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偽教師を見分ける

世の中は強いものに関心が集まります。それは時として美しく、賢く、富み栄えます。そして、そういった人や組織を無条件に受け入れたり、そういった人や組織のすることを無条件にゆるしてしまう傾向がないか。後になって、自分にとって悪いことや損失であることがわかり、なぜあんな人を受け入れてしまったのか?なぜあんな事をゆるしてしまったのか?と悲しむことはないか。そして訴えたり、事件になったり、ニュースで報道されることがあるのではないか。私たちのこの傾向「強いものに惹かれやすい」と、そこから起こる様々な問題は、歴史始まって以来の問題です。そして2千年前のコリント教会にもこの問題が入り込んでいました。偽教師の問題です。ということで、7月14日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第11章12節〜33節から、「偽教師を見分ける」と題してメッセージでした。

人の弱さにつけ込む人か

パウロは今まで偽教師について語ってきました。ここでその本性を明確にします。『にせ使徒』『人をだます働き人』『キリストの使徒に偽装している』『サタンの手下ども』『義の奉仕者のように偽装』。強烈な連打。偽教師たちにさんざん悪口言われたからか?いえ。パウロにとって涙が出るほど怒りを覚えることがあった。『実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる』。搾取に暴力、奴隷的支配。偽教師の親分は創世記最初に登場するへび。後にサタンと言われます。へびはエバに、神様の言葉を語っているかのように近づき、次に神様の言葉を疑わせ、最後に神様の言葉を真っ向否定しました。エバはもう異を唱えることはしませんでした。詐欺、いじめ、ハラスメント、カルト…。「なぜ途中で断らなかった?」「なぜ途中で逃げ出さなかった?」「なぜ行く所まで行ってしまった?」と言われます。しかしできないのです。その存在の侵入を一旦ゆるすと自力脱出はもはや困難。これが人の弱さ。偽教師をはじめ、人を虜にする存在はこの弱さにつけ込み、この弱さを利用し奪うだけ奪って捨てるのです。では太刀打ちできないのか?その方法は創世記の最初から変わらない。主と主の言葉に聴く、聴き直す、聴き続ける、そして従う。敵も聖書の言葉を使ってきます。切り抜いて、切り貼りして、自分に都合よく。私たちは聖書を文脈で理解する。神様の心を文脈から丁寧に拾っていく。そうやって主と主の言葉に養われ、主とそうでない者の言葉を聴き分けるのです。

人の弱さを身に負う人か

パウロは働きの中で、数々の困難、迫害、惨めさを味わいました。それを『キリストの僕』としての『誇り』として書き連ねます。なぜなら『キリストの僕』だと豪語する偽教師にはまねできないことだから。偽教師の嫌がる汚くて、格好の悪い、負け犬的な『愚か者』としての誇りだから。キリストはどんなお方だった?祭司や律法学者から見ると、宗教的には受け入れがたい行動をし、宗教的には受け入れがたい人々と共におられました。だからといって反聖書的か?いえ。キリストこそ聖書が言わんとすることを身をもって示された。祭司や律法学者は口だけ。まねできなかった。だからゆるせなかった。キリストを愚か者のように十字架で葬り去った。でもこの十字架で、キリストは私たちの罪を負い、罪を覆う救いを用意して下さった。それは教会の誕生と成長のために弱さを負うパウロと重なるのです。偽教師をはじめ、人を虜にする存在は、人の弱さを負うことを嫌がります。自分の立場が悪くなること、悪く言われることを嫌います。そして自分の身代わりになる自分よりも弱い人をそばに置き、自分の弱さをその人に負わせるのです。キリストと真逆。私たちはわざわざ悪く言われるようなことはしませんが、時として悪く言われたり悪者にされたりします。キリストやパウロでさえそうなのですから。しかしどっちが正しいか悪いか言い出すと、どこを向いているのか方向を見失う。私たちがすることは創世記の初めから変わらない。主と主の言葉に聴いて従う。いつもそこへ立ち戻る。それが結局教会を高め、私たちの慰めや喜びになるのです。

強さばかり求め、三角形の頂点のような小さな一点を奪い合うなら、視野が狭くなり、考えが凝り固まり、行動が攻撃的になる。生きづらく不便な社会になる。私たちが目を向けるべきはそこではなく弱さ。なぜなら弱さの真ん中にキリストがおられるから。キリストこそ力、知恵、愛。そこに豊かさと、柔らかな視点と、ユニークなひらめきと、みんなが享受できる安心と、誰をも脅かさない平等と、誰もが生きやすいバリアフリーな社会がある。主と主の言葉に聴いて従う。それが偽教師に対する最大の防御であり攻撃なのです。

7月21日(日)はカフェスタイル礼拝。マルコによる福音書第2章18節〜22節から、「一緒にいることが最高」と題してメッセージです。


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