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どん底からのこの上もない喜び

待降節第1、2週はイエス様の再臨について聖書に耳を傾けました。第3、そしてクリスマスにはイエス様の初臨について聖書に耳を傾けましょう。今日はクリスマス降誕劇でもおなじみの場面、羊飼いたち登場シーン。ここにどん底からのこの上もない喜びがあります。どんな喜びか?ということで、12月16日(日)待降節第3週礼拝は、ルカによる福音書第2章8節〜20節から、「どん底からのこの上もない喜び」と題してメッセージでした。

それは全人類への福音です

『さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた』。当時、羊は重宝されました。宗教的には大切な犠牲。生活では毛は衣服、乳や肉は食糧、皮は入れ物や天幕、角は笛や油入れになりました。しかし羊飼いの境遇はよくありませんでした。ここに登場する羊飼いは羊のオーナーではなく、オーナーの羊を飼う下働き。貧しい地域の最下層。そして彼らは人口に数えられませんでした。当時人口調査が行われており、人々は出生地に戻り登録していました。それは納税者の数を把握するため。ヨセフとマリヤもヨセフの出生地ベツレヘムに戻っていました。そんな時、羊飼いは野宿しながら羊の世話。ある意味、どん底の真っ暗闇の中にあった。しかしイエス様誕生の知らせは、まず羊飼いに届けられた。華々しくこの世のものをはるかに越える形で。羊飼いは『非常に恐れ』(この上もなく恐れに恐れ)ました。当然です。しかし御使は『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える(恐れるな。見よ、すべての民に与えられるこの上もない喜びの「福音」を、あなたがたに伝える)』。福音って?当時、戦いの勝利を意味しました。戦場から本国へ伝令が先に伝えます。まず王宮に。後に勝利の軍隊が凱旋。戦利品はまず王宮に、そして武勲を建てた者に、そして下々に。でも下々に行き渡らないこともあった。しかし御使が届けた福音は、まず下々から、どん底から。上から一部の人々にしか届かないのではなく、下から全ての人に届くようにされた。しかも中途半端な届け方ではなく圧倒的な形で届けられたのです。

それは神様の言葉が事実となることです

『きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるし(証拠、奇跡)である』。『主なるキリスト』イエス様がこの上もない喜びの福音の奇跡的証拠です。ルカによる福音書第1章からそれは語られてきました。イエス様はダビデ出生の地、小さな田舎町ベツレヘムで、布にくるまって家畜の餌箱に寝ている赤ちゃん。都エルサレムの王宮のベッドに寝ているなら特別な気もしますが、どん底的境遇。しかし羊飼いは言います。『さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事(言葉が事実となる)を見てこようではないか』。そしてイエス様とその両親を捜し当てます。『彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事(言葉、事実)を、人々に伝えた』。そしてマリヤも『これらの事(言葉、事実)をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた』。言葉と事実が表裏一体。羊飼いはこの赤ちゃんがどんな勝利をもたらし、どんな分け前をくれるのか、何からの救主なのか想像できなかったでしょう。羊飼いの境遇がすぐ変わるわけでもないし、そのまま生涯を閉じたかも知れません。そんな彼らがなぜ喜んだのか?王宮の世継ぎの子かそうでないか?ではなく、神様の言葉がその通り事実だったから喜んだ。彼らは神様の言葉の事実を人々にダイレクトに伝えた。だからこそ人々は『不思議に思った(非常に驚いた)』。戯言に思えなかったのです。

神様の言葉は必ず成る。イエス様によって全て。全人類が、どんなリーダーも、全く太刀打ちできず負け続けてきた死に勝利された。それが十字架と復活。それが奇跡的証拠。福音。イエス様が王として再臨される時、私たちは復活の体と新しい天と地を分け前としていただく。中途半端な救いではなく圧倒的な救い。この世をはるかに越えるこの上もない救い。この救いはイエス様を信じる者に事実と成る。イエス様は城壁と兵隊に囲まれた、人が近づけないようなお城に住まれたのではなかった。イエス様はどんな人とも共におられた。近づけない人はいなかった。それは今も変わらない。イエス様を求める人は誰でも会い、誰でも救われるのです。羊飼いのように神様の言葉とその事実を喜んで、歩み続けましょう。

12月23日(日)のクリスマス礼拝は、ヨハネによる福音書第3章16節〜18節から、「救いのダイビング」と題してメッセージです。


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