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素直に求める祈り

昨年より祈りについて少々重きをおいて学んできました。詩篇に耳を傾け始め、「祈りの交わり」を礼拝後に始めました。新年度から祈祷会がリニューアルします。祈りとは交わりです。「祈りの交わり」と言わなくとも祈りは交わり。神様と私たち。私たちお互いの交わり。会話。コミュニケーション。神様はもっとイエス様の御名によって求め祈ってほしいと願っておられます。そんな祈りの大切さを味わいたい。ということで、1月26日(日)の礼拝は、ヨハネによる福音書第5章1-18節から「素直に求める祈り」と題してメッセージでした。

求めることを忘れた人 5-7節

ベテスダの池は間欠泉だったと考えられています。池の周りに多くの病人や体の不自由な人々が横たわっていました。水が湧き上がる時、真っ先に入る者は癒されると思われていました。真っ先に入れる人は比較的元気な人です。病が重いほど、弱い人ほど残されました。その中に38年間、病に悩む人がありました。イエス様は聞かずともその人を見て、それがよくわかりました。だからといっていきなり「38年間病気を患っている者よ、起きて、床を取りあげ、歩きなさい!」とは言われません。『なおりたいのか』と聞かれました。するとその人は「はい!なおりたいです!」と答えたか?いいえ。『主よ、水が動く時に、わたしを池に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』。池に誰も入れてくれない!冷たい!不親切だ!自分のことばかりで誰も私のことなんか考えてくれない!そんな不満に聞こえます。『なおりたいのか』と聞かれたのに「池に入れるか入れないか」の話になっている。何だか的が外れている。会話が成立していない。素直に求められていない。「会話のない夫婦」「会話のない家族」なんて言われることがありますが、会話を忘れるなら、会話慣れしていないなら、こんなちぐはぐなことが起こってくる。それは神様への祈り、イエス様との会話も同じなのです。

求めを明らかにされるイエス様 8-9節

イエス様はそれでも癒されました。その日は安息日。ユダヤ人たちは彼を知っていたようです。彼が床を取り上げて歩いているのを見咎めました。「安息日は仕事をしちゃダメ」という律法がある。医療行為も寝床を上げるのも仕事。それはダメだ!と言うのです。そもそも安息日とは?日頃の疲れを癒し元気になるために仕事を休む日。金曜の日没からスタート。夕食を囲んで家族の交わりを喜び楽しむ。土曜には会堂に集まり、神様を礼拝し、聖書に養われ、共同体としての交わりを喜び楽しむ。そうやって体も心も魂も強められる。しかしいつの間にか「あれもするなこれもするな」の息も詰まる日になっていた。ユダヤ人のこの人やイエス様への反応もちぐはぐ。本当なら「治ったの?良かった!うれしいよ!」「イエス様ありがとう」でしょ?素直に喜べない。不満をならしている。イエス様に殺意さえ抱いている。イエス様はこの人に言われます。『ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから』。何か悪いことをしたから神罰として病になったのではありません。罪とは的外れ。随分前から「生活習慣病」という言葉が使われます。的が外れた生活を積み重ねた結果招く病です。だから普段の生活に気をつけることが大切ですよね。イエス様はこの人の新しい生活に気をつけるよう言われたのです。神様に的を向けない生活(この人の場合、今までベテスダの池が的だった)こそ、病以上に悪いことになるからです。

