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進撃の賛美

新型感染症対策のため、集っての会話や食事には工夫が必要になっています。「歌う」ということにおいても同じです。オンラインで声を合わせようとしてもタイムラグが発生しますが、各人が同じテンポで歌ったり演奏した動画を合わせて、一つの動画(演奏)に仕上げる工夫もされています。ノーミュージック(ノーシング)・ノーライフな方々もあるかと思います。教会にとってはノー賛美・ノーライフと言えるかも知れません。しかし賛美はミュージックとは限りません。書く賛美、読む賛美、語る賛美、聞く賛美といろいろあります。聖書も書写、目読、音読、聴読、いろいろな味わい方があります。賛美もいろんなスタイルで味わい、献げたいと思います。ということで、8月30日(日)は、歴代志下第20章1−30節から、「進撃の賛美」と題してメッセージです。

風呂敷を広げて祈る 5−13節

南ユダ王国のヨシャパテは神様に向いて聞いて従う王でした。かたや北イスラエル王国のアハブは神様に向かず聞かず従わない王でした。しかしこの2人は共にスリヤとの戦いに出陣します。そしてアハブは戦死。ヨシャパテは辛うじて帰還。そこに間髪を入れず、モアブ・アンモン・メウニムという三民族連合軍が攻めてくるというバッドニュース!痛い目に遭ったばかりで戦力も気力もなし!ヨシャパテがしたことは?部下や民、家族を連れて主の宮で祈りました。赤裸々に、正直に、挑戦的に。「あなたは神!全てを造り治め何者をも凌駕し圧倒する神ですよね!あなたは危機の時に、この宮で祈るなら助け守ると言われました。だからみんなで祈るのです。私たちにはもはや力がありません。あなただけが頼りです」。一国の王として情けない発言?いえ。これこそ私たちの模範。潔い真実な姿。王であろうと幼子であろうと大して変わりはない。太刀打ちできない、万策尽きた、お手上げ状態はたくさんある。そんな時祈る。いつも祈る。主の宮で祈る。老いも若きも幼子も祈る。風呂敷を広げて祈る。隠さず祈る。赤裸々に祈るのです。

御言に聞く 13−18節

『その時主の霊が…ヤハジエルに臨』みました。『ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられる、「この大軍を恐れてはならない…これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである」…この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。…あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない』。やったー!何もしないで勝利が与えられる!か?『あす、彼らの所へ攻め下りなさい…あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられる』。え〜!矛盾してないですかぁ?主の宮は、壮麗な建築物とは限りません。私たちが主の宮。私たちが祈り、賛美する所に、いつでもどこでも主の臨在がある。私たちは「神様にお任せ」とか「もはやこれまで」と、ただじっとしているのではありません。神様が「行きなさい」と言われる所へ行き、「見なさい」と言われることを見、「やってみなさい」と言われることをやってみるのです。ヨシャパテと民たちが祈り、御言に聞いて後、やったことは、賛美しながら出陣すること、でした。

賛美しつつ前進する 18−30節

何ともユニークな軍隊の誕生です。賛美の軍隊。槍や刀ではなく楽器を持って、聖なる飾りをつけて、大声で『主に感謝せよ、そのいつくしみは絶えることがない』と前進する軍隊。19、21節の「さんびする」という言葉は「愚か者のように振る舞う」という意味もあります。戦場でキラキラした目立つものを身につけ、丸腰かつ大声で歌っている集団は、愚か者の極みかもしれません。最弱もいいところ。しかし『主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた』。『伏兵』が何かは具体的にはわかりません。三民族連合軍の中に仲違いが生じたようにも読めます。彼らはパニック状態に陥り自滅していきました。賛美の軍隊は戦わずして勝利を得、『ベラカ(祝福)の谷』で戦利品を集めるのに3日かかるほどでした。そして4日目に『主を祝福』しました。『祝福』という言葉には「賛美する」という意味もあります。主の私たちへの祝福と、私たちの主への賛美は表裏一体。賛美の軍隊は、戦利品を携え、賛美しながら、エルサレムの主の宮まで帰ってきました。勝利、戦利品、凱旋。これが後の「福音」という言葉のイメージともなるのです。

進撃の賛美。私たちはある意味、なりふり構わず賛美すればいい。私は弱く愚かです。だから主に祈る。御言に聞く。賛美する。それが私の力。喜びです。問題はなくなりません。次から次に起こります。しかし主と共にそれに向き合い、乗り越え、その問題からでしか得られない祝福をいただくのです。そしてますます主を賛美する。賛美の好循環。そうやって主の国の支配は広がるのです。賛美の軍隊。最弱のようで最強なんです。

9月6日(日)の礼拝は、詩篇第18篇1−50節から、「幸い。勝利を与えられる主」と題してメッセージです。

教会案内「ゴスペルだより08」ができました

子とされた恵み

「結果にコミットする」というダイエットトレーニングのCMがあります。コミットとは「約束の責任を果たす」「目標に対して積極的にかかわる」という意味があります。ダイエットトレーニングのトレーナーは、健康的な体になること(取り戻すこと)を約束し、共に寄り添い、積極的にかかわり、責任を果たします。生活習慣というものは1人ではなかなか変えられません。トレーナーがいてくれてこその変化です。しかしトレーナーがつかなくなったら?新しい生活習慣を維持できるか?元の生活習慣に戻らないか?リバウンドして元以上にならないか?ガラテヤ教会は、まさにそのような問題に直面していました。ということで、8月23日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章1-11節から、「子とされた恵み」と題してメッセージです。

かつての私 1-3節

コリント教会に「なんでそうなるねん!」と突っ込みを入れたくなるような逆戻り現象が起きました。そこでパウロはこの手紙で繰り返し、丁寧に、神の恵みを記してきました。そしてここではまず、当時の「主人と子ども」の関係から、彼らのかつての姿を記します。主人の子どもは財産の相続権を元々有します。しかし成人するまで『管理人や後見人』(前々回では養育掛)から教育を受けます。その間は『僕』と同じ扱いでした。ガラテヤの人々も元々神様に創造され、この世界に生まれました。しかし神様に面と向かって育ったわけじゃない。『この世のもろもろの霊力(「この世のもろもろの初歩的な教え」とも訳せる)』に向いて聞いて育ちました。今の世もホラーやオカルトに強い関心を示します。決して初歩的ではありませんが、最新の健康知識や科学的発見に目がありません。しかし、最新のものに蝶よ花よと飛び移り、知識の積み上げではなく上書きばかりになっていないか?人間関係もすぐに壊れてリセットばかりになっていないか?

今の私 4-7節

『時が満ちるに及んで』とは「時が満ちた」ということです。マルコによる福音書のイエス様の第一声が「時が満ちた」です。イエス様が私たちを罪と律法(その結果の呪いと死)から『あがない出すため』、マリヤから生まれ、ついにこの世界に来られました。あがない出すとは「対価を払って取り戻す」ということです。私たちは元々神様に創造されました。しかし神の子イエス様のような神ではありません。しかも神ならぬものに向いて聞いて育っていました。しかしイエス様は十字架にかけられ、私の身代わりに呪われ死んで下さいました。イエス様の神の子の立場に私を置くためです。これが対価。神様は私を取り戻し(イエス様も十字架の3日後によみがえらされて取り戻されている)、イエス様と私を同じ価値だと見なして下さった!パウロは『あなたがたは子である』『あなたがたはもはや僕ではなく、子である』『子である以上、また神による相続人である』と連発します。イエス様に使われる『子』と同じ言葉です。このことによって私たちは、『御子の霊』と共に、神様を『アバ、父よ』と呼べるようになったのです。

逆戻りしないために 8-11節

『ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ』『あなたがたが心配でならない』『またもや、新たにその奴隷になろうとするのか』とパウロ。『新たに』とは「上から」という言葉。せっかく着せられたキリストというユニフォームがあるにもかかわらず、その上からなぜまた奴隷の服を着るのか?9節の『逆戻り』という言葉は「振り向く」という言葉。神様に向くのか?神ならぬものに向くのか?創世記から今にいたるまで常に問われていることです。かつての異教的習慣や『偽兄弟』『割礼の者』たちが吹き込もうとする律法的生活習慣に振り向こうとしていたガラテヤ教会。最初のダイエットトレーニングの話し。ただ痩せるためだけのものではありません。生活そのものを変えるためです。トーレーナーがつかなくなった後、以前の生活に逆戻りしないか?現状維持に精一杯か?それともますます新生活を喜び楽しみ謳歌できるか?新生活の助けになるのが、トレーナーにかわる、同じ経験をして新しい生活を満喫している人の存在ではないか?1人では難しくとも、そんな人が寄り添ってくれれば心強いのではないか?ガラテヤ教会や私たちには?『御子の霊』が寄り添って下さっているのではないですか。

子とされた恵み。それは父・御子・御霊との交わり。とことんコミットして下さる三位一体の神様。神様は私たちを喜び、私たちとの交わりを楽しみたい。私たちは、至れり尽くせりの、圧倒的に豊かな、三位一体の神様とその交わり(関係)に向いて身を置けば、真の富と成長と満足を知るようになるのです。

8月30日(日)の礼拝は、歴代志下第20章1-30節から、「進撃の賛美」と題してメッセージです。

正気になった人

「マインドコントロール」と聞いてどんなことを想像されるでしょうか。「洗脳」「自分が自分でなくなってしまう」「怖い!かかわらないほうがいい」というような、良くないイメージが浮かんでくるでしょうか。「マインドコントロール」とは「心を支配する、治める、管理する」ということです。マインドコントロール全てが悪いわけではありません。肝心なのは、「何によって」支配し、治め、管理しているかです。私たちは、本当に、自分が自分を支配し、治め、管理できているか?ということで、8月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章1-20節から、「正気になった人」と題してメッセージです。

レギオンに支配された人 2-7節

イエス様は、異邦人が住む地、異教の地、ゲラサ人の地に行かれました。そこに『悪霊につかれた』男性登場。この悪霊は『けがれた霊』『レギオン』とも記されます。レギオンは、6千人規模のローマの軍団を指す言葉。この男性は、それほど多くの悪霊に支配され、服も着ず、墓場に住み、山で叫び、足かせや鎖をされても破壊し、誰も押さえつけられず、自分の体を傷つけまくっていました。そして叫びます。『いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください』。苦しんでいるのに苦しんでいない?もはや彼の言葉か悪霊の言葉か判別できません。彼なのに彼でなくなっている。この男性は、当時のユダヤ人からすれば、「神様から一番遠い人」と言えます。異邦人。墓場に住む人。汚れた無数の悪霊につかれた人。全く制御不能。本人も周りもお手上げ状態。しかし。イエス様は彼に会うために来られたのです。

恐れに支配された人々 8-17節

イエス様は、悪霊に男性から出て行くよう命じられました。悪霊は近くにいた2千匹の豚に入り込み、豚はなだれを打って湖に駆け下り溺死。悪霊は「滅ぼす輩」であると同時に「滅びる輩」であることが見てわかります。男性は正気を取り戻しますが、『豚を飼う者たち』は『逃げだし』て町の人々に伝え、町の人々が出てきて『悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れ』ました。正気になった男性を見て大喜びしたのではなく『恐れた』。町の人々は男性とは違って「自分たちは正気だ」と思っていたことでしょう。でも正気だと思っている人々が正気になった人を見て恐れるとは?町の人々は悪霊につかれていなかったかもしれません。しかし『恐れ』に支配されていました。悪霊は『この土地から追い出さないように』イエス様に願いました。つまり、悪霊は男性だけではなく、その地域にも影響を及ぼしていたということです。『恐れ』に支配された町の人々はイエス様を丁重に追い出しました。

イエス様に従う人 18-20節

男性はイエス様のお供をしたいと願い出ます。しかしイエス様は『あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい』と言われ、男性はその言葉に従いました。彼はイエス様に帰ることで、我に帰り、家族に帰り、新たに村から町へ、さらに『デカポリス(10の町)の地方』へと自由に出かけていくことができるようになりました。彼は自立(自律)した人となったのです。さて。私たちは「何によって」自分をコントロールしているか(されているか)?悪霊や恐れでなくても、時に私の立ち位置を忘れさせ、私を振りまわし、自分や相手を傷つけるに至らせるもの、たとえそれが大切なものであっても、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、私に取って代わってしまうものが、身の回りにあふれていないか。時に依存症といわれるまでにならないか。この問題の根本は、身近な関係性にあると言われます。セルフイメージが形成され、アイデンティティが確立されるはずの身近な関係性。本来、その関係性で満たされるべきものを他のもので埋めようとして問題になる。ですから、その人を「治療」する以上に、身近な関係を見直し、関係性の再構築によってセルフイメージを回復し、アイデンティティを確立する。つまり自分を取り戻すのです。ならば。私たちの根本的なセルフイメージの回復とアイデンティティ確立のために一番必要なのは、イエス様との関係ではないか?イエス様はそのために来て下さった。イエス様に従うことで私を失うことはありません。イエス様によって、私は本来の姿を取り戻し、自立し治め活躍できるようになる。これもまた『神の子イエス・キリストの福音のはじめ(支配)』なのです。

