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幸い。主に向かって叫ぶ

私たちは無病息災、商売繁盛、平穏無事を願います。痛み苦しみ悩みがあれば早く取り去られるように願います。そのための手段や選択肢がたくさんあるようにも思います。医療、カウンセリング、コンサルティング、ノウハウ情報、占い、寺社仏閣、パワースポット。しかしそれらは、あくまでも、今の自分の問題を取り去る手段や選択肢に過ぎないのではないか。問題が解決されれば、その手段や選択肢は遠い存在になり、忘れはしまいか。ダビデは幼い頃から父親エッサイに教えられた神様『主』を信じていました。しかし長い間、様々な敵に追い回される悲惨な経験をしました。ダビデは主を御利益のない神として捨てたのか?ということで、4月26日(日)の礼拝は、詩篇第13篇1-6節から、「幸い。主に向かって叫ぶ」と題してメッセージです。

苦痛の叫び 1-2節

ダビデが叫んだ『主』は天地万物を創造された唯一の神様を指す言葉です。『とこしえにわたしをお忘れになったのですか』『み顔をわたしに隠されるのですか』とは、神様の存在が感じられない、嫌われている、無視されている、と思えるような救いの全くない状況です。ダビデはその苦痛を『魂に痛み(木)を負う』『ひねもす(一日中)心に悲しみをいだく』と表現します。そして『いつまでも』を4回繰り返す。伐採したばかりのゴツゴツした重い幹を一日中、いつまでも背負い続けるような、鈍く重くすりつぶされるような痛み。体、心、魂にまで及ぶ苦しみ。かたやダビデの敵は人々から『あがめられ』、賞賛され、勝ち誇っている。私たちはダビデ物語の結末を知っています。なのでこの苦痛を軽く読み飛ばしていないか?この苦痛に私が身を置けば耐えられる?信仰を捨てない?信仰って何?ダビデの父親はエッサイ。それはどんなことがあっても変わらない。そしてダビデの神様は『主』。それもどんなことがあっても変わらない。だからダビデは『主』に叫び続けたのです。

切願の叫び 3-4節

ダビデの敵は、ダビデが段々生気を失い、気が遠くなり、『動かされる(よろめく)』姿を今か今かと待ち焦がれ、目を注いでいました。ダビデが投げやりになり、信仰を捨てるそぶりを見せたら『喜ぶ(歓喜する)』ために。しかしダビデはなお『わが神(エロヒーム)、主よ』と叫びます。この『神』は「乳房の神」とも言われます。キリスト教の神は父性的だと言われますが母性的でもある。いや、全ては神様が創造されたのですから。『みそなわし』とは「見て下さい」です。主よ!私の神様!私を見て下さい!幼い子が親を見失って「お父ちゃーん、お母ちゃーん」と呼び求め泣き叫んでいる。そこへ親が駆けつけたら?親が子を見、子が親を見る。子の目が輝き、生気を取り戻し、悲しみは喜びに変わらないか?ダビデの父親はエッサイであってその代わりはいない。ダビデの『主』が『わが神』であって代わりはいない。だからダビデは『主よ』『わが神、主よ』と求め、叫び続けたのです。

歓喜の叫び 5-6節

最後に一転、ダビデの『喜び(歓喜)』の叫びです。ダビデは『あなたのいつくしみ(ヘセド)』への信頼を告白します。『いつくしみ』は「神様の約束に基づく愛と真実」。そして長い苦しみを経てイスラエルの王になった。しかし彼は王になったことよりも『あなたの救い』を歓喜し、『主は豊かに』ダビデを『あしらわれたゆえ』に賛美しました。「あしらう」とは「乳離れさせる」「成熟させる」という言葉。エッサイはダビデが大人になっても父親です。しかし成熟した大人同士の関係にもなります。本来親は、愛と真実を持って忍耐深く子を育てます。しかし子は時として自分の状況がわからず、泣いたり怒ったりパニックになったりします。だからといって親は放ったらかしでも、助けていないわけでもない。また何でも親が手を出せば良いわけでもない。時に自分で考え、一人でやってみて、ぶつかりや失敗を経験することも大切。それも含めて親は支え続ける。その中で子は状況を理解し、自分をわきまえ、問題を乗り越え、成熟した大人になるのです。そんな親子関係の原点がダビデと神様、私と神様の関係なのです。神様は私の手段や選択肢ではなく、私が存在する上でなくてはならない創造者なのです。そして私が主に似る者として成熟し、永遠にわたって主と共に喜び楽しむことが、主と私における目的なのです。

ダビデは真の王である主に似る者として成熟しました。ダビデの苦痛は全てその肥やしとなりました。主のいつくしみはトコトン全うされます。それは私たちにおいても同じ。私たちの叫びは、やりようのない叫びではなく、やりようのある叫び。何と幸いなことでしょうか。

5月3日(日)の礼拝は、詩篇第14篇1-7節から、「幸い。腐らないために」と題してメッセージです。

神の国の奥義 聞く耳のある者は聞くがよい

たとえ話は難しい話しをわかりやすく説明するものではないでしょうか。しかしイエス様のたとえ話はわかりやすいようでわかりにくい。イエス様がこう言われます。『あなたがたは神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬えで語られる。それは「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない」ためである』。わからない人にはわからない。わかる人にはわかる。その違いは『神の奥義』が授けられているか否かです。奥義って何?「中に入ればわかる世界」です。日本には茶道、華道、武道など、道が付く世界があります。様々な一門がある。その世界は外から眺めていてもわからない。一門をくぐり、子弟となり、その世界に身を投ずることでわかってくる。身についてくる。その道を究められる。それが奥義を授けられた人。では神の国の奥義を授けられた人とは?ということで、4月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章1-20節から、「神の国の奥義 聞く耳のある者は聞くがよい』という題でメッセージです。

何がまかれるのか?

今回のイエス様のたとえ話は種まき。種とは何か?イエス様は御言だ、と言われます。種には命が宿っています。しかしまかずにおくならそのままです。何の変化もなし。しかし適切な時に適切な場所にまくなら芽を出し根を生やし、一粒からたくさんの実をつける。イエス様の住まれた当時の地域では、家畜にくびきを付けて土を耕せば、種を空中に投げるようにしてまき散らしていました。とにかくまいてまいてまきまくった。種は御言。イエス様の言葉。聖書。日本では誰もが手にすることができます。でも他の本とは違う。命が宿っている。豊かな実を結ぶ力を秘めている。しかし他の本と並んでいるだけでは、他の本と一緒に積まれているだけでは、埃をかぶっているだけでは、何の変化もない。御言はまかれなければならないのです。

どこにまかれるのか?

イエス様は種である御言が落ちた先は人である、と言われます。当時の種まきはとにかく大雑把。風に吹かれて畑以外の所にも落ちました。固く踏みしめられた『道ばた』。たとえば「宗教お断り。西洋の一神教など必要ない」。土が薄くのっている『石地』。たとえば「御言って素敵です」。でもいろんな問題が起きると「御利益なんてないじゃないか!」。『いばらの中』。土自体は悪くありません。でも蒔かれた種以外が先にはびこってしまう。たとえば「御言も大事。でも今はこっちが優先事項。先にあれもこれもしたい」。『良い地』は種のための地。深く柔らかく種を受け入れる地。たとえば「まずは御言に聞きます。心に留めます。それからあれもこれもしましょう」。それぞれ別の人のように思うかもしれません。でも私自身が時として道ばたや石地や茨の中になっていないか?自己点検したいものです。

私たちにできることは何か?

とにかく御言に聞きなさい、とイエス様は言われます。ペテロやヨハネたちは『わたしに従ってきなさい』とのイエス様の御言に従いました。彼らは神の国の門をくぐったのです。たとえ話をすぐには理解できませんでしたが、イエス様に尋ねることはできました。師弟関係だからこそです。そしてたとえの解説を引き出した。奥義が一つ明らかになった。私たちは聖書を読んで、もっと疑問を持つべきです。疑問に思うことを恐れない。答えがすぐにわからないことも恐れない。難しいからといって諦めない。もっと御言に向き合い、もっと神様に尋ね、もっと互いに分かち合う。そのことによって私たちは耕され、柔らかにされ、御言が深く入り、成長するのです。他の誰でもない、まず私が御言に向き合う。私から変化が始まるのです。そして分かち合うことで、30倍、60倍、100倍と、神の国の世界を知るに至るのです。

私たちは世の中の耳寄りな情報を聞き逃しはしません。検索してでも調べます。神の国の奥義を授けられた人とは御言に聞く人です。御言は裏切らない。必ず答えてくれる。終生御言に聞き続け、問い続け、養われ続けましょう。神の国の奥義を満喫し、大いに分かち合い、楽しむために。

4月26日(日)の礼拝は、詩篇第13篇1-6節から、「幸い。主に向かって叫ぶ」と題してメッセージです。

復活の準備はできていますか

『あなたの終りには、どうするつもりか』という問いが聖書にあります。私たちは生きている間、将来に向けていろいろと準備し、安心を得ようとします。しかし私たちの死について、また死の先についてはどうでしょうか。最近「終活」という言葉を耳にするようになりました。人生の終わりに向けての準備。自分の死の準備を人任せにしないで考えるようになってきました。しかし死が私たちの終わりなのか?その先の安心はあるのか?聖書は死の先の「復活」を語ります。「終活」で終わりではなく「復活」がある。ということで、4月12日(日)はイースター召天者記念礼拝で、ピリピ人への手紙第3章20-21節から、「復活の準備はできていますか」と題してメッセージでした。

今、天国籍を得る 20節前半

『しかし、わたしたちの国籍は天にある』。昨年のイースターでは金持ちが「よみ」に降った話をしました。「よみ」に降る人は「最後の審判」まで「よみ」で待たねばなりません。「よみ」には慰めの場所や苦しみの場所があるようです。それは生前の人生が反映されるようです。そして「最後の審判」で「よみ」から出され、神様の前にさばきを受けます。なお悔い改めなければ「火の池」に投じられます。「無」になるのでも「解脱」するのでもありません。誰からも認識されなくなる完全な「滅び」を味わうことになる。しかし「よみ」や「火の池」を恐れる必要はありません。神様は「滅び」を望んでおられない。だからイエス様を遣わされた。私たちの「滅び」の身代わりを十字架で成し遂げ、死んで「よみ」に降られた。ここまでなら誰もが行っていた。しかしイエス様は復活され天に上られた。それまでは「よみ」に下る道しかなかった。でもイエス様は天国へ上る道を私たちのためにつけて下さった。このイエス様を私の救い主だと、今心に信じ、口で告白し、洗礼を受けて態度で表明するなら、今天国籍を取得できるのです。もう「よみ」も「火の池」も無縁なのです。

やがて、復活民となる 20節後半

『そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる』。イエス様はこの世界を終わらせ、天国籍を取得した人々に復活の体を与え、共に新しい世界をスタートするために再臨されます。天国は素晴らしい所です。でもゴールではありません。天国にこの体は持っていけません。私の霊が行くだけ。しかし神様は、元々私たちを霊と体という2つの要素で生み出して下さいました。霊と体があって本来の私。だから復活が必要なのです。そして復活した私たちが生きる新しい物質世界も必要なのです。天国は新しい世界へ入るための待合ラウンジ。プレミアムな天国ラウンジ。そこから新しい復活の体が与えられ、新しい世界に降り立つのです。私たちは新しい復活民となる!今の体も素晴らしいです。しかし新しい体に比べれば『卑しいからだ』だとパウロ。新しい体は今の体の単純な復刻版ではなく、イエス様の『栄光のからだと同じかたち』になるのです。

ずっと、イエス様と歩む 21節

私たちに日本国籍があるなら、日本の社会保障、教育文化、安全を享受できます。しかし享受するだけではありません。日本や世界に貢献することを願われ、日本国民として学び、育ち、働きます。世界に恥じない日本は、私たち一人一人の生き様にかかっています。天国籍を取得した私たちも同じ。私たちはこの世界を越えた新しい世界を享受します。しかし享受するだけではありません。復活に至るまで、地上にあっては学び、育ち、働き、日本や世界に貢献するのです。それぞれの国には国を代表する人がいるものです。国民のモデルと言ってもいいでしょう。しかしそういう人は身近な存在か?天国籍の復活民代表はイエス様。イエス様は天に上られたと同時にいつも私たちと共におられる身近なお方。このイエス様に『万物を従わせうる力』、私たちをイエス様の『栄光のからだと同じかたち』に変える力がある。だからこのイエス様に、私たちはいつも学び養われ、イエス様と共に人々に仕え続けるのです。

