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人の考えは穴だらけ。しかしそれを満たすのは神

私たちは「見えている」「聞こえている」「わかっている」と思っても、見えていない・聞き落としている・わかっていない領域の方がはるかに多いものです。しかしそんな私たちですが、事が上手く運ぶはずだ、よい反応が返ってくるはずだと、予定や計画を立て、大事な決断をしたりします。しかし自分の思い通りにならないこともあります。いえ思い通りにならないことの方が多いかもしれません。まさにそんな状況にアブラハムたちはありました。ということで、9月10日(日)の礼拝は、創世記第21章1節〜34節から、「人の考えは穴だらけ。しかしそれを満たすのは神」と題してメッセージでした。

祝福を作り出されるのは神
『神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう』。サラの喜びの声。ついにサラに男の子イサクが生まれたからです。この『神はわたしを笑わせてくださった』は「神は笑いを造られた」と訳せます。天地創造の時に使われた言葉です。神様は無から有を造り出され、造り出されたものに満足され、祝福されました。それはアブラハム夫妻においても同じです。全く望みのないところから望みを、命のないところから命を、笑いのないところから笑い(自嘲的な笑いではなく喜びの笑い)を造り出されました。ずっとちょっと後ろ向きだったアブラハム夫妻。ずっと信仰と不信仰がせめぎ合っていたアブラハム夫妻。この夫妻においてこの喜びと祝福です。なら神様を積極的に信じる私たちにおいて、どれほどの喜びと祝福を造り出されるか!私たちは今までの状況がどうであれ、私たちを通しても祝福を造り出して下さる神様に期待したいと思います。

祝福を満たされるのは神
ではサラの代理母ハガルと跡取り候補イシマエルはどうなったか?サラはハガル親子を追い出すようアブラハムに言います。アブラハムは悩みますが神様は親子を去らせるよう言われます。ハガルは自由の身となりますが過酷な状況でした。10代後半になっていたイシマエルも泣くほど。神様はその状況を見、泣き声を聞き、『水の井戸』にハガルの目を開かれます。目の前にあっても見えていないものがある。しかし見て聞いておられる神様は変わりなく彼らと共におられ、彼らは新生活を始められました。そこはベエルシバと呼ばれる所。さて。ハガルを代理母にと提案したのは?ハガルが身ごもってサラを見下げるようになりアブラハムのせいにしたのは?イサクが生まれてイシマエルを邪魔者扱いしたのは?みんなサラ。ひどい?非情?相変わらず変化なし?私たちはどうですか。自分の計画や決断を「絶対正しい」と人に押しつけ、上手くいかなければ人のせいにし、平気な顔してない?神様はそんな私たちの変わり映えしない、目の届かない、気の回らない、愚かな穴ぼこにも、井戸の水のように祝福を満たそうとされます。だからといって私たちは自分を正当化するのではなく、自分の至らなさを認め、変えられ、成長することに目を開かれたい。そして自分の弱さや愚かさを覆って下さる神様に感謝したいと思います。

祝福を広げるのは神

ハガル親子が新生活を始めた『そのころ』、その土地の主であるアビメレクが「あなたが何をしても神がおられる。だから私たちを欺かないと神に誓い、私があなたに親切にしたように私たちにもしてほしい」と、アブラハムのもとにやってきました。ひどい目に遭いましたからね。するとアブラハムは自分が掘った『水の井戸』をアビメレクの家来たちが奪ったと訴えます。アビメレクは知らないと言いますが、アブラハムは雌羊7頭を彼に差し出し、アブラハムの『水の井戸』の証拠とさせました。そして二人は誓い合いました。「7」と「誓う」は「シバ」。井戸が「ベエル」。アブラハムの掘った『水の井戸』のある所、ベエルシバと呼ばれるようになりました。ということは。ハガル親子を救ったのは同じ『水の井戸』?!人間的にはアブラハムもアビメレクも目先のことですったもんだ。何がどうつながっていたかなんて知るよしもありません。しかし神様はあの人もこの人も用いて、あれもこれも活かして、アブラハム一族、アビメレク一族、イシマエル一族にも祝福を広げようとされたのです。

私たちの計画や決断はどれだけ広く見渡しても目先の域を出ないかも知れません。それは悪いことではありません。私たちの限界なのです。しかし神様は全世界と全時代を視野に入れ、祝福を造りだし、満たし、広げようとされます。私たちは他の誰でもない、この祝福の神様に信頼し、素直に委ね、謙虚に変えられ、遠くの祝福のために祈り、身近な祝福のために労したいと思います。

9月17日(日)は年長者祝福礼拝。サムエル記上第12章1節〜25節から、「生涯にわたる神の人」と題してメッセージです。


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