8月23日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第4章1-11節から、「子とされた恵み」と題してメッセージです。

キリストというユニフォーム

私たちはユニフォームが大好きではないでしょうか。保育園、幼稚園、学校の制服。グループ、チーム、企業のユニフォーム。ペアルックやファミリールック。大きく広く見れば、住んでいる地域や乗っている自動車が同じだったり、はたまた同じ国籍というのもユニフォームと言えなくもありません。一体感がある。ステータスがある。相手を知らなくても受け入れられる。小さな一人一人が、ユニフォームで大きな一人のようになる。不思議です。さて。パウロは私たちが着ることのできる最高最大のユニフォームを語ります。ということで8月9日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章23節-第4章7節から、「キリストというユニフォーム」と題してメッセージです。

祝福を相続するため 第3章28-29節

第3章23節と25-27節は対照的。『信仰が現れる前』私たちは律法の囲いに閉じ込められていた。しかし『信仰が現れた以上』律法から解放され神の子となった。この『信仰』とはイエス様の信仰(そして真実)です。この信仰に私たちが信頼することで、神の子とされキリストを着ている(キリストを着せられ神の子とされている)!私たちからは見えなくとももう着ている。その目的は祝福の相続。アブラハムは生まれ育ちや行いや富や年齢や性別によらず、ただ神様の約束を信じるだけで義とされました。そして祝福はイエス様お一人を通して「私たち」に相続されるわけですが、「私」も全てを相続できる。世の中はグローバルから分断へ急速に変化しています。分かち合わず、一つにならず、私が一番!と、あの手この手で他から奪ってでも取り分を増やそうとしてないか。しかし私たちは信仰一つで一つになり、全てを相続する。独り占めしないと保てないような、奪われたら無くなるような相続ではない。キリストというユニフォームは、最大の相続のためのユニフォームなのです。

身分が変わる 第4章4-5節

キリストのユニフォームを着ることで、私たちの身分(外側)が変わります。私たちは『神の子』になり『子たる身分』を授けられます。私たちは『信仰が現れる前』は律法の囲いに閉じ込められていました。イエス様はその囲いの中に飛び込んで下さいました。私たちなら囲いにぶつかりまくって「罪〜」と響かせるのが関の山。イエス様は「律法を行う者」とぶつかりはしましたが、律法の囲いにぶつかることも罪を犯すこともありませんでした。ですから十字架という木にかけられ、私たちの身代わりに死んで、律法と罪の囲いの外に出る道、天に上る道、新しい天と地にいたる道をつけて下さいました。それが『律法の下にある者をあがない出す』道です。『子たる身分』とは養子縁組で与えられる身分です。生まれ育ちや行いや富や年齢や性別は違っても、キリストというユニフォームを着ることで、イエス様と同じ身分が与えられ(同じ相続権が与えられ)、同じ「神の子の道」を通っていけるのです。

中身も変わる 第4章6-7節

キリストのユニフォームを着ることで中身もまた変わっていきます。全ては神の恵みで、信仰だけでいただく、ということを繰り返し聞くと、「受けとるだけ受けとって後は好き放題してお咎めなしならラッキー」とか、「その後は罪を犯さないように頑張って良いことしないとダメじゃないか」とか、振り子が振れるような思いが湧くかも知れません。ここで肝心なのが「交わりによる」ということです。神様の養子になった私たち。神様を『アバ、父よ』と呼べる交わりがスタートするのです。イエス様もこの交わりを欠かすことはありませんでした。その『御子の御霊』がキリストというユニフォームにもれなくついてくる。私たちも御霊と共に、父なる神様との交わりを始める。結果として、イエス様のように自由に歩むことができるようになるのです。子どもは、親をはじめとする大人の言動を一心不乱に観察吸収し、同じような言動になっていきます。良くも悪くも、意識するしないにかかわらず、ごく自然に染みついていく。それを頭だけで変えるのは大変困難です。だから。もとい。神様との交わりに帰り、そこから始めるのです。

