カテゴリー

天地をつなぐ祈り

祈りは交わりです。祈りは神様が求めてろられるコミュニケーション。それは神様と私という個人的なコミュニケーションだけではなく、神様と私たちという神の家族のコミュニケーション。礼拝や祈祷会といった私たちの集まりは祈りの交わりと言えます。すでに賛美であり祈りである詩篇を味わい始めていますが、それとは別に、数回にわたって祈りの恵みを味わいたいと思います。ということで、6月30日(日)の礼拝は、マタイによる福音書第18章18節〜20節から、「天地をつなぐ祈り」と題してメッセージでした。

祈りには権威がある(18節)

『よく』とは「アーメン」という言葉。イエス様がこの言葉を使われるのはよほど大切なことを言われる時。『つなぐ』は「縛る」「禁じる」、『解く』は「ほどく」「許可する」という言葉。地上の私たちが「そうしないで下さい」「そうして下さい」と祈るなら、神様のおられる天でもそれが採用される。これってスゴイ権威。普通逆でしょ?神様が天において禁じるなら地上でもそうなる。許可するなら地上でもそうなる。しかし地上の私たちに決定権があり天が追従する。「現場の判断」という言葉があります。もちろん神様は私たちの必要を求めない先からご存じです。しかし求めない先から何もかもされるのではない。私たちが地上で直面する様々なことにおいて私たちが判断し祈ることを委ねておられる。なぜなら私たちは「神のかたち」として地上に置かれているから。私たちには委ねられている領域、任されている権威がある。それが祈りなのです。

祈りには交わりがある(19節)

ここにも『よく』。『あなたがたのうちのふたりが』とは交わりが2人以上だということを意味します。20節には『ふたりまたは三人が』ともあります。1人なら自分の意見と判断で行動するだけです。しかし2人以上ならコミュニケーションが発生し、他の意見や判断が影響し、行動にも変化があります。悪いことではありません。より広い見識を持ち判断できます。1人なら行動するにも限界がありますが、2人以上なら手分けできます。祈りも同じ。教会は神様に招かれた者の集まり。神様と私という関係はすでに1人ではありませんし、それで教会と呼べなくもありませんが、2人以上で教会は本領を発揮するのです。祈り合う中でいろんな願いや問題を知ることができる。自分の思い込みや誤りにも気づくことができる。祈りが細やかになり豊かになる。バランスのとれた判断ができる。健全に一致できる。祈りの交わりあってこその教会なのです。

祈りは祝福のためにある(20節)

しかし。私たちだけで本当に正しい判断ができるのか?意地悪や悪意の祈りがあったらどうする?何でも祈ってかなえられて大丈夫か?イエス様は『わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる』と言われました。これは「私の名によって集められている所には、私が真ん中にいる」と訳せます。私たちは「集まった」とも言えますが、「イエス様の名の元に集められた」とも言えます。そしてイエス様が導かれるのです。ですからイエス様がどういう方か念頭に置く必要があります。イエス様は救い主。救いを通して神様の祝福を満たしたいお方。私たちが祈るべきはお互いや家族、隣人の救いと祝福。悪い人、赦せない人、えげつない人の祝福を祈ったら?悪いまま、えげつないままで商売繁盛無病息災になる?祝福はそういうことじゃない。その人の中に神様の命が注がれ、神様の支配が隅々まで行き渡り、神様の愛があふれる。変わらないはずがない。そういう意味で私たちの祈りに不可能はないのです。

私たちが地上で献げる祈りは天に立ち上り、神様のみわざとなって駆け下り、救いと祝福を地に満たす。天地をつなぐ祈りに勤しみ、天地をつなぐ祈りの恵みになお進みましょう。

7月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章1節〜11節から、「愛の使徒」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved