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再臨に備えた生活

世界があと2分で終わる!となると皆さんは何をするでしょうか?なぜ2分?「世界終末時計」があと2分を指しているそうです。第二次世界大戦後、1947年に時計ができた時はあと7分、ソビエト崩壊時あと17分、2018年は2分。今が一番短いそうです。増減をくり返して約70年。でも終末は来ていない。来ないんじゃない?聖書はイエス様が再臨されて「この」世界に終わりが来ることをはっきり記します。今、再臨が迫る終わりの時代。私たちは終わりの時代に(それが2分後か何年後かはわかりませんが)どう生活するべきでしょうか?とうことで12月9日(日)の待降節第2週礼拝は、テサロニケ人への第一の手紙第4章1節〜12節から、「再臨に備えた生活」と題してメッセージでした。

清さを保つ

『あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。神のみこころは、あなたがたが清くなることである』。『歩く』とは「生活する」という言葉です。テサロニケ教会は3週にわたるパウロの伝道で誕生した教会。でもパウロはもういない。迫害もあった。でも彼らは揺るがない。ただ再臨のことでざわついていた。パウロ自身、自分の存命中に再臨があるのではないかと思っていた節がある。『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち』とあるから。でも。だからと言ってざわつくんじゃない!再臨に備えた生活の一つ目は清さを保つということです。テサロニケは洋の東西が合流する所。様々な価値観が流れ込み、振り子が振れるようなモラルで溢れていた。パートナーや家族といった身近な人を裏切り傷つけ、人を騙しその人の大切なものを奪うニュースが溢れていた。それは私たちの社会も変わらない。「〇〇さえしなければ清い」というのは消極的。十戒の後半6つは人と人との間の戒めですが、6つの戒めを守っていたらそれでいい、と言うためのものではない。言わんとすることは1つ。「神様が私に与えられたもの−自分の体や能力、パートナーや家族、学びや仕事など−を喜び大切にする。他人のものは他人のものとして大切にする」ということです。イエス様も、もし必要なら父なる神様に求めなさいと言われました。他人から奪うなということです。パウロもそのように教えたのです。世の中がどんなに目まぐるしく変化しようと、私たちは神様が与えられたものを喜び大切にする。それが清さを保つということなのです。

落ち着いて生活する

『兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい』。先ほどは「清くあってほしい。ますますそうしてほしい」。今度は「愛し合ってほしい。ますますそうしてほしい」です。保つだけではなく分かち合うことです。テサロニケ教会は若い教会でしたが、マケドニヤ州にある他の教会に援助の手を差し伸べていました。「再臨はもうすぐだ!」と手元が疎かになるのではなく、「再臨はまだ来ない!」と手を抜くのでもなく、いつも通り、いえますます、清さを保ち、愛し合う。神様から与えられたものを喜び大切にし、隣人の必要にふさわしい形で分かち合えるものを分かち合っていく。身近な所から。そのために『あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働』くのです。『そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できる』のです。備えあれば憂い無し。憂いが無いだけではなく、周りをも励まし、共にイエス様の再臨を喜んで待つことができる。そこからイエス様の救いと神様の祝福がじわじわ拡がっていく。世の中がどんなに目まぐるしく変化しようとも、『滅びの子』が現れて教会を迫害しても、イエス様の再臨が2分後であろうと何年後であろうとも、私たちのするべき生活は変わらないのです。

12月16日(日)の待降節第3週礼拝は、ルカによる福音書第2章8節〜20節から、「どん底からのこの上もない喜び」と題してメッセージです。


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