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祝福の境界線

私たちの生活には、様々な倫理的価値観や宗教的慣習が影響しています。私たちは信仰生活とそうでないものとの線引きに悩むのではないでしょうか。ある人は異なるものを徹底的に排除しようとします。ある人は異なるもの全て受け入れ、信仰は心の中だけのものとします。ある人は社会的な奉仕によって、社会を変えればいいとします。どれが正しい?どう線を引く?ヤコブ一家も同じような問題に直面していました。ということで、4月8日(日)の礼拝は、創世記第34章1節〜第35章8節から、「祝福の境界線」と題してメッセージでした。

祝福の境界線を出てしまったデナ

ヤコブはハモルの子シケムの町に土地を買いしばらく生活します。アブラハムやイサクが行き来した土地。でもヤコブ一家は知らないも同然。そんな町に、新しい友達を求め、ヤコブの娘デナが一人で出かけ、シケムに引き入れられ辱められてしまいます。当時女性は単独で出歩かないのが常識。必ず家族か僕(しもべ)が同伴しました。しかしデナは全くの無防備。そして事件は起こった。しかし土地の有力者の息子はそれが悪いことだと微塵も思いません。『引き入れ』という言葉は「めとる」という意味もあります。一目惚れで強引に妻にしようとした。そしてデナを家に閉じ込めたまま、親子でヤコブたちの元へやって来て、これからお互いが婚姻関係を結ぶことでどんなにメリットがあるか、話を持ちかけました。祝福とは自分だけではなく周りにも広げるもの。しかし祝福の境界線を出てしまっては、自分が祝福を失うだけではなく、周りにも祝福を広げることができなくなるのです。

祝福の境界線を踏みにじったシメオンとレビ

『ヤコブの子ら』は悲しみ怒りました。そしてハモルとシケムに『偽って』逆提案します。「われわれと婚姻関係を結びたいなら割礼を受けろ」。それはハモルとシケムの心にかない、町に帰って人々に説明しますが、本音がポロリ。『ただこの事だけで、この人々はわれわれに同意し、われわれと一緒に住んで一つの民となるのだ。そうすれば彼らの家畜と財産とすべての獣とは、われわれのものとなるではないか』。デナを突破口にヤコブたちの全てを取り込もうとしていました。しかしキツネかタヌキの化かし合い。デナの兄シメオンとレビは、割礼に痛むハモルとシケム、そして町の男性をことごとく殺害、妻子を虜にし、財産を奪い去りました。デナは連れ戻されましたがここまでする必要があったのか?祝福とは神様の命と支配と愛を周りに広げること。しかし二人の兄弟は祝福の境界線を踏みにじり、死と偽りと恐怖を周りに広げました。全く無防備なデナ。極端に過激化したシメオンとレビ。世俗化か原理主義か。私たちは様々な場面で、この極端な姿を見るのではないでしょうか。

祝福の境界線を敷き直したヤコブ

ヤコブはどうした?いつになく気弱なヤコブに神様は言われます。『あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、…あなたに現れた神に祭壇を造りなさい』。ああベテル!神の家。私の出発点。共にある神との旅の始まり。私は神の家に住まう者だった!ヤコブは一家に異なる神々を捨てるように言います。異教の民に非難囂々だった子らの中にも、こっそり異教の神を持ち込んだ者がいたのかも知れません。今回の事がなくとも祝福の境界線があちこち綻んでいたのかも知れません。ヤコブは言います。『われわれは立ってベテルに上り、その所でわたしの苦難の日にわたしにこたえ、かつわたしの行く道で共におられた神に祭壇を造ろう』。ヤコブに力強さが戻った。どんな時も変わりなく共におられ、こたえて下さる神様を礼拝することこそ、祝福の境界線をはっきり示すこと。はっきりしたらどうでしょう。周囲の町々に畏怖の念が生じ、ヤコブ一家に手出しする者はありませんでした。

今回のことで見えてくる祝福の境界線。それは私たちが神様の礼拝の民である、ということです。それがミニマムな境界線。しかしこの境界線は見えません。時に出てしまったり、踏みにじっていたり、綻んだりすることもある。それに気づけば何度でも引き直す。そして神様を礼拝する私たちが、神様の祝福を喜び楽しんで周りに分かち合うことで、祝福の境界線を広げていくのです。

4月15日(日)の礼拝は新シリーズ、マルコによる福音書第1章1節〜8節から、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と題してメッセージです。


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