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神の奥義。十字架のキリストから

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奥義とは、外からはわからないけれども中に入ればわかる、その世界の豊かさ素晴らしさです。聖書の奥義は、神様の救いと祝福の世界と言えます。パウロはコリント人への第一の手紙第1章で「神の力」について記しました。神の力は「十字架の言」です。十字架の言は「十字架につけられたキリスト」です。この十字架のキリストが「神の奥義」への入り口です。パウロはコリント人への第一の手紙第2章から「神の奥義」について触れていきます。ということで、8月7日(日)の礼拝は、「神の奥義。十字架のキリストから」という題でメッセージでした。

入り口は十字架につけられたキリスト

パウロは「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかし(奥義)を宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心し」ました。パウロはコリントに来る前にアテネで宣教しました。知恵と言葉を尽くして神の創造からキリストの復活へ話を進めようとしましたが、人々は途中で離れていきました。そこでコリントではずばり「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかし」しました。私はクリスチャンでない方の臨終間近に立ち会うことが何度かありました。いずれの方も「もう動けない」「意識がない」「反応がない」と言われていました。私はその方々の耳元で「キリストがあなたの罪のために十字架にかかられました。キリストをあなたの救い主だと信じて下さい。そうすれば天国です」と語りました。ある方は安らいだ表情になり、ある方はうなり声で応答しようとし、ある方は体を何とか動かして洗礼の意思表示をされました。その姿を見て、「人は、今まで積み上げてきた世の中の知恵や経験や富や権力が何も通用しないとき、何はなくても、十字架のキリスト、神の力、神の奥義を求めている」と思わされました。しかしどんなに若くても、元気でも、何はなくてもすべての人に十字架のキリストが必要です。そこに全てがあるから。朽ちることのない神の知恵、神の力、救いと祝福の世界があるからです。

入り口の鍵は弱さの自覚とキリストへの信頼

パウロはコリントの人々に十字架のキリストを語っただけではなく、同時に彼も十字架のキリストを深く知ることになりました。彼はコリントに来たとき「弱くかつ恐れ、ひどく不安」でした。復活のキリストに出会って劇的改心したパウロ。危険や迫害を顧みず宣教旅行に出かける信仰の猛者。学識も経験も豊富でした。しかしそんなパウロでも弱り果てた。アテネのことが落ち込む原因?しかしそんなとき、キリストの語りかけがあった。「恐れるな。語り続けよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている」。華々しい奇跡が起きたわけではなくキリストの言葉があった。この言葉でパウロは生き返り、コリントに教会が誕生しました。これが「(復活されたキリストの)霊と力の証明」でした。私はかつて、世の中がもてはやす知恵や権力を無自覚に振り回し、やれ信仰だ!奉仕だ!伝道だ!と拳を振り上げていました。それが家族や周囲を傷つけ、間違った聖書や教会や神様のイメージをすり込むことになりました。そして自分も深く病んだのです。しかし世の中がもてはやすものに影響されないほど弱り果てたとき、十字架のキリストが重なってきた。それだけではなく、復活されたキリストの霊と力も知るようになりました。華々しい奇跡ではなく聖書の言葉を通して。いかに神様が私を愛しておられるか。いかに自分を愛し隣人を愛するか。いかに神様の恵み、救いと祝福を喜び楽しみ分かち合うか。こうやって毎週メッセージできるのも奇跡。「霊と力の証明」がここにもあるのです。

私は「十字架のキリストを体験するために弱り果てなさい!」と言いたいのではありません。どんな知恵や経験や富や権力も全く通用しない事が起こる今の世の中です。何もあてにできず弱り果ててしまいやすい私たちです。だからこそ、いつも、何度でも、自分の弱さを認め、キリストに信頼するのです。そうすれば神の奥義の入り口は開き続け、奥義の中へ分け入ることができるのです。

ということで、8月14日(日)は、コリント人への第一の手紙第2章6節〜16節から、「神の奥義。御霊によって悟る」と題してメッセージです。


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