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わたしが命のパンである

イスラエルの安息日は各家庭での夕食から始まりました。またイエス様の活躍を記す福音書もイエス様を中心とした食事の風景を描いています。神様を中心とした家族の交わり、イエス様を中心とした神の家族の交わりに食事はつきもの。ということで、10月15日(日)はバーベキュー礼拝を行いました。体のためのお食事の前に、まずは霊のお食事を、ということでヨハネによる福音書第6章35節から、「わたしが命のパンである」と題してメッセージでした。

体に必要なパンを与えられるイエス様

ガリラヤ湖をのぞむ山に登られたイエス様。大勢の人たちがついてきました。その数男性だけで5千人。当時の数え方です。女性や子供も考慮すれば倍以上になるでしょうか。みなお腹をすかせていました。イエス様は弟子のピリポにどうしようかお尋ねになると『二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい』。一人数百円にもなりません。すると別の弟子アンデレが『ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何にになりましょう』。大人二人「無理!」と答えを出しました。しかしイエス様は子供のお弁当を受け取って、感謝して分けられました。するとそこにいた人々のお腹を満腹させ、なお余るほどになりました。

永遠に必要なパンであるイエス様

大人たちはイエス様を王様にしようと追いかけまわしました。自分たちが何もしないで満腹になったから。そこでイエス様は言われます。『よくよくあなたがたに言っておく。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい』。人々「ではどんな働きをすればいいんですか?」。イエス様「私を信じなさい。それがあなたがたのすべきことです」。すると人々「信じますから、そのパンをください!」。イエス様『わたしが命のパンである』。人々「どうやって食べるんだ?無茶苦茶や!私たちはこの人の両親を知ってるじゃないか」。追いかけまわしていた人々も、弟子たちの多くも、イエス様の元を去って行きました。

イエス様を食べて働くにはどうしたら?

イエス様は天地創造の始めから、御子キリストとして存在しておられました。そして私たちに必要な一切があるこの世界を創造し与えて下さいました。パンの奇蹟がなくても、実は私たちに必要なものをずっと、ただで、与え続けて下さっています。しかし私たちは神様を認めず感謝もしないで、この世界を貪り尽くし、互いに奪い合い、何もかも滅ぼそうとしてはいないでしょうか。しかしそんな私たちのために、この体のためだけではなく、永遠の命を与えるために、イエス様は来られました。私たちが招く滅びとその刑罰を十字架で死んで肩代わりし、三日目に復活して下さいました。それは私たちの罪が赦され、永遠の命と復活の体が与えられることの証しです。このイエス様を私の救い主として信じることが食べること。『わたし(イエス様)の父のみこころは、子(イエス様)を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう』と言われた通りです。では働くとは?イエス様を信じてイエス様に従うこと。去るのではなくついていく。もう少し具体的に言うと自分にできることを献げること。貪り奪うのではなく分かち合う。大人たちは何もしないで満腹したと思っていましたが、違いますよね。子供がお弁当をイエス様に献げたから。献げたら子供は食べられなくなったかというと?子供も多くの人々も満腹したのです。

私たちも命のパンであるイエス様を私の救い主として信じましょう。そして私にできることをイエス様に献げてまいりましょう。そして私たちみんなで豊かになりたいと思います。

10月22日(日)の礼拝は、創世記第23章1節〜20節から、「人生は祝福を目指す旅」と題してメッセージです。


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