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祝福の大河に垣間見る人間模様

祝福の境界線を出て危険に遭ったデナ。祝福の境界線を踏みにじって悲惨をもたらしたシメオントレビ。しかし祝福の境界線を引き直し一家挙げて神様を礼拝したヤコブ。そんなヤコブに神様は言われます。『わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう』。懐かしい祝福の言葉。アダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブへ引き継がれた祝福。しかしそんなヤコブにいくつもの出来事が襲います。ということで、4月22日(日)の礼拝は、創世記第35章1節〜29節から、「祝福の大河に垣間見る人間模様」と題してメッセージでした。

デボラとラケルの死

デボラはヤコブのうば。いつの間にかヤコブ一行に加わっていました。かつてヤコブが旅に出る前、母リベカは、ヤコブとエサウの件のほとぼりが冷めたら、リベカの兄ラバンのもとに迎えをやるからね、と言いました。それがデボラだったのかもしれません。またリベカはすでに死んで、カナンに帰ってきたヤコブ一行をデボラが迎えたのかもしれません。母親のような存在のデボラが死んだ。さらに最愛の妻ラケルが第二子出産で命を落とします。ラケルは死の際にその子に『ベノニ』と名づけます。「苦しみの子」という意味。今までも自分の子や自分のつかえめが生んだ子に、ラケルは思いや感情そのままに名前をつけてきました。今回もラケルらしい名前。しかしヤコブはその子に『ベニヤミン』と名づけました。

ルベンのスキャンダル

ヤコブはベテルから少しずつ南に移動します。父イサクが南で生活していたからです。ラケルを葬ったベツレヘムより少し南で生活していた頃、ヤコブの長男ルベンがヤコブのそばめと寝るというスキャンダルを起こしました。デナの件でヤコブの兄弟たちは甚だ悲しみ怒りました。『イスラエルに愚かなことをしたためで、こんなことは、してはならぬ事だから』でした。今回の件も父イスラエルにしてはならぬこと、イスラエル一家にあってはならぬことでした。彼らのあの怒りはどこへ?自分は棚の上?ルベンの行為は「祝福の乱用」と言ったところ。神様が祝福のために備えて下さったものを神様が意図されたように大切に用いるなら豊かな祝福となる。しかし乱用するなら祝福から外れていく。このことはルベンとルベンの子孫に影を落とすことになりました。

イサクの死とヨセフの喪失

ついにヤコブはイサクの住む土地に戻ってきました。どれほど一緒におれたのか?ヤコブやヨセフの年齢の記述から計算して20年前後といったところ。やがてイサクも死を迎えます。ヤコブはエサウと共にイサクを葬ることができました。しかしこの時、ヤコブの悲しみはこれだけではありませんでした。最愛の子ヨセフが失踪していたのです。兄たちがヨセフを奴隷として売り飛ばしたのですが、兄たちは血のついたヨセフの服を持って帰ってきたので、ヤコブはヨセフが獣に殺されたと思い込みました。そのヨセフ失踪期間がイサクの死と重なる。ヤコブは後に『わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません』とエジプトのパロの前で語っています。度重なる悲しみに見舞われたヤコブらしい言葉でした。

そんなヤコブでしたが、最後に生まれた子どもに『ベノニ』ではなく『ベニヤミン』と名づけた。「苦しみの子」ではなく「右手の子」「力の子」「名誉の子」「後継者」。一見、祝福が途切れるように思えることやマイナスに思えるようなことが次々と起こる。しかし祝福の大河は途切れない。決してマイナスではいられない。神様の祝福が、神様の力によって、神様の名誉にかけて、子々孫々まで貫く!ヤコブはそう信じた。神様の祝福に執念を燃やしたヤコブ。時に弱音も吐きながら、しかし何が起こっても、ヤコブ自身は神様の言葉に望みを置き、神様に従い続けたのです。私たちも信じています。祝福の神様に従い続ける者は、途中たとえ何があろうとも、祝福の大河の行き着く先で相見えることを。

4月29日(日)の礼拝は、創世記第36章1節〜43節から、「祝福の傍流」と題してメッセージです。


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