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祝福の人間関係

ヤコブは神様に食らいつき、神様もヤコブにガッツリ向き合われました。背伸びしていたヤコブが等身大の真実なヤコブになりました。ヤコブは我の力を失いましたが、人への恐れもなくなりました。祝福は人を押しのけ騙し奪い取るものではなく、神様からの恵みとして求め与えられ分かち合うものだと知りました。さあ、神様とヤコブの関係からヤコブとエサウの関係に視点はうつります。ということで2月18日(日)の礼拝は、創世記第33章1節〜20節から、「祝福の人間関係」と題してメッセージでした。

へりくだる

ヤコブはエサウのためにいくつもプレゼントを用意しました。つかえめとその子どもたち、二人の妻とその子どもたちも順番に並べました。この準備はエサウからわが身を守るためではありません。エサウを喜び迎えるため。エサウが400人を引き連れてきた時、ヤコブは先頭に立ってエサウを迎え『七たび地に身をかがめ』ました。エサウはヤコブに走り寄り抱き上げ口づけし泣いて喜びました。物事をあまり深く考えない、目先のことだけの、あっけらかんとしたエサウ。でもあの時のことはなかなか忘れられなかったはず。ヤコブの『七たび地に身をかがめ』とは、「わたしはあなたのしもべです」という表現方法。ヤコブは自らをエサウのしもべとした。今までのヤコブのような偽りの見せかけの行為ではありません。神様の前に真実になれたイスラエルとしてのへりくだった行為です。真実でなければ「へりくだれ!」と言われてもへりくだれない。真実であれば自然とへりくだれる。真実は伝わる。神様からの祝福は、真実な者を通して流れ、お互いの心を開くのです。

祝福を分かち合う

『あなたが喜んでわたしを迎えてくださるので、あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います。どうかわたしが持ってきた贈り物を受けてください』。このヤコブのエサウへの言葉の『贈り物』は「祝福」という言葉です。今まで人を押しのけ欺き祝福を奪い取るヤコブだったのが、祝福をしいて分かち合うまでに変えられています。「エサウの顔を見て神の顔を見るようだ!」も今までのヤコブらしいおべんちゃらではなく、ヤコブの真実な喜びの表現です。今までは人の顔が気になり恐れがあった。でも真実になって神様に向き合い救いを得、心が晴れた。その神様への真実な顔を人に向ける時、お互いの顔もほころぶのです。

神を「私の神」とする

エサウは自分が住んでいるセイル(死海の東南)へヤコブを導こうとしますが、ヤコブは丁寧に断って、途中休憩を挟みながらゆっくりと、アブラハム・イサクが住んだ地域(ヨルダン川の西側)を目指します。そして馴染みのあるシケムに到着。シケムの子らから野の一部を買い取り、祭壇を建て、『エル・エルヘ・イスラエル』と名づけました。これは「『イスラエルの神』の神」という意味。ヤコブにとって「『私の神』という神様です!」ということです。かつて杖一本で家を出た時、石の枕元で、神様が祝福を約束されました。ヤコブは神様がその約束を果たされるなら『主をわたしの神といたしましょう』と言いました。そしてついに神様の言葉通りになった。神様のご真実に、ヤコブも真実にその言葉を実行したのです。

ここで私は一つ疑問が生じました。かつてエサウとヤコブが生まれる時、母リベカに神様は『兄は弟に仕える』と言われました。後の二つの民族のことを言われもしたのですが、今回の箇所ではヤコブがエサウのしもべだと表明しています。弟が兄に仕える。どういうこと?「仕える」とは「耕す」という言葉。創世記第2章で出てきました。地を治めることは地を耕すこと。支配することは仕えること。一番上でふんぞり返って人やものをこき使うことじゃない。逆!へりくだっって分かち合って仕えること。神様はうなじのこわい(かたい)ヤコブを耕すためにエサウを用いられたのです。そして今度はヤコブがエサウに仕えて治めていくことになるのです。食うか食われるかではなく耕し耕されていくお互い。先の者は後になり後の者は先になる。神様の知恵は深い。神様の祝福は人間関係のどんなに深くかたい溝をも耕して埋め尽くして満ちるほどになるのです。私たちもこの神様を私の神とし(また感謝し)、神様の前にも人の前にも真実に、与えられた祝福を喜び楽しんで分かち合ってまいりましょう。

2月25日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章1節〜11節から、「復活の事実」と題してメッセージです。


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