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変わり始めるヤコブ

兄エサウの「かかと」をつかんで生まれたヤコブ。「押しのける者」「欺く者」ヤコブ。そんなヤコブを聖書は「穏やかな人」と記します。でも穏やかでない人。周りをも穏やかにさせない人。「穏やか」とは「完全」とも訳せます。この男のどこが完全?聖書が言う完全とは神様に向いて聞いて従うこと。神様の恵みを受け取って生きること。神様の前に真実であること。そう言う意味でもヤコブは完全からほど遠い。でもそんなヤコブが変わり始めました。一体何をもって変わり始めたのか?ということで2月4日(日)の礼拝は、創世記第32章1節〜21節から、「変わり始めるヤコブ」と題してメッセージでした。

神の言葉をつかむことによって

ヤコブは叔父ラバンと何とか折り合いをつけて別れることができました。しかし一難去ってまた一難。最大の危機を迎えます。エサウとの再会。故郷に近づくと『神の使い』たちが出迎えます。ヤコブは「これは神の陣営だ!」と励まされますが、エサウが400人を引き連れて来るとの知らせに恐怖のどん底に陥ります。ヤコブは財産を二つの組(陣営)に分けます。一つをエサウが襲って失っても、もう一つを残すため。しかし心穏やかになりません。ヤコブは祈る。その祈りは神様がヤコブに約束された言葉を盾にする祈りでした。「神様、あなたが故郷へ帰れと言われました。だから帰ってきました。あなたが親族に行けと言われました。だからエサウに合わねばなりません。あなたは子孫を海の砂のように増やすと言われました。だから失うようなことはなさいませんよね」と言わんばかり。神様の言葉を都合良く利用しているのではありません。神様がヤコブに言われた言葉通りに成ることを求めている。神様の言葉を成す責任は神様にある。そして神様にとってご自身の言葉が成ることは最も喜ばしいこと。だからヤコブにしろ私たちにしろ、神様の約束の言葉をしっかりとつかんで祈り求めることは、神様に喜ばれることなのです。

神のみわざを顧みることによって

『あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました』。次にヤコブは神様が施された『恵みとまこと』を顧みています。『まこと』とは「真実」です。ヤコブはかつてラバンにしたような苦労話や正当性の主張を神様に一切しません。今まで彼の後ろに追いやっていた神様の恵みと真実が前面に出ています。家族も財産も、そして「我の力」さえ、すべて神様からのものだと認めるに至ったのです。神様の恵みと真実は、神様の約束の言葉と共に私たちを取り囲んでいます。でもいつの間にか慣れていたり見失っていたりする。ヤコブにしろ私たちにしろ、神様の言葉が形として現れた恵みに目をとめ直し、神様の言葉に対する真実に「アーメン(真実です)」と応える者を、神様は喜ばれるのです。

自分を真実に表現することによって

ヤコブは神様の恵みと真実を『受けるに足りない者です』と告白し、『どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます』と祈ります。今までどこまで本当のことを言っているのかわからない、どこか強がっている、背伸びしているヤコブでしたが、ここにきて自分を隠さず、ごまかさず、正直に、不安や恐れを言い表している。これこそ等身大のヤコブ!真実な神様の前に真実なヤコブがある!ヤコブが祈った後、さらなる変化が現れます。エサウへのプレゼントをこれでもか!これでもか!これでもかー!と用意したのです。先ほど二つの組に分けたのは「失っても仕方がない」という消極的な考えからでした。でも今度は?「惜しむことなく与えよう、分かち合おう」という積極的な態度になっている!流れが変わった!

人が真実になること。これこそ祝福を広げるために無くてはならない私たちの姿。完璧になることで祝福が広がるのではない。自分の弱さ愚かさ問題を神様の前にも人の前にも認めるとき、祝福の門は開くのです。でも真実になることが一番難しい、と感じますか?だから神様の約束の言葉と恵みと真実が先行するのです。神様の言葉をつかみ、神様の恵みと真実を認めるなら、ヤコブにしろ私たちにしろ真実になれる。神様は強がらない肩肘張らない等身大の私たちを最も喜ばれる。そして惜しみなく祝福を注ぎ、あふれさせ、広げる器として下さるのです。

2月11日(日)の礼拝は、変わり始めたヤコブの後半戦。創世記題32章13節〜32節から、「負けて勝つ神に変えられる」と題してメッセージです。

 


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