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幸い。ひとみのような私たち

盲導犬は主人の「ひとみ」のような存在です。いえ、それ以上の存在ともなります。盲導犬は主人の声に聞き、主人が見たいものを見ようとし、主人を導きます。ダビデは主に、「私をひとみのように守って下さい!」と祈りました。ひとみのようなダビデ、ひとみのような私たち。私たちはどんなひとみで、何を見るのでしょうか?ということで、7月26日(日)の礼拝は、詩篇第17篇1-15節から、「幸い。ひとみのような私たち」と題してメッセージです。

きれいにされるひとみ 3-5節

この詩篇は暗い夜から始まります。そしてダビデは自分の言葉や行いの正しさ、さらに心の中の正しさを告白します。周りが明るくても暗くても、私の外側も内側も一片の曇りなし。なんと大胆な!しかしこれは、ダビデの努力でできるようなものじゃありません。『あなたのくちびるの言葉』に聞き続け、『あなたの道』を歩み続けたからです。その連続の結果としての告白です。ダビデが生きた時代も、私たちが生きる時代も、「心の闇」はたくさんあります。日本の都市部は夜でも煌々としています。しかし「心の闇」は深く広がっていないか。それを闇とも思わず、踏み入れ、よろめき、すべり、倒れていないか。主の御言は私たちの心の目薬、明かり、ナビゲーション。心の視界をクリアにし、照らし、導くのです。

異物から守られるひとみ 7-9節

ダビデは王になるまで、多くの敵に追われていました。そういう輩ほど富み栄え、将来が安泰のように見えました。なんて世の中なんだ!不公平なんだ!と思えなくもありません。このように、ダビデの目や心には、主の御言以外に勝手に入り込もうとするものがたくさんありました。ダビデは正しくとも弱い存在。自身を守る術のないことを痛感していました。ひとみも自身を守る術がない。涙、まつげ、まぶた、眉毛、髪など幾重にも、私の意志にかかわらず守ってくれている。ダビデはまず、そしていつも、周囲の状況を見たままに、主に申し上げ、入り込もうとする異物から守って下さい、と求めました。私たちの生きる時代、ダビデのようなあからさまな敵はいなくとも、巧妙に入り込んで、破壊や理不尽や不公平をもたらす情報や出来事が、氾濫していないか。だからといって、世の中を見ないで生きてはいけません。私たちもまず、そしていつも、見たままを主に申し上げ、主の守りを求めるのです。

主を見るに至るひとみ 15節

この詩篇は夜から始まり、最後に朝を迎えます。目ざめる時、何を見る?『しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りる』。主を見るひとみ!主を見るとは、救いを意味する表現です。ダビデは『あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし』て下さい、と祈っていました。その祈りが応えられたことをも表現しています。ダビデは長い困難の中、主の御言で自分を力づけ、従い歩み続け、王となり、王国を確立するに至りました。王になってからもそれは変わらない。主の御言に聞き、主の道を歩み続けるひとみは必ず主の救いに与り、主ご自身を見るに至るのです。私たちも夜、主の前で1日の出来事をありのまま申し上げ、私たちが受け入れるべきもの、そうでないものをわきまえる。朝には、雑多なものが流れ込む前に、主の御言をもってスタートし、主と共に見て歩む1日とするのです。

盲導犬は主人の声を聞き、主人の見たいものを見、主人を導きます。私たちはある意味、主のひとみ。主は全てを見ておられます。私たちはその主の御声に聞き、主と共に見、主に導かれるのです。さらに人々の目ともなり、人々をも主の道、驚くばかりのいつくしみ、救いへと導くのです。

8月2日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章15-24節から、「自由の福音の真理〜交わりによる」と題して、メッセージです。

弟子たちへのテスト

私たちにとって、テストとはどのようなものでしょうか?あまり喜ばしくない?テストはテストのためにあるのではありません。テストによって、学んで身についた所、身についていない所がわかる。テストは学んだことをより身につけるスタート。テストが目標ではなく、学んだことを使いこなすことが目標。イエス様は弟子たちに、座学・実践・座学・実践と、繰り返し御言を聞かせ、わざを見せてこられました。種まきのたとえに始まる集中講義もありました。そしてテスト。ということで、7月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章35-41節から、「弟子たちへのテスト」と題してメッセージです。

どんな状況にも 35-37節

『向こう岸へ渡ろう』。イエス様は舟の上から、湖岸にいる人々に語っておられました。語り終えて、イエス様を舟に乗せたまま、弟子たちは舟を出しました。他にも数艘あったようです。すると突風に見舞われ、舟が沈みそうになりました。ガリラヤ湖周辺の地形と気候によって、時に起こる事です。しかし12弟子のうち、少なくともペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは漁師で、ガリラヤ湖をよく知り、舟の操船もお手の物だったはず。彼らにしてみれば日常です。しかし彼らでさえ、手に負えない状況になることもある。私たちにも得意分野や専門分野があって、それなりの経験を積んでいたとしても、どうにもならないことに見舞われることはあるのではないでしょうか。

イエス様は共におられる 38節

「もうだめだ!」と思い至った時、弟子たちはイエス様に目を向けます。えっ?イエス様は艫(とも)の方で寝てるやんか!弟子たちはキレ気味に『先生。わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか』と叫びます。『おぼれ死ぬ』とは『滅びる』という言葉が使われています。絶体絶命のピンチ!でも。イエス様は湖岸で話しておられる時から、ずっと舟に乗っておられました。嵐になろうがなるまいが、ずっと一緒でした。私たちはイエス様が救い主で、共にいて下さることを信じているはずです。そして平穏無事な時もあれば絶体絶命のピンチもある。いつもどうしている?ピンチの時だけ、「イエス様!どうしてこんな目に遭わせるんですか!罰ですか?お見捨てになったんですか!」と、イエス様をどやしてたたき起こすのでしょうか。

御言に聞いて従う 39-41節

『静まれ、黙れ』とイエス様が、風と湖に向かって言われると、風はやみ、大なぎになりました。イエス様は神の子。人間の体をまとってイエス様になられましたが、天地創造の前から父なる神様とおられ、天地万物を創造されたお方です。だから自然界は創造者の言葉に従ったまでです。ここから、『黙れ、静まれ』という御言によって、一瞬で台風は失せ去り、地震は鎮まり、気候変動は解決する!と言いたいのではありません。神様は天地創造後、「神のかたち」である人間の営みにこの世界を委ねてこられました。だから人間こそ、自然界以上に、御言に従うべきではないか?ということをイエス様は弟子たちに知ってほしかったのです。「私はいつもこんなに近くにいる。だからいつも私の言葉に聞いて従いなさい。ここに平安がある」と。弟子たちは目の前の問題に気を取られ、イエス様と御言を後ろの方へ追いやっていたのです。

弟子たちへの最初のテスト。なかなか大変なテストでしたが、身をもって学んだのではないでしょうか。彼らの生涯は問題(テスト)の連続でした。時にはマイナスとも思える結果をたたき出したこともありました。イエス様はそれでも彼らを捨てられなかった。彼らも信仰を失わなかった。イエス様が一緒だったから。イエス様はマイナスからでも彼らを成長させられました。私たちも、このイエス様と御言に信頼し、従ってまいりましょう。

7月26日(日)の礼拝は、詩篇第17篇1-15節から、「幸い。ひとみのような私たち」と題してメッセージです。

幸い。黄金と変えられる

歌には人生の悲喜こもごもが込められています。そういった悲喜こもごもが自分と重なるなら記憶にとどまります。口ずさむことで慰められ励まされなお感動します。自分の思いをその歌に乗せて告白しているのも同じです。詩篇第16篇はダビデが作った「ミクタムの歌」。ミクタムとは「苦しめられている」という意味もあれば、「黄金の」という意味もあります。苦しみがどうして黄金なのか?この歌には苦しみを黄金に変えてしまう三つの告白があります。とういうことで、7月12日(日)の礼拝は、詩篇第16篇1-11節から、「幸い。黄金に変えられる」と題してメッセージでした。

あなたこそ私の幸いです 2節

あなた以外に幸せはありません!あなただけ!演歌調で歌うとしっくりきそうです。あなたとは主です。ダビデの人生は波瀾万丈。先代の王に命狙われ逃亡生活。同胞の密告、部下の反逆、敵の攻撃容赦なし。あまりの苦しさに気が変になったふりをし、敵の物笑いにもなりました。ダビデは神を神とし、敵は神ならぬものを神としいた。なのになぜこんな極限状態?今の時代、敵味方は別にして、いろんな思想信条が氾濫し、知識常識が流行し、デマやフェイクがあふれている。不安、不信感、疑心暗鬼が渦巻きます。視点も思いも定まらず、自分の立ち位置さえ見失いかねない。ダビデを取り巻く状況、渦巻く人々の言動、自分さえ当てにならない極限状態。その時!はっきり見えてきたものがある!『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸いはない』。人間の酸いも甘いも辛いもなめ尽くした人生の大先輩、ダビデの結論。私たちはダビデのような経験をせずとも、この結論を教えられた。だからまず、そしていつも、この告白に立って日々を送らせていただくのです。

あなたこそ私の嗣業です 5,8-9節

『嗣業』とは「相続地」。ダビデが生きた時代、「幸い」と言えば跡継ぎが生まれるか、土地を得るかでした。逃亡生活中のダビデには全く先が見えず、一辺の土地も家も財産もありません。今の時代も、土地や家は大切です。動かされない財産に価値を置きます。そこに楽しみや喜びや安心、そして幸いがあるように思います。しかし繰り返される災害や家庭の様々な不幸な事件を通して、幸いと思っていたものが、動かされないと思っていたものが、壊れやすく、失いやすく、ゆれ動きやすいものだと経験しています。ダビデもそういうものが全くない、心もとない状態。その時!はっきり見えてきたものがある!ダビデの足もとを支え、岩にも家にも砦にもなるお方。心を楽しませ、魂を喜ばせ、体を安らがせるお方。『主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる』。最低の境遇から王としての境遇までなめ尽くした人生の大先輩、ダビデの結論。私たちはダビデのような経験をせずとも、この結論を教えられた。だからまず、そしていつも、この告白に立って日々を送らせていただくのです。

あなたこそ私の命の道です 10-11節

ダビデの時代は、死ねばみんな「よみ」に降ると考えていました。何も持って行けない、先の見えない霊魂の待機場所。しかしダビデは当時としては意外な告白をします。「そこで終わりじゃない。神様はいつまでもよみに放ってはおかれない。『いのちの道』を示して下さる。必ず神様の前に回復して下さる。とこしえに!」と。『わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ』『あなたの前には満ちあふれる喜ぶがあり、あなたの右には、とこしえの楽しみがある』とダビデ。これって私が神様の喜びであり、楽しみだってことです。私も楽しみ喜び安らぐけれど、主もまた喜び楽しんで下さる。とこしえに!この告白は千年後、現実になります。イエス様が十字架に死んでよみに降られたから。よみの先には「とこしえの滅び」が待機しています。でもイエス様が十字架でその経験を肩代わりされました。その朗報(福音)を告げ、天に道を開くために降られたのです。ダビデはそれを待っていた。『あなたはいのちの道をわたしに示される』。ダビデ渾身の告白!イエス様こそ命の道(ヨハネ14:6)。私たちは、よみをわざわざ経験する必要はありません。イエス様を「あなたこそ私の命の道です」と告白すればよいのです。

ダビデ渾身の三つの告白。イエス様が私たちのミクタム(苦しみ)を十字架の苦しみというミクタムで肩代わりして下さり、私たちを永遠に価値あるミクタム(黄金)へ変えてくれるのです。揺るがない御国を相続するのです。時代も世界も激動の中にあります。しかし私たちはこの三つの告白を持って、丁寧に日々を歩んでまいりましょう。

7月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第4章35-41節から、「弟子たちへのテスト」と題してメッセージです。

幸い。あなたとずっと一緒

私は聖書を読んで疑問に思うことがたくさんあります。2千年以上前に記された書物。国も文化も言語も違う。現代日本人である私には当然わからないことがある。しかし疑問に思うことは不信仰ではない。神様に問いつつ聖書に向き合う。疑問が解けていく喜びはひとしお。疑問から信仰がなお引き出される。ダビデもたくさんの疑問質問を神様に投げかけます。その一つが『主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか』。ということで、7月5日(日)の礼拝は、詩篇第15篇1-5節から、「幸い。あなたとずっと一緒」と題してメッセージです。

目を惹く模範的行い 3、5節

ここに模範的な行いが記されます。説明なしでも正しいとわかる。3千年前の国や文化や言語の違うダビデが記しましたが今でも通用します。でもハードルが高い!わかっちゃいるけど難しい!第15篇は第14篇と対をなしています。第14篇は『神はない』と言う『愚かな者』、『神をたずね求める』ことなく、『主を呼ぶことを』せず、『民をくらい』『貧しい者の計画をはずかしめようと』とする者を記し、『善を行う者はない』と繰り返しました。第15篇に登場する人と対照的。『愚かな者』は、まず神を認めず呼ばずたずねない。すると人を食い物にし虐げ善を行わず、腐れ果てていく。ではその逆は?まず神を認め呼びたずねることではないか?行いはその後に付いてくる。「正しい行い」だけに目を奪われるとハードル高すぎ。誰も主の幕屋にも聖なる山にも迎えられそうにありません。でも第14篇と第15篇を共に見ることで、行いよりも先に大切なことがある、ということがわかるのです。

まずは全き者であれ 2節

ここに『直く』『義』『真実』という大切な言葉が出てきます。この『直く』が「全き者」という時に使われる言葉です。全き者と聞くとつい完璧な者をイメージしがち。でも違う。神様に向いて聞いて従う人、神の恵みを素直にいただく人、でした。『義』は私たちの行いによるものではなく「信じて義とされる」もの。神様から一方的にいただくもの。では何を信じるのか?それが神様の『真実』。神様の言葉が真実であると信じること。それが私たちの真実。アブラハムが良い例です。アブラハムには弱さも失敗もあった。神様は彼に『全き者でありなさい』と言われましたが、彼がしたことは神様の言葉を信じること。詩篇も第1篇からそのような人をずっと描いてきたのではないでしょうか。主の教えを聞いて喜び、主を認め求め寄り頼み、主に語り安らぎ主と共に立ち上がり、どんな時でも主こそ私の神だと告白する人。弱さや失敗はある。だからこそもっと主に寄り頼み食い下がり懐に飛び込む!私たちは「正しい行い」の前に、このような全き者であるべきなのです。

するととこしえに動かされない 4節

ここに神様とシンクロする者が記されます。神様と共にいつもある者は、ものの見方、考え方、その行動もシンクロしてくるのではないですか。先ほどの『直く』『義』『真実』には、それぞれ『歩み』『行い』『語る』という動詞が付いてきます。いずれの動詞も普段(不断)の生活。行いとは成長に伴うもの。「いつも目の前にいる人」から教えられ、共に体験し、身につけていく自然なもの。背伸びしてもできるものではない。成長すると自ずとできるようになる。第15篇の行いは、その結果を記しているのです。最初にダビデは『あなたの幕屋に宿るべき者はだれですか、聖なる山に住むべき者はだれですか』と質問しました。いずれもゲスト滞在的な言葉が使われています。しかし、実はずっとダビデは主と共にいたし、主はずっとダビデと共にいて下さった。そして彼は成長し成熟し、ついに『とこしえに主の宮に住む』(詩23:6)に至るのです。質問にまさる待遇を主は用意しておられるのです。

『あなた』とは主です。私たちの主イエス様は地上にある間、弟子たちとずっと一緒でした。弟子たちの弱さや失敗や裏切りがあっても。そしてイエス様が天に帰られたら今度は主の御霊がずっと一緒。それは私たちも同じ。私が主と共にいる以上に、主が私という幕屋に住んで下さっている。何という幸い。「正しい行い」を参考にしつつも、それに目を奪われるのではなく、ずっと一緒にいて下さる主から目を離さないように。

7月12日(日)の礼拝は、詩篇第16篇1-11節から、「幸い。黄金に変えられる」と題してメッセージです。


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