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キリストを宣べ伝える者

コリント教会はパウロの使徒としての「資格」に疑問を持ち、後から来た自称教師によって、さらにパウロ批判の炎は燃え上がりました。パウロはコリント教会に怒りや悲しみや落胆を露わにするのではなく、パウロが神様に召されたキリストの使徒であることを語り始めました。パウロはまず自分が新しい契約に仕える者だと語りました。そして今回、主に仕える者とそうでない者との違いを語ります。ということで、8月12日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第4章1節〜6節から、「キリストを宣べ伝える者」と題してメッセージでした。

この世の神に向かわせる者

パウロは自称教師を念頭に置いているようです。彼らは『この世の神』に向かわせる者です。『この世の神』が本当にあるわけではありません。人々が神だと思っている「神でないもの」です。宗教的なリーダーや政治的リーダー、お金や物、名声や権力等々。そういった「神でないもの」に向かわせる者。彼らには『恥ずべき隠れたこと』があったようです。また『悪巧みによって』歩いていました。会いもしないパウロを批判し、分裂を引き起こすような事をしていたからです。さらに『神の言を曲げ』ていました。パウロは『神の言を売り物にせず』純粋に語りましたが、彼らは神の言に混ぜ物をし、曲げて全く別物にしていました。私たちは「神のかたち」として創造されました。神様に向いて聞いて従う時、見えない神様を現すことができる。神様の命と支配と愛がある。しかし「神でないもの」に向いて聞いて従うならそれらのものを失います。その状態が呪い、行き着く果てが滅びです。「神でないもの」に向かわせ聞かせ従わせる者は、自分が滅びるだけではなく、他の人々の心にも覆いをかけ、思いをくらませ、滅びに至らせます。パウロはそれを『神のかたちであるキリストの福音の栄光の輝きを、見えなくしている』と記すのです。

キリストを宣べ伝える者

まずキリストを宣べ伝える者は神様の御前に立つ者です。『推薦する』は「立ち続ける」、『落胆せず』は「あきらめない」という言葉。パウロは神様の御前で、人々の良心に対して、あきらめず立ち続ける者。神様に向いて聞いて従う。隠し事をしないで問題を明らかにし、乗り越え、なおこじれるなら、あきらめず向き合い続ける。今の時代、問題を指摘されればどうですか?隠したり、嘘をついたり、逆ギレしたり。それを見る人の良心は麻痺しませんか。でも問題に真摯に向き合うなら?「ああ、私にも問題はある。でもあんな風に向き合って取り組んで乗り越えればいいんだ」と、良心を呼び覚ますことにならないか。次にキリストを宣べ伝える者はキリストの光に照らされる者です。パウロはかつて教会を迫害する者でした。しかし復活のキリストに出会い、その栄光に照らされ、彼の心に神様の命と支配と愛が注ぎ込まれ、『真理を明らかにする』者、『神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを』見えるようにする者、『キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにする』者となったのです。パウロは神の子キリストこそ神のかたちだとわかりました。私たちはキリストによって神の子とされるのみならず、罪によって見失っていた神のかたちも取り戻すのです。神のかたちを回復し、神の子として栄光に向かって成長するのです。キリストに神のかたちと神の子の原型がある。私たちの「自らの由(わけ)」がある。だからパウロはキリストを宣べ伝えるのです。

神様の前に立ち続けるなんて堅苦しい?キリストがモデルやゴールなんて無理?キリストを伝えるなんてどうしていいかわからない?神様は監視されているのでも、にらみつけているのでも、罰を下そうと身構えておられるのでもありません。私たちはキリスト共に神の子とされた。神様は温かなまなざしを向け、あふれる愛を注ぎ、必要なものを与え、命に満たして下さいます。一番リラックスできて、身軽になって、力が発揮できるのが神様の御前。キリストはいつも神様の御前でノビノビ生きられました。神様が太陽で、キリストがその光のようなもの。私たちは神様の御前で、キリストの光を燦々と浴びるのです。まずはそこから始めればいいのです。

8月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章16節〜20節から、「ついていけばわかる」と題してメッセージです。


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