カテゴリー

神の大いなる救い

試練とは、その人が持つ弱さや罪が明らかにされ、真実になり、さらに良いものが現れるためのものでした。ヨセフのテストを通して、ユダが真実になった時、「神の大いなる救い」が現れました。ヨセフは神のイメージ。ユダは悔い改める私たち、かつとりなすイエス様のイメージ。ヨセフやユダの行動はひな形。完璧なひな形はありません。完璧ならそれは本物。そしてこの物語に現された「神の大いなる救い」もひな形です。このひな形の「神の大いなる救い」を通して、本物の「神の大いなる救い」を味わいたいと思います。ということで、11月4日(日)の礼拝は、創世記第45章1節〜28節から、「神の大いなる救い」と題してメッセージでした。

救うためのヨセフ 4節〜8節

ヨセフはついに素性を明かします。ここに『救う』『救(すくい)』という言葉があります。前者は「栄養を与える」、後者は「解放する」という言葉。神様はヤコブ全家に食糧を与え養い、危機的状況から解放するため、先にヨセフをエジプトに遣わされました。田舎の17歳の少年だったヨセフ。兄たちはヨセフを売った後どうなったか知らない。ヤコブは死んだと思い込んでいる。しかし今、エジプトの栄光を身にまとったヨセフが現れた!このヨセフ、イエス様に似ている。田舎に生まれ育ち、同胞から憎まれ、異邦人に渡され、殺されよみにまで降り、よみがえられたイエス様。今は天に昇られ見えません。しかしやがて神の国の栄光を身にまとって私たちの前に現れる。ヨセフの兄たちもイエス様の同胞もあらん限りの憎悪を持って悪をなした。しかし神様はそれさえ用いて、悪をなした張本人さえ救う「大いなる救い」を用意された。しかし私たちはそれで自分の行いを正当化できません。罪を認め真実にならない限り自らの行為で裁かれる。罪を認め真実になるなら「大いなる救い」に与れる。この測り知れない知恵と愛の神様に感謝したいと思います。

最上のものを振る舞いたいパロ 16節〜20節

ヨセフは喜び家族のために便宜を図りますが、『パロの家』はさらに喜び便宜を図ります。パロは言います。『わたしのもとへきなさい』『良い物を与えます』『この国の最も良いものを食べる』『(カナンにある)家財に心引かれてはなりません』『エジプト全国の良い物は、あなたがたのもの』。赤の他人とは思えない破格の待遇。このパロ、神様に似ている。私たちがイエス様の救いに与るなら、天上では大きな喜びがあります。神様も御使いも喜ぶ。赤の罪人ではなく、神の国の国民、神の子となったから。地上でどんなに貧しかったか、富んでいたか、問題ではない。地上の物に心引かれる必要は全くない。新しい天と地の祝福をイエス様と共に全て受けつぐから。新しい世界の最上のものは全て私たちのものだから!この破格の親切を持って喜んで下さる神様に感謝したいと思います。

車を見て信じるヤコブ 24節〜28節

ヨセフは兄たちをヤコブへ遣わす時『途中で争ってはなりません』と言います。「争う」は「震える」「わななく」という言葉。今や全てが明らか。兄たちは自分の悪事をヨセフやヤコブにどう謝ったらいいだろうと心中震えわなないたと思います。ヨセフは「ありのまま言えばいい」と言いたかった。だから兄たちはヤコブに『ヨセフが語った言葉を残らず彼に告げ』ました。ヤコブは気が遠くなった。兄たちの嘘と悪事よりも、ヨセフが生きていてエジプトのつかさであることの方が圧倒したからです。ヤコブはまだ見ぬヨセフを、贈られた車を見て信じました。ヤコブは今まで不満たらたらお先真っ暗だったのに『満足だ』と言った。車を見て全てが変わったのです。私たちは神様の前に罪を告白します。ありのままに。それが私たちの真実。しかしイエス様がその罪の死からよみがえられた真実はそれを圧倒する!イエス様は見えません。新しい天と地の祝福もまだです。でも十字架の向こうにそれはすでにあると信じることができる。十字架を見て満足し喜ぶことができる。

ヨセフの車は「大いなる救い」の証拠。ヤコブはそれに乗りさえすれば良かった。私たちの「大いなる救い」の証拠はイエス様の十字架。それに与りさえすればいい。神様のヨセフによる「大いなる救い」はあの時代のあの人々だけの救い。でも神様のイエス様による「大いなる救い」は全時代の全ての人々の本物の救い。このとてつもないスケールの「神の大いなる救い」を用意して下さった神様に感謝したいと思います。

11月11日(日)の礼拝は、創世記第46章1節〜第47章31節から、「神に導かれる人生にまさる確かさはなし」と題でメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved