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恵みの相乗効果

コリント教会がついに悔い改め始めました。それはパウロ、テトス、諸教会へ喜びを広げました。パウロはなお励ますために『兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう』と記します。マケドニヤの諸教会に与えられた『神の恵み』とは?それは「献げる恵み」です。なぜ「献げる恵み」がコリント教会の励ましになるのか?ということで、2月10日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第8章1節〜15節から、「恵みの相乗効果」と題してメッセージでした。

自分自身を献げる

献げる恵みとは何か?ここではエルサレム教会への献金だと思われます。コリント人への第一の手紙でこの件について触れています。エルサレム教会は諸教会の原点。しかしユダヤ教社会にあって迫害と貧困の中にありました。そこでマケドニヤの諸教会が立ち上がりました。しかしマケドニヤの諸教会も異教社会にあって激しい患難と極度の貧しさの中にありました。にもかかわらず彼らは精一杯献げました。パウロは献金の多少は問題にしません。献身的な姿を高く評価しました。それを『聖徒たちへの奉仕に加わる恵み』『あふれ出て惜しみなく施す富』と表現します。献げると無くなるのではありません。献げるとは「私と私にあるものをぜひ活かして下さい」と、神様と人の前に自分を「置く」ことです。献金の前にまず献身。私たち神の家族、兄弟姉妹こそ富であり恵み。そこから富と恵みがあふれ出す。献身は神学生や牧師になることだけを言いません。神の諸教会の全ての聖徒に与えられた神の恵みのわざなのです。

持っているところに応じて献げる

マケドニヤの諸教会が奮起したきっかけは何か?エルサレム教会への献金はすでにアジヤの諸教会では始まっていました。しかしマケドニヤやアカヤ(コリント教会がある地域)の諸教会ではまだだった。そこで名乗りを上げたのがコリント教会だった。その後に続けと奮起したのです。しかしコリント教会は様々な問題でその恵みの働きが中断してしまった。しかし悔い改めて回復してきた。そこでパウロは「諸教会が君たちによって大いに励まされている!君たちのおかげだ!」と励ましたのです。パウロは無理を言いません。『持っているところに応じて、(君たち自身がやり始めた)それをやりとげなさい』。献身も献金も自発のもの。強制されるなら奴隷や搾取です。神様は私たちを奴隷にしたり搾取するようなケチで小さなお方ではありません。与えてばかりのお方。私たち教会はその子どもたち。与えられた自分や持ち物という分に応じて、喜んで活かし分かち合う。「さすがは私の子どもたち!」と神様は喜んで下さるのです。

イエス様の恵みを思って献げる

第一の手紙からコリント教会は経済的に余裕があったことが伺えます。パウロは『この恵みのわざにも富んでほしい』『他の人たちの熱情によって、あなたがたの愛の純真さをためそうとするもの』だと記します。競争心を煽っているのではありません。彼らの恵みのわざの原点『愛の純真さ』に立ち帰れと促すのです。献げる動機は愛。それは『わたしたちの主イエス・キリストの恵み』が源泉。キリストは父なる神様の御前で栄光に輝き、天地を創造するほど富んでおられた。しかし何も持たない赤ちゃんイエス様としてこの世に生まれ十字架で死なれた。ある意味スッカラカンになった。なぜ?与えられた自分やこの世界を我が物顔で食い尽くしスッカラカンになって滅び行く私たちの身代わりになるため。さらによみがえって天に昇り、イエス様を信じる私たちに、永遠の命と復活の体と新しい天地での生活を与えるために待ち構えておられる。どれだけ与えたら気が済むねん!という破格の恵み。イエス様こそ献げる「神の恵み」の泉。それが恵みの相乗効果を生み出す愛の元手なのです。

コリント教会から始まった恵みのわざは、エルサレム教会を支え、マケドニヤの諸教会を奮起させ、今再びコリント教会を励ました。恵みの相乗効果は途切れない。死を命に、軽いしばらくの患難を重い永遠の栄光に変換するイエス様のあふれる愛の恵みが元手だから。私たちもこの恵みをいただき続け、愛の純真さを持って、自らと自らにあるものを分かち合ってまいりましょう。

2月17日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第1章32節〜34節から、「まずは行動」と題してメッセージです。


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