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悔い改めて福音を信ぜよ

4月から月に一度、マルコによる福音書に耳を傾け始めました。そしていよいよイエス様の第一声が記されます。私たちはどんな第一声を聞くのでしょうか。ということで、7月15日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章14節〜15節から、「悔い改めて福音を信ぜよ」という題でメッセージでした。

悔い改めなさい

『ヨハネが捕らえられた後』とあります。ヨハネとはバプテスマのヨハネ。『罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えて』いました。人々はヨハネのもとに来てヨルダン川で続々とバプテスマを受けました。罪とは「的外れ」。的とは私やこの世界を創造された神様。その神様に向かない聞かない従わない。すると段々私のことも世界のこともわからなくなる。的外れなことをし始める。それがひどくなると犯罪や破壊になっていく。悔い改めとは自分の罪を認め、的である神様に向き直り聞き直し従い直すこと。その意思表明としてバプテスマを受ける。罪ゆるされる。そこへイエス様登場です。イエス様もヨハネからバプテスマを受けられた。神の子なのに、罪を悔い改めようがないのに、なぜ?イエス様がバプテスマを受けられたら、天から『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』との声。罪のゆるしを得させるバプテスマは、私たちを神の子・神の家族とする新しい恵みが加えられたのです。バプテスマは私たちの新しい誕生日。あなたもイエス様の第一声を聞いたなら悔い改めるのです。

福音を信じなさい

当時の人が「福音」と聞けば「戦いでの勝利」をイメージしました。まず伝令が本国に勝利を伝えます。その後、勝利した本体が戦利品を携え凱旋してくる。そして共々に勝利を分かち合い喜び合う。ではイエス様の福音とは?地上にあるあの国、この国の勝利か?いいえ。『神の福音』『神の子イエス・キリストの福音』です。ではどんな福音?第1章の1節からここに来るまでのわずかな間にもいくつも福音がありました。悔い改めるだけで罪ゆるされ神の子とされるバプテスマ。三位一体の神様との交わりの中での成長。荒野のような、誘惑多い世の中にあっても、三位一体の神様という「天からの命綱」で守られ導かれる。これでもか!これでもか!これでもか!でもこれらはほんの「序の口」「はじまり」に過ぎません。とにかく福音の全体はわからなくとも、あなたもイエス様の第一声を聞いたなら『神の福音』『神の子イエス・キリストの福音』が私のものになる!と信じるのです。

そうすれば神の国はあなたに

『ヨハネが捕らえられて後』『時は満ちた』とは一つの時代が終わり新しい時代が幕を開けた、古いものが去り新しいものが来た、ということを意味します。そしてイエス様は『神の国は近いづいた』と言われます。神の国は来た!ではなく近づいただけ?あなたが「来た!」と言えるのは、あなたが悔い改めて福音を信じる時。福音の本体は神の国。当時の人が「神の国」と聞けばメシヤ(キリスト)が政治的・軍事的に世界を支配する、というイメージがありました。マッチョなリーダーと世界帝国です。昔も今もどの国も、宗教が違っても、無宗教でも、そんな強い指導者や国を求めていないでしょうか。しかしイエス様も神の国もそういうイメージとは全く異なります。神の国はシンプル。神様の支配があるところ。そして重要なのはあなたに神の国があるか?です。神の国は一人一人から始まる。だからイエス様は、あなたに向かって『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』と語りかけておられるのです。

神様の支配なんて怖い?私たちは「的外れ」ゆえに、本来の支配を失っています。『神の福音』が何からの勝利かを知れば、神様の支配が歓喜にあふれたものであることがわかります。しかし今までのところは「序の口」「はじまり」「幕開け」に過ぎません。『神の福音』も『神の国』も大きく豊かです。全体がわからなくてもイエス様の第一声に従えば、もうそれはあなたのもの。そして段々わかってきます。

7月22日(日)の礼拝は、創世記第39章1節〜23節から、「変えない生き方」と題してメッセージです。

 


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