私たちもこの癒された人やユダヤ人のように、本質を捉えていないことがあります。目の前の問題が全てになっている。それに囚われ疲れ果て不満が募る。でも根本的な問題は違う所、隠れた所にある。それを見出すには?それが交わり。会話。コミュニケーション。最初は不満をぶちまけるだけかも知れない。でも段々気づきが与えられ、わかり、見えてくる。でもお互いだけでは限界がある。視野の広さ、理解の深さ、情報量には違いも限界もある。だから神様との交わり。神様は全てを見て知っておられる。神様に祈る時、互いの交わりで得たものも合わされ、問題の本質や求めるべきことが明らかになってくる。「それなら神様が最初から教えてくれて何もかもやってくれたらいいやんか」「祈る必要なんかあらへん」と思いたくなりますがさにあらず。私たちは交わりの存在として創造されている。苦しい時の人頼み、神頼みではなく、常時交わりが大前提。そして気づきに至る交わりはインスタントではできない。時間がかかる。祈りは良い意味での生活習慣、魂と心と体に必要な生活習慣なのです。私たちはこの癒された人と違って、イエス様を知っています。なおさら私たちは素直に祈り求める者でありたいと思います。祈りがつたなくても間違っていても大丈夫。まずは祈り始めること、祈り続けることが大切です。

2月2日(日)の礼拝は、詩篇第10篇1-18節から、「幸い。隠れたことをさばかれる神様」と題してメッセージです。

幸い。シンクロされる神様

シンクロとは「同期する」「同時に起こる」「タイミングを合わせる」ということです。シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)やマスゲームが代表例でしょうか。共に授業を受ける、合唱する、共に喜び悲しむ等もシンクロと言えるでしょう。礼拝もそう。共に賛美し祈り御言葉に聞く。考え出すといろんなシンクロがあります。最近、お互いが見つめ合うと脳が同期することがわかってきました。赤ちゃんと大人でも同期するそうです。実は神様も私たちとシンクロされます。ということで、1月19日(日)の礼拝は、詩篇第9篇1-20節から、「幸い。シンクロされる神様」という題でメッセージでした。

神様を忘れる者は消し去られる

第9篇の表題は「ムツラベンのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌」。ムツラベンとは「息子の死に寄せて」。ダビデの息子の死?詩篇第8篇は「ぶどうしぼりの歌」でした。喜ばしい歌。第9篇は悲しい歌?しかし内容は息子の死とはあまり関係がないように思えます。第9篇には2種類の人々が出てきます。1つ目はダビデに敵対し、神様を否定し忘れる人々。ダビデは彼らの行き着く先を記します。『つまづき倒れる』『滅びる』『絶えはてて、とこしえに滅び』『自分の作った穴に陥り、隠し設けた網に自分の足を捕らえられる』『自分の作ったわなに捕らえられる』『その記憶さえ消え失せました』。自ら墓穴を掘っている。と同時に。興味深いのは神様の態度。『あなたは…悪しき者を滅ぼし』『あなたが滅ぼされた』『永久に彼らの名を消し去られた』。シンクロしている。神様は仕返しされているのか?彼らへの愛はないのか?いいえ。『主よ、彼らに恐れを起させ、もろもろの国民に自分がただ、人であることを知らせてください』。『人』とは『弱い』という言葉。第8篇で出てきました。人は神様より『少しく』小さく弱く低い存在として造られた。それでも感動があまりある。と同時に私たちは神様なしに生きられない。神様を否定し、神様の立ち位置に自分を置いても、神様にはなれないし、弱い人々を虐げ苦しめ奪うことしかできない。神様はそんなおごり高ぶる人々の姿を、鏡に映すように見せ、「あなたがどんな姿か、どんな道を行こうとしているのか、見て気づいてほしい。そして私に立ち帰ってほしい」と願っておられるのです。

神様を尋ね求める者は救われる

もう1つの種類の人々は神様を尋ね求める人々。と同時に神様を宣べ伝える人々でもあります。第8篇でも『みどりごと、ちのみご』のように弱さを自覚した人々が神様の『名の尊さ』を地にあまねく広げました。ここで興味深いのは神様の態度。『主よ、わたしをあわれんでください。死の門からわたしを引きあげられる主よ、あだする者のわたしを悩ますのをみそなわしてください。そうすれば、わたしはあなたのすべての誉れを述べ、シオンの娘の門で、あなたの救を喜ぶことができます』と同時に『あなたがわたしの正しい訴えを助け守られた』『主はしえたげられる者のとりで、なやみの時のとりでです』『あなたは捨てられたことがない』『主は彼らを心にとめ』『苦しむ者の叫びをお忘れにならない』『貧しい者は常に忘れられるのではない。苦しむ者の望みはとこしえに滅びることはない』。シンクロしている。神様を認め尋ね求める者を、神様は捨てず忘れず滅ぼさず、救い守り御前にあり続けさせられるのです。第8篇はイエス様のことを記していました。イエス様を知らないダビデでしたが、そのダビデを通して神様が記された詩篇です。その目線で第9篇を読み味わうと、イエス様と同時に十字架につけられた強盗を思い出さずにおれません。強盗は最初イエス様をののしっていました。しかしイエス様のとりなす姿を見て心を変えます。彼はイエス様の十字架の姿を見て、自分の惨めな姿と罪深さを知ったのです。彼はイエス様に言います。『あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』するとイエス様。『あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる』。『思い出してください』『一緒にいる』。彼は土壇場で永遠の抹消から救い出されました。

「息子の死に寄せて」。息子とは、実は神のかたちである私たちと神の子イエス様なのではないか。神様を忘れ、神のかたちを見失い、罪人として滅び去る私たちを悲しみ悼む歌。しかし神様は私たちを見捨てない。私たちにシンクロするため、神の子イエス様が人となって私たちの滅びを十字架で身代わりに味わわれた。どこまでシンクロするのか!そしてよみがえり天に上り、今度は私たちが神の子にシンクロできるようにして下さった!息子たちを死から、息子の死によって、もろともに救い出すために!何という幸い!赤ちゃんと大人でもシンクロする。私たちは神様に向かって求め賛美し従いシンクロするのです。

1月26日(日)の礼拝は、ヨハネによる福音書第5章1-18節から、「素直に求める祈り」と題してメッセージです。

私たちはイエス様の弟子

3年ほど前、教会の倉庫を整理しているとホーア先生のネガフィルムのアルバムが出てきました。約90年前から70年前の300点ほどのネガフィルム。そこには八重先生をはじめとする若い働き人が何人も写っています。ホーア先生は1人ではなく、そういった若者たちと共に東京、大阪、京都で福音を宣べ伝えました。八重先生たちはホーア先生の弟子に見えます。しかし年齢や世代に差はあれど、イエス様の同じ弟子。そしてお二人の信仰と働きを受け継いでいる私たちもイエス様の弟子なのです。ということで、1月12日(日)のホーア師&八重師記念礼拝は、マルコによる福音書第3章13-19節から、「私たちはイエス様の弟子」と題してメッセージでした。イエス様の弟子とは、

イエス様に応答する人たちです 13-14節

イエス様の働きとうわさは広大な地域に広がりました。病気や汚れを癒やしてほしい人々が、悪霊を追い出してほしい人々が殺到するようになりました。寝食の暇もないほどです。イエス様も人々も押しつぶされないよう、イエス様が一時小舟に避難しなければならないほどでした。それでもイエス様は来る者を拒まず癒し続けられました。これ以上どうするの?物理的に手が回らない!そこで今回のお話しとなります。イエス様は『みこころにかなった者たち』を呼び寄せられ、その招きに応答した人たちの中から「12人」(12弟子)を選ばれました。ですから弟子は12人とは限りません。後にわかることですが女性もありました。ここで肝心なのは、これらの人々が、イエス様の招きに自発的に応答し、山にいるイエス様の『みもとにきた』ということです。何の強制もありません。この礼拝に集まった私たちも同じです。ここに、主の前に、自発的に集まっているのです。

イエス様と共にいる人たちです 14-15節

イエス様が『みこころにかなった者たち』を招かれた目的は、『自分のそばに置くため』、『宣教につかわ』すため、『悪霊を追い出す権威を持たせるため』でした。イエス様の懐に離れずに置いて、イエス様の日常を見させ、触れさせ、体験させるため。そして『神の子イエス・キリストの福音』の目撃者として、体験者として、伝令として派遣するため。さらには神の『権威』を授け、イエス様と同じわざを行わせるためでした。すごくない?口や生活でイエス様を伝えるだけではなく、イエス様と同じ権威あるわざも行うのです。ここで肝心なのは、イエス様と共にい続けるということです。でも口で言うのも難しい?権威あるわざなんて無理?そもそも「みこころにかなっている」とは思えない?そもそも「みこころにかな」っているとはどういうことか?

イエス様のみこころにかなった人たちです 16-19節

ここに12人の名前があります。他の聖書箇所や伝承などから、この人々の人となりがわかりますが、どうですか?生まれ育ちも良く、高学歴で、社会的地位もあり、ジェントルでスマートでパーフェクトな人たちか?意外に兄弟や友人や親戚関係が多かったりします。肉体労働者、血の気の多い人、体制側の人、反体制側の人、罪人扱いされている人、裏切る人。実にバラエティ。裏切ったのはイスカリオテのユダだけではありません。後にみんなイエス様を裏切りました。この人たちのどこが「みこころにかなっている」のか?「みこころにかなう」とは「その存在を喜ぶ」という言葉です。イエス様はペテロという存在を、取税人マタイという存在を、熱心党のシモンという存在を、イスカリオテのユダという存在を、喜んで招かれた。彼らの過去がどうであろうと、未来がどうであろうと、今この時、一人一人の存在を喜んで招かれたのです。

私たちも同じ。誰が裏切らないと断言できますか?誰がジェントルでスマートでパーフェクトでいられますか?それが入門基準なら誰も弟子になれない。一癖も二癖もある。罪も汚れも弱さも失敗も裏切る可能性もある。そんな私たち。でもイエス様は愛し喜び招いておられる。「私の元へおいで。私によく聞き、私をよく見て、やってみるんだ。君は私が造った。だから私に学ぶ時、君は君でいられる。そして私の与えた力を発揮できる」。ホーア先生と八重先生は他の若い働き人と共に、イエス様の弟子として、協力し手分けしてイエス様の福音を伝えました。私たちもイエス様の同じ弟子。ここに集まっていることがその証し。みんなで協力し手分けし賜物を用いて、イエス様のわざを広げていくのです。

1月19日(日)の礼拝は、詩篇第9篇1-20節から、「幸い。シンクロされる神様」と題してメッセージです。

若者にすぎないと言うな

今年、成人式を迎える方々が教会にあることを感謝します。青年のために祝福をお祈りいたします。それと共にここにおられる全員が今一番若い時。共々に祝福をお祈りいたします。今日は若くして預言者活動を始めたエレミヤを通し、私たちの歩みの確かさを教えられたい。ということで、1月5日(日)の青年祝福礼拝は、エレミヤ書第1章1-19節から、「若者にすぎないと言うな」と題してメッセージでした。

主があなたを選んでおられる 1-7節

エレミヤはアナトテという町に生まれました。レビ族の町。祭司の息子。エレミヤが神様から預言者として召命を受けたのは20歳そこそこ。エレミヤは歴史が始まって以来、人々がいかに神様に背き、人間的な力を求め、神様に従う人を虐げ殺してきたか、その深い闇を小さな頃から学んでいました。ですから神様からお声がかかった時、とてもやないけどできません!と悲鳴を上げました。しかし神様は、エレミヤを母の胎に宿す前から預言者として立てたと言われるのです。私たちは偶然生まれたのでも、目的もなく生まれたのでもありません。神様が目的を持って創造されました。若いから老いたから、男だから女だから、学歴があるからないから、キャリアがあるからないからと、私たちは生まれた後のことを問題にしがちです。だからできない、だからできると言い訳します。でも神様は違う。「生まれる前からあなたをそう造った。生み出した。だからそのように生きられる」。私たちは神様の選びに、何はともあれ応答すれば良いのです。

