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愛の使徒

コリント教会の数々の問題の最後に現れた偽教師。この問題は今に至るキリスト教会の問題、かつ主の再臨まで続く問題です。一般に、組織の外で起こっている問題には気づきやすいけれど、内部で同じ問題が起こっていても気づきにくいということがあります。その問題を指摘する人を排除しようとさえします。コリント教会は自分たちの生みの親のようなパウロを排除しかけていました。その原因が偽教師。それでもパウロはコリント教会への『熱愛』を記します。ということで、7月7日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章1節〜11節から、『愛の使徒』と題してメッセージでした。

親が子を諭すような神の知識はあるか 1節〜6節

神様の『熱情』とパウロの『熱愛』は同じ言葉。父なる神様の御子イエス様への愛、コリント教会を生み出したパウロの愛は同じ愛。パウロはイエス様とコリント教会の関係を婚姻関係にたとえます。ある意味教会はイエス様の命を結納金に、神の家族に迎えられ、神の相続に与るのです。ですからパウロはコリント教会をイエス様にふさわしい伴侶として導くのです。どんな花嫁修業が必要か?たしなみや教養をゴテゴテ身につける必要はない。完璧を求める必要もない。ことはいたってシンプル。『純潔と貞操を失わない』こと。古風?言葉を換えるなら「神様に向いて聞いて従う」こと。パウロはエバがへびに騙された出来事を引き合いに出します。へびは言葉巧みに神様の言葉をねじ曲げました。エバはそのへびに向いて聞いて従ってしまった。偽教師たちも事実をねじ曲げてパウロを悪者にし、自分たちを正しいとしました。そして『異なるイエス』『違った霊』を伝えていた。へびの遺伝子が脈々と息づいている。さあ、コリント教会はパウロか、偽教師か、どちらに向くのか!『あなたがたはよくもそれを忍んでいる』。ギリギリの所で踏みとどまっていた。パウロは『大使徒たち』に勝るとも劣らぬ神様の『知識』を惜しみなく語り、手紙にしたため続けました。言葉巧みな偽教師の弁舌よりも、たとえ『つたなくても』親のような愛をもって語りかけるパウロの『知識』が勝っていたのです。

自らを献げたキリストの真理があるか 7節〜11節

当時『大使徒たち』の経済的必要は教会の献金で支えられていました。しかしパウロは経済的支援を受けず、働きながらコリント宣教しました。それを偽教師は「パウロには使徒の資格がないからだ」と言ったようです。コリント教会が生み出されて後も、コリント教会から献金は受け取りませんでした。『マケドニヤからきた兄弟たち』がパウロを支援しました。それを偽教師は、『(パウロが)他の諸教会をかすめた』と言ったようです。どっちにしろパウロの悪口。パウロは悪者。パウロは『あなたがたを高めるために』主の権威に従い、コリント教会のその時々の力を見極め、無理なく成長できるよう、自分がカバーできることは自分でカバーしました。『他の諸教会』も同じ。パウロに言われて支援したのではなく、自らしたいと献げた。パウロは自分と諸教会の働きを誇りました。これこそ偽教師にまねができないから。これこそ『キリストの真実(真理)』だから。それはイエス様が教会のためにご自身を献げられた愛です。第8章〜9章では、コリント教会にもこの愛が再起動したことが記されます。偽教師には「へびの嘘」があるだけ。偽りと搾取と破壊です。パウロ、諸教会、そしてコリント教会には『キリストの真実(真理)』がある。愛し、献げ、高め合う。イエス様の遺伝子が脈々と息づいている。パウロには神様の愛だけではなく、イエス様の愛もふつふつとあふれていました。このホットな愛(真理)によって、コリント教会も忍耐強く踏みとどまることができたのです。

パウロは見た目も話し方もあまりパッとしなかったようです。偽教師はその逆だったのかも知れません。コリント教会はそんな偽教師にグラグラッときた。私たちはどうでしょう。今の時代もそんな傾向がないでしょうか。神様の熱情を持って記された熱愛の人パウロのホットな手紙を私たちも手にしています。パウロが紐解く神様の知識とキリストの真理にコツコツ向き合い、地道に養われ、ブレることなく高められ、他を豊かにする教会として歩ませていただきましょう。

7月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章12節〜33節から、「偽教師を見分ける」と題してメッセージです。


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