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復活の主と共に歩く

クリスマスはキリストの誕生を祝う日として多くの人が知り、キリストの誕生を認めています。最近イースターもキリストの復活祭として多くの人が知るようになりましたが、キリストの復活は認められているでしょうか?私たちにとって、クリスマスをいくら盛大に祝っても、復活がなければとてもむなしいものです。クリスマスに勝ってイースターこそ喜ばしい。なぜなら私たちの救い、永遠の命と復活はキリストの復活の事実に基づいているからです。ということで、4月1日(日)のイースター召天者記念礼拝は、ルカによる福音書第24章13節〜35節から、「復活の主と共に歩く」と題してメッセージでした。

見えずとも寄り添われる主

見えたら信じますか?しかし見えていても信じないのが人間です。「メガネがない!」「携帯がない!」目の前にあっても探し回っていませんか?私たちの五感はあらゆるものを見て感じていますが、それを甚だしく取捨選択し、ほとんど思い込みで世界を見ています。キリストは以前から弟子たちに、自分は復活すると言われていました。しかし弟子たちは誰も信じていませんでした。エルサレムからエマオへ向かう2人の弟子もそう。足取りは重く、表情は暗く、結論の出ない「キリストの遺体消失」事件を話し合っていました。そこへキリスト。何を話しているのか尋ねられます。2人は先の事件を話します。2人はキリストを見て話したはず。しかし「キリストは死んだ。復活するはずがない」という激しい思い込みゆえキリストがわかりませんでした。2人はキリストこそローマの圧政から自分たちを解放してくれる救世主だと思っていました。しかし死んで終わりならどんな力ある人も普通の人。弟子たちはそういうありきたりな、彼らのイメージにおさまる救い主しかありませんでした。だからそれにおさまらないキリストがわからなかった。しかしキリストは復活された。そして相手が信じようが信じまいが、気づこうが気づくまいが、寄り添って下さるお方、寄り添いたいと近づいて下さるお方なのです。

聖書を説き明かされるキリスト

キリストは意気消沈している2人に、聖書全体(今の旧約聖書)からご自分について記されたことを説き明かされました。私たちは見ていない事実を確認する方法があります。その人のものとされる物や文書、その出来事に関する記録などを丹念に辿ることでその人の実像に迫ります。事件を追う刑事、歴史を研究する学者、お宝探しをするトレジャーハンターなど、同じ手法を使っているのではないでしょうか。私たちは聖書の言葉を丹念に辿ればキリスト復活の事実に突き当たる。聖書は千数百年の間に40人ほどの手によって記されました。主筆は神様なのでてんでんバラバラな40人であっても全体は一貫性と調和があります。しかもあまたの証言に基づいて記されている。キリストの復活は、「同時に兄弟500人」が目撃。女性や子どもも含めればもっと。キリストは復活後40日間地上におられたのでその目撃数はもっともっと。また聖書はグーテンベルクの印刷技術の発明まで、正確に大量に書き写されました。それはどんな歴史的書物の写本をもはるかに凌ぐ数。さらに聖書には過去現在未来が記されていて預言の多くは実現。実現していない預言は外れではなく、これからということ。聖書の言葉とその歴史は聖書自らその確かさを証明します。キリストの復活は聖書の預言の実現。そして事実。見えても見えなくても、信じても信じなくても、事実は事実としてそこにある、私たちと共にある、ということなのです。

心を燃やされるキリスト

2人の弟子はキリストを引きとめ、宿で夕食を迎えます。キリストがパンを裂き2人に手渡された時、彼らはキリストがわかります。聖書が語るキリストと現実のキリストがつながった。しかしその瞬間キリストはおられなくなった。しかし2人は変えられていました。彼らはエマオからエルサレムへ向かいます。足取りは軽く、表情は明るく、キリストは復活されたという確信に満ちて。キリストが道々話して下さった時から、心が燃えていたことを思い出しながら。エマオとは「温かな井戸」という意味があるそうです。温泉が湧き出ていたのか?とにかく。2人は体が温まる以上に心が燃やされていました。私も先輩クリスチャンが召される度に、見送る度に、思い起こす度に、熱くする思いがあります。「やがての時、共に復活のからだをいただいて、新しい天と地で、喜び合える日を楽しみにしています!」。悲しいけれど悲しみで終わらない。心が慰めと再会の希望、復活の希望で熱くなるのです。キリストの復活に連なる私たちの復活をいよいよ身近なものとしてくれるのです。

今もキリストは見えなくともいつも寄り添って下さっています。聖書の救いの豊かな世界を教えて下さいます。重くなりやすい、暗くなりやすい、冷えやすい私たちの心に、変わることのない慰めと喜びと希望と熱い思いを与え続けて下さいます。この主と共に歩き続けてまいりましょう。

4月8日(日)の礼拝は、創世記第34章1節〜第35章8節から、「祝福の境界線」と題してメッセージです。

 


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