主があなたを整えられる 8-17節

神様は『彼ら(の顔)を恐れてはならない』と2度繰り返されます。今まで繰り広げられてきたおどろおどろしい人間の歴史。そこに群雄割拠するパワハラ強面権力者たち。エレミヤはそんなお歴々の顔を思い浮かべて卒倒しそうでした。あんな人々に歯に衣着せぬことを言うなんてマジ無理!ここで神様は『あなたは何を見るか』と尋ねられます。エレミヤは見たままを答えます。すると神様はその見たものの意味を教えられます。そんなことを繰り返す。何をしているのか?エレミヤの預言者としての練習です。いきなり相手がぐうの音も出ないような力強い言葉を蕩々と語れと言われているのではない。簡単なところから少しずつ慣れさせておられる。神様は、その人にできないことを無理矢理させるお方ではありません。私ができるように造り、できる力を与え、私のペースに合わせてトレーニングして下さるのです。私たちは、人の顔や立ちはだかる問題に縮こまるのではなく、何はともあれ神様の顔に向いて、そのレッスンについていけば良いのです。

主があなたと共に全うされる 18-19節、10節

20歳そこそこの青年は、強面パワハラ権力者たちをスーパーパワーでなぎ倒すスーパーヒーローになったか?人々はエレミヤを拒絶し、にせ預言者呼ばわりしました。1日パン1個の軟禁状態にしたり、泥の入った穴に投げ込んだりしました。国は滅びましたがエレミヤは自分の土地に帰ることができました。他の人々はエジプトへ逃れ再起を図ろうとします。エレミヤは全滅すると警告しますが聞き入れず、エレミヤを道連れにしました。しかし。エレミヤの預言は全てその通りになった。大国バビロンやエジプトも預言通り滅びた。エレミヤという神の預言者を誰も攻め落とせなかった。彼の発した神の言葉に誰も勝てなかった。権力者も国も移り変わる中で彼と神の言葉は揺るがなかった。エレミヤは実に40年、預言者の働きを全うした。それは神様が共にいて下さったから。『わたしはあなたと共にいて、あなたを救うから』(8,19)。私たちが与えられた働きを全うし、永遠の救いに至れるのは、ひとえに神様が共にいて下さるから。私たちは、何はともあれ、共にいて下さる神様に従って、歩み続ければ良いのです。

神様の敷かれたレールは嫌だ!自分がやりたいようにやりたい!エレミヤみたいな悲惨な人生はごめんだ!と私は思ったことがあります。しかし小さな頃から聖書に愛着がありました。エレミヤが言うように『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました』(15:16)。ずっと支えてくれた。振り返れば自分がやりたいようにやってきました。それが今の肥やしになっている。エレミヤほどでないにせよ苦労も病もありました。それも今の肥やし。神様とその言葉と共にある時、そこに自由があり、私らしい働きがあり、最高に満足な私があるのです。若者にすぎないと言うな。年を取り過ぎたとも言うな。神様はあなたを最高の目的を持って創造し、最高のあなたとして導きたいのです。今この時が早すぎることも遅すぎることもありません。今与えられている思い、家庭、学び、仕事に、神様と共に丁寧に向き合い、今できる最善を尽くしましょう。神様は必ずあなたと共におられ、次に開けるべき扉や進むべき道を示して下さいます。

1月12日(日)はホーア師・八重師記念礼拝。マルコによる福音書第3章13-19節から、「私たちはイエス様の弟子」と題してメッセージです。

普段着の冒険者

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。主の年2020年も皆さんの上に、主の祝福があふれ、栄えあるみわざが現され、御名に栄光を帰する1年となりますようお祈りいたします。

さて。冒険者と聞いてどんな方々を思い起こすでしょうか。未知なる世界や体験を求めて、危険を顧みず出かけていく人。十分な準備を経てたくさんの人々の声援に送り出される人。前人未到の偉業を成し遂げ、賞賛を受け、歴史に名を残す人。いろんな冒険者を思い出します。しかし聖書は私たちみんなに冒険者であれと語ります。『あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得る』。これが?どんな冒険者?ということで、元旦礼拝は伝道の書第11章1-6節から、「普段着の冒険者」と題してメッセージでした。

それは自分の無知を知る人です 3-4節

ここにいくつかの自然現象と、その観察に基づく人間の営みが記されています。30年ほど前、月や火星での長期生活に向けての研究のため、砂漠に地球環境を人工的に再現した、外界とは隔てられたドームで100年計画の実験が行われました。しかし数年も続きませんでした。人間は数千年という長い年月をかけ、自然界を観察し、理解し、活用してきました。しかし「知っている」ということだけでは生きていけない、そのまま突き進むことは無謀だということです。まだ知らないことの方が圧倒的に多いということです。私たちは「想定外の事故」「経験したことのない暑さ」などという言葉を耳にするようになりました。私たちはどこに行かなくても、普段の生活の中に未知なることが山ほどあるのです。普段の生活が冒険の場。そこで大切なのが「私は知らない」ということを知る、ということなのです。しかし「私は知らない」というだけでは十分ではありません。

それは神様を知る人です 5-6節

ここに『あなたは知らない』が繰り返されます。私たちは両親を通して子どもが誕生することは知っています。どのように体が形成されるかも知っています。しかし妊娠するかどうかや霊がどうやって宿るかまではわかりません。また種まきや収穫も季節や天候を見て最適な時期はわかっても、またいくら品種改良しても、芽の出方や実のつき方まではコントロールできません。私たちは「天任せ」という言葉を耳にします。人工衛星のミッションに携わる方が「やるべきことは全てやりました。あとは神様に祈っています」と言われていました。やるべきことをやり倒した人は、自分の手の届かない所は人間を超える存在に頼るしかない、ということも知っている。その存在とは?私たちは知っています。この世界を創造された聖書の神様。神様を知ることなしに、この世界を冒険することは無謀なのです。普段の生活を進むこともままならないのです。自分は知らないということを知ると共に、神様を知ってその言葉に聞いて従う時、新たな一歩が踏み出せる。自分にできること、すべきことを知るようになるのです。

それは自分の分を分かち合う人です 1-2節

『あなたのパンを水の上に投げよ』『あなたの一つの分を七つまた八つに分けよ』。『朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない』(6節)。これは自分にあるもの(与えられたもの)を、多くの人に「投げて」「分けて」「まく」。朝な夕なに「投げて」「分けて」「まき」続けるということです。『あなたは、どんな災が地に起こるか知らないからだ』。ここにも『あなたは…知らないからだ』。私たちはこの国でそのことを何度も経験し、よく知っています。でもその中で、だからこそ私(たち)にできることを、聖書は語りかけてくれるのです。しかし投げても、自分が想像するような、目に見える結果が、すぐに現れないかも知れない。でも投げ続けた人は『多くの日の後、それを得る』のです。私たちはどんな状態や状況でも、どんな悲惨な中でも、神様がそこからどんな栄光のみわざを起こされるのか?どんな喜びや慰めや励ましを生み出されるのか?期待しながら自分にあるものを分かち合い続けるのです。それが神の普段着の冒険者です。

2020年、私たちにどんな冒険が待ち受けているか?そのために神様は私たちに何を今、与えておられるか?それを投げ、分け、まき続けましょう。結果は神様が生み出されます。私たちに想定外な、経験したことのない、豊かな『義の実』を結ばせて下さいます。

1月5日(日)は青年祝福礼拝で、エレミヤ書第1章1節-19節から、「若者にすぎないと言うな」と題してメッセージです。

大掃除がありました

12月29日(日)の礼拝後、みんなで大掃除をしました。

子どもたちもとてもがんばってくれました!

比較的暖かで、中も外回りも掃除がはかどりました。


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