関に飛び込んでくるような勢いで、手紙を書き始めたパウロ。その勢いは止まりません。『不思議でならない』と驚きを隠しません。その動揺と驚きのわけが記されます。『わたしたちの父なる神』が、「さあ、こっちへおいで。ここにいれば自由だよ。平和だよ。救いだよ」と、『キリストの恵みの内』であるイエス様の十字架の救いに招き入れて下さいました。その神様の懐から、イエス様の救いから急激に離れ、『違った福音』に移っている!なんで?どうして?わけわからん!『違った福音』とは?詳細は後にわかりますが、昔なじみのものの見方・考え方・行動です。別に新しいことではありません。新しいのは自由の福音の方です。新しいからまだよくわからない。だからどれだけ不自由だろうと、昔なじみの方に振り向き、惹かれ、戻ろうとした、ということのようなのです。

偽りの福音への嗜好 7節

ここに『ある種の人々』登場です。『違った福音』は『福音というべきものでは』ありません。偽りの福音です。『キリストの恵みの内』こそ自由の福音。ここでは『キリストの福音』と記します。私たちは高みを目指すより低きに流れる方を好む傾向がないでしょうか。「法律は守るよりも破るためにある」なんて言う人もいます。「悪口」「誘惑」「悪友」という言葉はよく使われますが、その反対語はあるのか?使うのか?フェイクニュースの方が拡散が早く、信じられやすいとも言われます。それと同じように『キリストの福音』よりも偽りの福音を好みやすいのではないか?ガラテヤ教会の人々は元々、聖書も父なる神様も知らない異邦人。罪を罪とも思わず、悪を悪とも感じずに生きてきたところもある。しかし自由の福音に与り、罪や悪が多少なりともわかった。ですから以前と同じ罪や悪に誘っても応じません。『ある種の人々』はそんなあからさまなことはしなかった。ガラテヤ教会の人々にもなじみのある、ものの見方・考え方・行動によって、偽りの福音を忍び込ませようとしたのです。

偽りの福音への信仰 8-9節

『福音に反することを宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである』と2度もパウロは記します。結構強烈。容赦なし。これからも結構強烈な言い回しが出てきます。それほどまでに根深い問題がある。ここに『天からの御使であろうと…のろわるべきである』とあります。創世記の「へび」(元御使)を思い浮かべずにはおれません。へびは神様とは全く反対のことを言ってアダムとエバを振り向かせました。指向です。食べてはならぬ善悪を知る木の実が食べるに好ましいものに見えるようになった。嗜好です。そして2人は食べた。へびに従う信仰です。その結果は?神様の祝福を失い呪いの状態に陥った。へびは全てを失わせたのです。そんな輩こそ呪われるべきだ!世界が始まって以来、人類を苦しめ続けてきた偽りの福音とそれを語る者への、パウロの激しい怒りがあふれている。せっかく苦しみから解放された人々(教会)が再び苦しみに舞い戻っていく事への悲しみと無念さがあふれているのです。

『今わたしは、人に喜ばれようと(認められようと)しているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし今なお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい』。「あの人に愛されたい!認めてもらいたい!」という心理につけ込んで人を隷属させる人々は古今東西たくさんいます。しかしそういう人々は無意識・無自覚でつけ込んでいる場合も少なくありません。最近パワハラ問題が世間を賑わせていますが、これも多くの場合、無意識・無自覚です。なぜならそういう人々は、そんな社会や時代に育ってきたからです。それが当たり前の、なじみ深い、ものの見方・考え方・行動だからです。この問題は世間に限りません。牧師でさえ気付きにくい問題なのです。どれだけ根の深い問題か。パウロはこの手紙で光を当てるのです。『キリストの僕』なんて、結局自由なんてないではないかと思われますか?今までは『悪の世(時代)』の僕だった。そこには自由がない。これからは『キリストの僕』。そこに自由がある。指向するものが変われば、がらりと変わるのです。

11月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章7節〜12節から、「福音の口コミ力」と題してメッセージです。

自由の福音の手紙

私たちは自由が大好き。人間の歴史は「○○からの解放」(○○の中にはいろいろな言葉が入ると思います)や「自由を勝ち取る戦い」の連続。しかし私たちは自由になっているか。平和になっているか。自由を主張すればするほど誰かを傷つけていないか。自由を守る法律ができれば、その法律を破り自由を奪う犯罪が生まれていないか。犯罪の増加で監視カメラも増加し、社会全体が生き苦しくなっていないか。はたまた自由を求め革命を起こしたのに独裁国家になっていないか。自由を求め自由になったはずなのに、自由じゃなくなっている。実はそんな歴史を繰り返していないか。クリスチャンはどうか?自由とは何かを知っているのか?パウロはガラテヤ人への手紙で、このことに光を当てています。ということで、11月3日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章1節〜5節から、「自由の福音の手紙」と題してメッセージでした。

自由の福音の使徒 1-3節

まず差出人であるパウロ自身。「パウロ!使徒!」と書き始め、人間的な誰にも有無を言わせないパウロの使徒性が記されます。パウロは元々ユダヤ教の教師。バリバリの信仰者で教会を迫害し撲滅しようとしていました。しかし復活のイエス様と電撃的な出会いをし、クリスチャンになり、イエス様を伝え、教会を生み出す者へと変えられました。劇的変化。しかしそれは他のクリスチャンによって回心し、使徒としての訓練を受けたのではありません。人々が彼を使徒と認めようが認めまいが、すでに使徒として行動していたのです。そして最初に生み出したのが、『ガラテヤの諸教会』でした。会堂があったわけではありません。その地域のクリスチャンホームネットワークです。しかしパウロたちが去った後、問題発生!この手紙の書き出しは、パウロが「どないしたんや!」と、息せき切って、ピンポンも押さずに、いきなり玄関に飛び込んでくるような勢いを感じます。しかしその中にも『わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵み(優しさ)と平安(平和)とが、あなたがたにあるように』と祈ることを忘れません。血相を変えているけれど、教会へのまなざしはどこまでも優しく、平和を願っているのです。

自由の福音の要約 4-5節

次に自由の福音の使徒が、ガラテヤの諸教会に伝えた自由の福音の要約。私たちの自由は何からの自由か?私たちが『わたしたちの罪』から解放されて、『今の悪の世(時代)から救い(えぐり)出』されることです。私たちは罪(神様に向かず聞かず従わず、的を外した行い)によって、死を招き、世界を破壊し、暴虐を地に満たしてきました。そういう悪の世界・時代を造り上げてきた。そういう傷つけるものであふれたこの世界から、えぐり出すようにして『わたしたちを』助け出すために、神様は御腕を突っ込んで下さった。それが御子イエス様。イエス様は『わたしたちの罪のために』『わたしたちの父なる神の御旨に従い』ご自身を献げて下さった。全て『わたしたち』のため。普通、他人の自由ではなく、自分の自由を求めます。「自由を勝ち取るために多くの血が流された」とか「犠牲が必要だ」とも言います。自由の拳を振り上げ他人を傷つけたり、自分の自由を他人に押しつけることさえあります。しかしこの神の親子は、自分たちが傷つくこと覚悟で、血を流すこと覚悟で、死をも賭す覚悟で、『わたしたち』を自由にしようと、その犠牲の全てを払われたのです。どこまでも優しい。どこまでも『わたしたち』の自由と平和を願って一生懸命。パウロはそんな神様を『わたしたちの父なる神』と2度も呼びます。愛おしい。誇らしい。そしてほめたたえずにはおれなかったのです。

パウロ!使徒!おれだよ!一体どうしたんだ!神の親子の福音はこうだよ!忘れたのか?思い出してくれ!ガラテヤ教会に起こった問題は何だったのか?コリント教会の問題は比較的わかりやすい問題でした。ガラテヤ教会の問題は現代の教会にとっても大きな問題。実に巧妙に私たちの思いや生活に入り込んでいて、なかなか気付きにくい問題。この手紙によって光当てられ、自由の福音を味わってまいりましょう。

11月10日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第1章6節〜10節から、「偽りの福音への『しこう』」と題してメッセージです。


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