復活の準備はできていますか?まずはイエス様の救いを自ら受け取り、新しい世界に新しい復活の体で入るその日まで、イエス様と共に歩み続けましょう。

4月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章1-20節から、「神の国の奥義、聞く耳のある者は聞くがよい」と題してメッセージです。

ゆるしの十字架

4月5日(日)は棕櫚の主日礼拝。そして受難週の始まり。イエス様が十字架上で発せられた最初の言葉から、イエス様の十字架の意味を味わいたいと思います。ということで、ルカによる福音書第23章32-38節から「ゆるしの十字架」と題してメッセージでした。

ゆるせない人間たちの十字架

『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。『彼ら』とは誰か?まずはピラト。人を十字架につける権限を持っていました。政治家、軍人、教養ある立派な人。ユダヤ人の要請でイエス様を裁判しますが無罪を認めます。しかし民衆の暴動を恐れ、イエス様を十字架につけることをゆるしました。次に祭司や律法学者。政治的、宗教的リーダー。民衆の教師、模範、良心のような存在。しかしイエス様を妬み、ピラトに圧力をかけ、民衆を扇動し、イエス様を十字架につけることに成功しました。そして民衆。棕櫚の主日の由来は、イエス様がロバに乗ってエルサレムへ入られる時、彼らが棕櫚の葉を手に「ダビデの子に、ホサナ!主の御名によってきたる者に祝福あれ!」と、歓喜して迎えたことにあります。しかし数日後、拳を振り上げ「十字架につけよ!十字架につけよ!」と叫んでいました。最後に弟子たち。ペテロを筆頭に『主よ、わたしは獄にまでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です』と豪語していました。でも数時間後、イエス様を見捨ててちりぢりに逃げ失せていました。人々はイエス様に暴力を振り、つばを吐きかけ、ののしり、「神の子なら自分を救え!奇跡を起こして十字架からおりて見せろ!」と嘲りました。えげつないですか?悪い奴らですか?ゆるしがたいですか?私は彼らよりマシですか?彼らこそ十字架刑だ!と思いませんか?彼らは普通の人。私たちと同じ。いえ私たちも彼らと同じ。理由をつけ、正義を掲げ、憎しみや妬みや怒りをぶつけるため、実際にはやらなくても心の中で、あの人この人を磔にしていないか?イエス様を憎んだ人々同様、「お前を絶対にゆるさない」という十字架に、互いを磔にしあっていないか?それはつまり、「救いようがない」ことをし合っている、ということです。イエス様はそれを『彼らは何をしているのかわからずにいるのです』と言われたのです。

ゆるすイエス様の十字架

イエス様こそ彼らをゆるす必要はなかった。イエス様に罪はありません。十字架につけた『彼ら』がイエス様以上に良いことをしていたわけではありません。勝手な言いがかり、不正な裁判、不当な扇動によって、当時最も残酷な十字架にまつりあげた。世界の創造者である神の子を、被造物である人間が殺害した。世界最大の冤罪。人類最大の悪行。イエス様はとっとと十字架からおりることもできた。でもしなかった。『父よ、彼らをおゆるしください』。『彼ら』に代わって、『彼ら』への罰を、この十字架で私が受けます!人類最大の悪行、どうにもゆるせない、救いようのない十字架を、神の親子は、人類に圧倒的なゆるしと救いをもたらす十字架へと変えて下さったのです。このゆるしの十字架は人を選びません。どんな人をもゆるします。「そんな!虫が良すぎる!ゆるされてまた同じ罪を繰り返しても、またまたゆるすのか?」と思えます。このゆるしの十字架は、神の国の入り口。私たち一人一人、自分の罪を認め、このゆるしの十字架をくぐるなら、神の国に迎えられ、「神のかたち」回復のリハビリが始まる。さらに「神の子」としての成長が始まる。ついには復活と新しい天地における生活にまで至るのです。「更生」という言葉があります。その人だけを何とかしようとしている限り、更生は実現しません。それは塀の中で実現できるものではなく、社会が受け入れてから真に実現されていくものです。社会に癒しやゆるしや共に成長する力が求められている。更生には共生の力が必要なのです。一人一人にも、社会にも、ゆるしの十字架の圧倒的な力、神の国から始まる再生と成長が必要なのではないでしょうか。

「あいつをゆるさない」「私はゆるされない」と思っている間は、心の拳や肩に力が入りっぱなし。人間的な力ではゆるせない私、ゆるされない私だからこそ、圧倒的なゆるしの十字架が必要なのです。この十字架に覆っていただく時、握りしめていた拳や怒っていた肩の力が抜け、他に使えるようになる。「何をしているのかわからない」から「本当は何をすべきか」がわかってくるのです。

4月12日(日)はイースター召天者記念礼拝。ピリピ人への手紙第3章20-21節から、「復活の準備はできていますか」と題してメッセージです。

支え合う祈り

2019年度は祈りについて少々重きをおいて、聖書に耳を傾けてきました。詩篇からも順々に学んでいますが、それとは別にも学んできました。今回はその3回目。イエス様のゲツセマネにおけるお祈りから学ばせていただきましょう。ということで、3月29日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第26章36-46節から、「支え合う祈り」と題してメッセージでした。

祈りの支えを求められた 36-38節

イエス様が十字架につけられる前夜。イエス様と弟子たちは最後の晩餐をすませゲツセマネに来られました。12弟子の1人、イスカリオテのユダはすでに食事の席を外して共にいません。じゃあ11弟子が一緒?他にも弟子はいました。ここに何人いたかはわかりません。しかしイエス様はその弟子たちに『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい』と言われました。さらにペテロとヤコブとヨハネの3人と先へ進み、彼らには『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』と言われ、1人先へ進まれます。『すわる』という言葉には「任命する」という意味もあります。弟子たちの配置は、「最前線」に赴くイエス様を援護する布陣のようです。また『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』は「わたしの魂は悲しみのあまり死ぬほどである」です。体の死ではなく魂の死。最後の審判まで、私たちの肉体の死はあっても、魂の死はありません。魂の死は罪による究極の滅びを意味します。それを肩代わりする十字架がイエス様に迫っていました。その十字架が「最前線」。イエス様はなぜ3人の弟子を他の弟子とは別扱いされたのか?えこひいき?私たちにとって親しい人とそうでない人の違いは何でしょうか。お互いどれだけわかり合っているか?ではないか。会話や祈りは生活習慣です。その中で関係は深まり、支えられ、励まされる。イエス様も同じ。イエス様は神の子。お一人で何でもできた。でも一世一代の大勝負、全人類の救いがかかる十字架に向かうために、たくさんの弟子の祈り、より身近な弟子の祈りの支えを求められたのです。

繰り返し祈られた 39-46節

イエス様は最初『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』と祈られ、次に『わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように』と祈られ、そして『また行って、三度目に同じ言葉で祈られた』とあります。最後には『立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた』と立ち上がられた。祈りが短い。2度目はもっと短く、3度目は内容すら記されない。神の子だからといって悩みを隠さず、格好いいことも言わず、言葉巧みでもない。とても素直で簡潔。そして「魂が死ぬほど」の状態から『立て、さあ行こう』と毅然とした態度へ変化した!弟子たちは座るだけ、いるだけ、眠るだけ。不意を突かれ、混乱し、逃げ出した。イエス様は『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい』と言われました。祈らないと誘惑・不安・恐れが入り込む。「四六時中祈り続けるなんて無理!」ですか?イエス様は『ひと時も』と言われました。ひと時でいい!イエス様が十字架に向かう直前の祈りですらこれなんです。祈りは神様との日常会話。生活習慣。どんな場所でも、どんな時にも、どんな事態でも、イエス様のように素直で簡潔な祈りを繰り返せばいい。祈る中で、変えられ、整えられ、前進できるのです。

神の子でさえ祈られ、祈りの支えを必要とされました。私たちにおいて何をか言わんやです。祈らなかった弟子たちのあられもない姿は祈りの大切さを教えてくれます。イエス様のようにしっかりと立って、前進するために、自分のためにお互いのために祈りましょう。そうやって教会の全ての営みは、じりじりと前進し、福音は伝わり、神の家族の輪が広がるのです。

4月5日(日)は棕櫚の主日礼拝。ルカによる福音書第23章32-38節から、「ゆるしの十字架」と題してメッセージです。


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