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救いのダイビング

「クリスマスおめでとうございます!」「え?なんでおめでとうなの?」。かつてそんなやりとりがありました。クリスマスの意味を知らないとおめでたいわけではないかもしれません。でもクリスマスの意味を知らなくても、このシーズンになると愛を語り、贈り物をし、特別な食事や楽しいパーティを行っていませんか?なぜ?やっぱりクリスマスには特別な愛がある。特別おめでたいことがあるのです。ということで12月23日(日)のクリスマス礼拝はヨハネによる福音書第3章16節〜18節から、「救いのダイビング」と題してメッセージでした。誰がダイビング?何のダイビング?

愛のゆえのダイビング

『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。本当の愛は神様にあります。神様は愛したくて、この世界を、生きとし生けるものを、私たち人間を創造されました。いろいろ違いはある。でも優劣も上下もない。みんな唯一無二の最愛の存在。でも。私たちは神様に向かず聞かず従わないで、勝手に愛を語るようになった。比べ合うようになった。傷つけ合うようになった。親が子を虐待し、子が必死で赦しを請うも、死ぬまで虐待する。学校の卒業式に防弾盾が贈られる。愛をどこで学べばいい?みんなサバイバー。どこにいても生き残りをかけた戦争。そんな『この世』に誰がした?私たちは悲しいニュースを見ると深い怒りを感じます。ならば全てを見ておられる神様はどんなに深く悲しみ怒りを覚えられることか。しかし神様はなおも愛の御手をのべられる。「何をしているんだ。どこを向いているんだ。私に向きなさい、聞きなさい、従いなさい!」。愛の御手。それは御子イエス様。愛のゆえに神様から私たちのもとへ、イエス様がダイビングされたのです。

救いのためのダイビング

『神の御子が世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである』。私たちは互いを比べ合い、傷つけ合い、命を失っていきます。体だけではなく魂も。それが永遠の滅び。自業自得という言葉があります。神様が創造された世界は最高のものでした。しかし私たちはそれを破壊しながら殺伐とした『この世』に造り変え、自ら滅びを獲得しているのです。でも神様は私たちを見過ごしにはされません。御子イエス様も同じです。誰も失いたくない。取り戻したい。助けたい。神の親子は私たちを救い出すために『この世』へのダイビングを計画されました。救難救助のダイビング。同じ危険な環境に身をさらす決死のダイビング。イエス様は人間となって『この世』に生まれ、十字架にかかって死に、私たちの『滅び』を肩代わりし、死人の集まっていた「よみ」にまで降られた。天から地、地からよみ。そして3日目によみがえり、40日後に天に昇られた。よみから地、地から天。『この世』から神の親子につながる救命具、私たちを滅びから天国へ引き上げる十字架を用意されたのです。

信仰によるダイビング

『彼を信じた者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである』。どうすれば神の親子が決死のダイビングで用意した救命具、十字架につかまれるのか?イエス様の十字架が「私の十字架」だと信じて、告白して、バプテスマを受けることです。心に信じるだけでなく口で告白する。口で告白するだけでなく態度で表す。バプテスマは水に浸かって上がる行為。『この世』からいったん上がる意味と神の子として生まれる意味があります。神の家族に迎えられるのです。バプテスマはイエス様の救いへのダイビング。今度は私たちの番。危険はない。救われるのです。神様の愛が流れ始め、永遠の命が流れ始め、自分を取り戻し始める。自分を活かすことを学び始め、神の子としての成長が始まる。誰と比べる必要も、傷つける必要も、奪う必要もない。お互いを尊び、助け合い、分かち合うことができるようになる。私たちはいったん『この世』から上がり、今度は神の子として『この世』に遣わされ、神の親子の愛と救いを分かち合っていくのです。クリスマスはその始まり。だから神様の愛を語る。イエス様の救いというプレゼントを分かち合う。救いを受け取ったお互いを喜び合うのです。

12月30日(日)は年末感謝礼拝。ルカによる福音書第2章21節〜39節から、「感謝を忘れずに」と題してメッセージです。


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