キリストというユニフォームを着ても各人違いはあります。しかしその違いは分断や拒絶や混乱を生み出しません。神様ご自身と救いと祝福の大きさ、神様の恵みと自由と栄光が多彩であることを証しするのです。

8月16日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第5章1-20節から、「正気になった人」と題してメッセージです。

自由の福音の真理〜交わりによる

私たちはガラテヤ人への手紙から、自由の福音の真理とは、「信仰による」「神の恵みによる」「神様のプレゼントを受け取るに尽きる」ということを繰り返し学びました。しかし、そう言われれば言われるほど、真面目で律儀な人は不安や疑問を覚えないか。クリスチャンらしい証しを立てるために義務やノルマやマニュアルがほしくなる人、するべきことが用意されていると安心する人もあるのではないか。そこでまず、パウロは「律法の行い」から語り始めます。ということで、8月2日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章15-24節から、「自由の福音の真理〜交わりによる」と題してメッセージです。

主人の遺言 15-18節

まずパウロは「自由人の主人の遺言」に触れます。遺言は昔も今も『いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない』ものです。「私の財産は、この息子に全て贈与する」と約束されれば、その息子がどんな息子であれ、その息子に受けとる気さえあれば受けとれる。人間の遺言はかくも強力。神様の約束はもっと強力。パウロは神様のアブラハムへの約束を引き合いに出します。神様の約束は、アブラハムとその『子孫』とになされました。『子孫』という言葉は単数形で複数をも意味する集合名詞。アブラハムと信仰を同じくする「私たち」も神様の約束に与れますが、その窓口はイエス様お1人です。『もし(あなたがたが)キリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである』。イエス様(単数)を信じる者は、その他大勢(複数)として相続のおこぼれに与るのではなく、イエス様(単数)を信じる私(単数)も、歴とした主人の子・神の子・自由の子として、神様の全ての相続に与るのです。神様の約束は遺言レベルに強力。イエス様の十字架による死によって確定されたから。もう誰にも変えられない。私たちの小さく至らない「律法の行い」が取って代わることは決してない。何と大きく強力で気前の良い「神の恵み」でしょうか。

奴隷の養育 19-24節

次にパウロは「律法の役割」に触れます。律法はアブラハムから430年後にできました。なぜできたか?『違反を促すため』です。違反しないように律法ができたのではなく、違反を助長するためにできたのか?『促す』とは「示す」という言葉。律法の役割は、何が罪か、何が間違っているか、何が自由でないかを示すこと。パウロはこの律法を『わたしたちをキリストに連れて行く養育掛』だと言います。『養育掛』とは当時、奴隷の仕事でした。奴隷(召使い的イメージ)は、主人の子どもの養育・教育も任されていました。しかし律法は、私たちが「できない」ということを教えるのです。完璧なんて無理。違反するのが関の山。自分の義を立てることは不可能。律法というガチガチの囲いの中で、少しでも動こうものなら、あっちにゴツン「罪〜」、こっちにゴツン「罪〜」と響いてくる。痛い思いをするばかり。ストレスだらけ。疲れるだけ。どうしていいかわからない。律法はそこに行き着くためにある。律法の役割はそこまで。あとは?律法ではなく主人の元へ!イエス様の元へ!マニュアルをこなすことではなく、イエス様を窓口とする三位一体の神様との、温かな交わりの中で、自由とは何かを学び、体験し、身につけていくのです。

律法は悪いものではありません。その役割を私たちが履き違えているだけ。何が罪か間違いか不自由かを知るためにある。私たちが罪や間違いや不自由から自力では抜け出せないことを知るためにある。それがわかれば十分です。それで断罪されて終わりではない。後はイエス様に向く。聞く。交わる。律法で罪がわかり、イエス様で自由がわかるのです。

8月9日(日)の礼拝は、ガラテヤ人への手紙第3章23節-第4章7節から、「キリストというユニフォーム」と題してメッセージです。


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