カテゴリー

復活への信仰

パウロが宣べ伝えてきた福音、コリント教会も信じ立ち続けてきた福音。その核心はキリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、よみがえっていること。このよみがえり、復活こそキリスト教がキリスト教たるゆえん。また信じるか信じないかの分かれ目になる出来事。なぜ復活なのか?なぜ信じるのか?ということで、3月4日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章12節〜19節から、「復活への信仰」と題してメッセージでした。

復活は私たちのためにある

『さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか』。コリント教会の中に『死人の復活はない』と言う人々がありました。キリストの復活も他の人々の復活もない、ということか?キリストの復活はあっても他の人々の復活はない、ということか?パウロはどっちもある!と言います。しかもキリストの復活があったからみんなの復活もある、と言うのではなく、みんなの復活があるからキリストの復活がまずあったんだ、と言うのです。神様は私たちの復活を前提にキリストをこの世に送り込まれました。現代の科学技術で人や動物の体再生の可能性は出てきました。しかしその体に入る霊までは決められません。体は同じでも別人または別の個体となります。ですから正確には復活になりません。しかし神様は、死を持って一旦体を失った私たちに、朽ちない、似て非なる、新しい体を与えられます。これが復活。ノアが生きた洪水前の世界は人がなかなか死なず、地は暴虐に満ち破滅状態でした。洪水後、人の寿命は今と変わらなくなっていきました。人間は罪を持ったまま永遠に生きられません。もし科学技術でそうなったとしても、またあの洪水前の世界になってしまいます。死は人間が永遠に苦しんで生きることがないために必要とも言えるのです。しかし神様は死を、私たちを滅ぼすための最期の壁として置かれたのではありません。罪を持たない状態に復活させ、永遠に健やかに生きられるようにするための「信仰の門」とされたのです。神様は私たちの救いのために、死と復活をセットで用意されているのです。

復活がなければ信仰はむなしい

『もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい』。キリストは私たちの罪を身代わりに背負った十字架で、永遠の滅び、完全な滅び、神様に見捨てられたという死をただ一人経験されました。でも復活がないなら?キリストの犠牲的な行為はありがたいですが、罪が赦された証拠は何もありません。キリストにせよ、私たちにせよ死んだままというのは犯罪人が監獄から出られないのと同じ。しかしキリストは墓から出られた。復活している。それが罪の赦された明確な証拠。キリストは元々神の子であり罪はなく死ぬ必要はありません。ですからその死は純粋に私たちの罪のため。その復活は純粋に私たちの罪の赦しの証拠。ですから私たちの復活もまた確かにあるのです。キリストの死だけでは福音にならない。復活あっての福音。私たちが無いことを有ると信じて、命を懸けて伝えているなら、これほどむなしいことはありません。憐れな嘘つきです。私たちは無いことを有ると信じているのではなく有るから有ると信じている。「じゃあ別にクリスチャンにならなくてもみんな復活できるんじゃないの?」と思われるかもしれません。そうであれば復活後の世界もまた暴虐と破滅が続きます。キリストの福音は私たちの罪と死への完全な治癒薬です。先ほど死は「信仰の門」だと言いました。私が罪を自覚せず、福音を信じないなら(飲まないなら)私の罪はそのまま。死は「滅びへの門」となります。しかし私が罪を自覚し、福音を信じるなら(飲むなら)私の罪は赦され除かれ、死は「救いの門」「復活への門」となるのです。復活への信仰がなければ私の存在そのものがむなしくなってしまうのです。キリストの復活は私の(あなたの)罪の赦しのため、復活のため、新しく永遠に健やかに過ごすためにあるのです。

次回は、復活の事実を知り、復活への信仰を持ち、福音を固く守り続ける生活について学ぶことといたしましょう。3月11日(日)の礼拝は、コリント人への第一の手紙第15章20節〜34節から、「復活に向かっての生活」と題してメッセージです。

 


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved