カテゴリー

生涯にわたる神の人

9月17日(日)は年長者祝福礼拝でした。祝福とは神様からの命と支配と愛が、私たちを通して地に満ちることを言います。そして聖書にはその祝福の様々な姿が描かれています。子どもたちが広場で遊び戯れることもその一つ。高齢の方々が広場で安心して憩っている姿もその一つです。人々が長く元気に生きられるのは平和で安定した社会あってこそ。私たちも幼子から年長者まで、共に神様を礼拝をできることを感謝します。そして幼少から高齢に至るまで、神様に向いて聞いて従う者でありたいと思います。ということで、サムエル記上第12章1節〜25節から、「生涯にわたる神の人」と題してメッセージでした。

主に向いて聞いて従う人

サムエルが誕生したのは士師時代の終わり。イスラエルには王がなく士師が治めていました。王は政治・軍事のフルタイムの専門職、士師は普段別の仕事をしていていざとなれば人々を導くパートタイムのリーダー、と言ったところ。当時の士師は祭司エリ。しかし人々は神様に向かず聞かず従わず、神様の声が失われつつありました。その頃、子宝に恵まれないハンナが神様に子どもを祈り求め、与えられたら神様にその子を献げますと約束します。そしてサムエルが与えられました。サムエルが乳離れするとハンナは祭司エリにあずけます(だからといって親子関係が切れたわけではありません)。神様はサムエルに語り始められました。ハンナはなぜ求めた子どもをすぐに神様にお返ししたのか。サムエルに限らず私たちはみな、神様に命与えられ、親を通してこの世界に生まれました。親の子である前に神様の子。それを知らず、知っても認めず、他をも従わなくさせていないか。神様に生み出された者は、まず神様の声を聞く。神様に向いて聞いて従うことは私たちの基本的で自然な姿なのです。

あなたのために祈る人

サムエルが高齢となった時、人々は人間の王を求めました。本当の王は神様なのに。周りの国の王ばかりに目が向いていました。神様はその要望にこたえられます。サムエルは人間の王が立つなら、人の自由も家族も財産も王の所有となること、王も含む全ての人々が神様に向いて聞いて従わなければ国は立ち行かないと警告し、『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう』と語ります。私たちにも子育て、仕事、地域の役など様々な引退があるでしょう。しかしすることが無くなるのではありません。私の出身教会の牧師夫人は引退されてからも現役時代と変わらず、多くの人のために毎朝2時間祈って下さっていました。私もその祈りに支えられてきました。私たちお互いも、お互いのために祈り続けて支え合う。それが神様に生み出され、神様に向いて聞いて従う者の、生涯変わらぬ姿なのです。

苦しい時に側にいてくれる人

最後の士師はサムエル。初代の王はサウル。しかしサウルはすぐに神様に向かず聞かず従わなくなります。そこで神様はダビデを王とされます。しかしサウルは王の座にしがみつきダビデを執拗に殺そうとします。ダビデは国のためによく戦い、サウルに忠実に仕えようとします。しかし余りに激しいサウルの追跡に弱り果て、サムエルの所に逃げ込みます。サムエルはダビデをかくまい休ませました。神様に向いて聞いて従う私たちの人生にも一度や二度ならず弱り果てることがあります。神様に向かず聞かず従わない世にあるから。また世の様々な病い、労苦、苦痛も共に味わうからです。そこにえこひいきはありません。しかしその病い、労苦、苦痛の経験は、似た経験をする人を慰め励ます「人生の厚み」となるのではないでしょうか。ダビデはサムエルのそんな人生の厚みに受け止められ触れられて、再び立ち上がることができました。遠くの王様よりも苦しい時に側にいてくれる人。側にいたくなる人。どんな中にあっても、神様に向いて聞いて従い抜いた人の、ゆるぎない姿がそこにあるのです。

私たちもそのようなお互いであらせていただき、地域や社会の祝福のために祈り仕え、病いや労苦や苦痛に寄り添い続ける神の家とならせていただきましょう。

9月24日(日)の礼拝は、創世記第22章1節〜24節から、「ひとり子をも惜しまない愛」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved