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待っておられる神

今日は母の日です。しかし家族の日として互いに感謝する教会もあります。家族の形が多様化しているからです。時代の流れの中で母(母性)のイメージも、父(父性)のイメージも随分様変わりしました。特に父(父性)のイメージの変わり様は激しいのではないでしょうか。それは神様のイメージともリンクしているように思えます。今日は母の日ですが、父について、神様のイメージについて見たいと思います。ということで、5月12日(日)の礼拝は、ルカによる福音書第15章11節〜32節から、「待っておられる神」と題してメッセージでした。

放蕩息子の帰りを待つ父

有名な放蕩息子のたとえ話です。父親は、田舎で大規模農業を営んでいます。弟息子は財産分与を願い出ます。普通は父が死んでから。しかし父は分けてやります。すると弟息子はさっさと荷物をまとめて遠い所へ行ってしまいます。戻るつもりはない。お金のある内は人が群がる。人脈もできたかに見える。でもいろんな人がいるし誘惑もある。お金はあっという間に底をつく。おまけに大飢饉ときた。金ない家ない食物ない助けてくれる人もいない。なんとか地元の養豚場で豚の世話ができた。当時、ユダヤ人にとって豚は避けるべき動物。その豚の糞尿にまみれ、餌さえ美味しそうに見える。食べたい。でもそれさえ許されない。悪臭モウモウの、ひからびた、死んだも同然の弟息子。我を失いかけていた彼は『本心に立ちかえって』父の元へ帰ろうと思い立ちます。どの面下げて?自分の罪(的外れ)を認め、息子ではなく雇い人として受け入れてほしい、そう言おうとヨロヨロフラフラ歩き始めた。父は毎日見晴らしのいい所で息子の帰りを持っていた。変わり果てた息子なのに遠くから認めて走り寄り、抱きとめ、接吻した。みなさんにはできますか?息子が雇い人同様にしてくれと言おうとすると、それを遮り僕に命じて『最上の着物』『指輪』『はきもの』を身につけさせた。きれいにしてからでもいいのではないか?この3つは、息子の証し、相続者の証し、権威の証し。父は息子を息子として家に迎え入れたのです。ここまでなら話半分。

真面目息子との交わりを待つ父

弟息子は家に迎えられ(もちろんきれいに洗ってもらったことでしょう)、盛大なバーベキューパーティが始まりました。そこへ畑仕事から兄が帰ってくる。楽しそうな音楽や会話が聞こえてくる。なに?弟が帰って来だと?兄は怒りに打ち震え家に入ろうとしません。それを聞きつけた父が迎えに出ます。兄は怒りをぶつけます。弟と兄は対照的。兄は真面目。父の言葉に忠実だった。でも彼は『あなたに仕え』と言った。それは奴隷として仕えるという言葉。そして弟を『あなたの子』と唾棄しました。兄は父と一緒にいながら、息子ではなく奴隷だと思っていた。ひたすら仕えて完璧であろうとし、それで息子と認められようとした。だから。財産を食い潰し、尻尾を巻いて逃げ帰ってきた弟への待遇に、ゆるしがたい怒りを覚えた。兄は遠くには行きませんでしたが、その心は父から遠く離れていました。しかし父の態度は弟にも兄にも変わらない。父の方から出迎えに来てくれた。兄の思いや行いがどうであれ、すでに弟の二倍の相続がある。牛でも羊でも自由にできた。そして父の立派な相続者。弟の立派な兄だったのです。父は兄にずっと語りかけていた。しかし耳を閉ざし、心を閉ざし、父の心を知らずにいたのは兄だったのです。父の語りかけに心を開いて、父の心の豊かさや懐の深さを知っていたなら、父と共に、余裕を持って弟の帰りを喜べたのです。

私たちには弟や兄のような両面が大なり小なりあります。「神は死んだ」と善悪も倫理もお構いなく「自由」の拳を振り上げる。はたまた「神は厳しい。聖書にこう書いてあるからその通りにしなければならない」と自分にも他人にも強制する。振り子が振れるように弟と兄を行き来する。神様という支点から遠く離れていないか?このたとえ話は神の息子イエス様が語られました。イエス様こそ父なる神様の優しさ、愛、楽しさを知っておられる。神様とイエス様は、私たちが帰るのを両手を広げて待っておられる。帰ってくるなら息子や娘、弟や妹として迎え入れて下さる。今までがどんなであろうとも。そしてきれいにして下さる。喜びの交わりを用意して下さる。私たちは教会の礼拝や交わりの中で、神様とイエス様を知る者としていただきましょう。全ての家族の原点は、この神の親子にあるのですから。

5月19日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第2章1節〜12節から、「見たことのない出来事」と題してメッセージです。


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