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神に導かれる人生にまさる確かさはなし

「終活」。自らの人生を総括し、その終わりに向けて準備すること。ヤコブの人生も終わりを迎えようとしていました。創世記第46章から第47章にかけて、ヤコブの人生の総括的出来事が記されます。ここでヤコブの二つの名「ヤコブ」と「イスラエル」が入り乱れています。またヤコブが生きているのに『ヤコブはエジプトの国で十七年生きながらえた。ヤコブのよわいの日は百四十七年であった』とあります。アブラハムやイサクの時は死に際して記されました。これはヤコブという個人的な歴史から、イスラエルの民の歴史に移りつつあることを示しています。ヤコブの総括的な出来事から私たちの人生にもある恵みを見させていただきましょう。ということで、11月11日(日)の礼拝は、「神に導かれる人生にまさる確かさはなし」と題してメッセージでした。

神様が共におられる

エジプトからヤコブに迎えが来ました。パロは「家財に心引かれるな。エジプトの良いものはあなたがたのものだ」と言いましたが、ヤコブは財産を携えて出発します。途中、ベエルシバで神様を礼拝します。ヤコブを富ませ導くのは神様だから。しかし約束の地を離れエジプトに下ることに少々不安があったようです。『恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民とする。わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフ手ずからあなたの目を閉じる』と神様。エジプトで死ぬことが示唆されます。しかし『必ずあなたを導き上る』?二つの意味がある。ヤコブの遺体をカナンの地へ。そして大いなる国民となったイスラエルをカナンの地へ。神様はヤコブが死んでもなお共におられ、多くの子孫をも『あなた』と呼んで共にあって導かれる。それが神様の約束だから。私たちも同じ神様を信じている。神様は私たちが信じる以上に、確かに救い祝福するために、強力にぴったりと共にいて下さるのです。

ふしあわせと言えども

ついにヤコブはヨセフと再会します。パロが年齢を尋ねると『わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません』とヤコブ。かつて、神様そっちのけで、我の力で祝福をもぎ取ろうと、トラブル連発だったヤコブ。そんな苦労を思い出していたのか?確かにアブラハムやイサクの年齢には及ばない。しかし父祖たちにも並々ならぬ苦労はあったし、ほめられない事件も起こしました。その辺りは変わらない。逆に「ヤコブ。お前の方が祝福されているぞ」と父祖たちに言われそう。子や孫がたくさん与えられていたから。アブラハムの民でもイサクの民でもなく、イスラエルの民になりつつあったから。「隣の芝は青い」。自分にあるものを感謝しないで、ないものを比べている。神様に導かれる互いの人生は比べても意味がない。なぜなら、私の人生は、私と神様とでしか得ることのできない人生だから。神様は私にとって最上の体験と救いと祝福の人生として下さるのです。

裏が表になるごとく

飢饉は続く。エジプト国民は食料を銀で買い、銀は国有化。今度は家畜で買い、家畜も国有化。さらに田地で買い、田地も国有化。最後は自らで買い奴隷になりました。ヤコブ一家は?エジプト人にとって羊を飼うヤコブたちは『忌む者』でした。であれば、国有化された家畜は誰が管理する?ヤコブ一家がうってつけ!エジプトの家畜部門を任されます。そして飢饉とはいえ草が生える肥えた土地としてゴセンの地をあてがわれました。エジプト人には忌む者でも、エジプト人のように奴隷にならず、緑多き地に住まうことができた。まさに表が裏に、裏が表になるような出来事。私たちも「神様が共におられる!」と信じていても「ふしあわせだ」と思えるような状況や状態になることがある。しかしどんな状況や状態にあっても、神様の救いと祝福は現れてくる。ヤコブはヨセフに『親切と誠実とをもってわたしを取り扱ってください』と自分の亡骸を父祖の墓に葬るよう誓わせます。この『親切と誠実』こそ「神様の約束に基づく愛と真実」を現す言葉。ヤコブは「私の人生はふしあわせだ」という言葉とは裏腹に、腹の底では神様の約束と真実の確かさに全面信頼していたのです。

神様はあなたと共にいて、あなたの人生において、他と比べられない最上の救いと祝福を現して下さいます。どんな状況や状態にあっても。それが神様の約束に基づく愛と真実。強力で確かな神様の臨在と導きなのです。

11月18日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章29節〜31節から、「安息日の家族」と題してメッセージです。


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