カテゴリー

パウロににじみ出る神の愛

コリント教会最後の問題である偽教師の実体を赤裸々に記したパウロは、最後にもう一度、コリント教会と自身との関係に戻り、素直な心情を吐露します。その心情は子を思う親のような、いえ、神の愛がにじみ出ているかのようです。それはどんな愛なのか?ということで、9月1日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙第12章11節〜21節から、「パウロににじみ出る神の愛」と題してメッセージでした。

向き合い続ける忍耐の愛 11節−12節

パウロが記す『愚か者』とは人間的なことを誇り合う人々。パウロは愚かさを重々承知で、偽教師たちと比較するように、それでいて偽教師にはまねできない数々の誇りを記してきました。しかし本来そんなことは無用のはず。元々コリント教会はパウロの『しるしと奇跡と力あるわざ』という『使徒たるの実(じつ)』を見て触れて味わって救われたから。コリント教会がそのことを思い出しさえすれば良かった。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、私たちは忘れやすい。しかしパウロは諦めない。再三の手紙と再三の訪問で、彼らの目線に立って語り続けた。神様もそう。イスラエルの民に、何世代にもわたって向き合い、語り続け、「しるしと奇跡と力あるわざ」を示された。イエス様もそう。人となって人の目線に立って向き合い、語り続け、「しるしと奇跡と力あるわざ」を示された。神様もイエス様もパウロも諦めない。向き合い続ける忍耐こそ、神の愛なのです。

回復を求める愛 14節

偽教師たちは『あなたがたの持ち物』を要求しました。コリント教会の財産を巻き上げていた。一方パウロは『あなたがた自身』を『求め』ました。そっちの方が怖い?この「求める」は「失ったものを探し求める」という意味があります。現代の日本では毎年1万件の失踪届があり、2千人は行方がわからないそうです。ある日忽然と家族が消える。家族の思いはどんなでしょうか。コリント教会は忽然と姿を消したわけではなく、確かにコリントの町にありました。しかしその心はさ迷っていた。パウロはそんな彼らの心を見つけ出し、神の家族、神の家として回復するために『自分をも使いつくす』とまで記します。放蕩息子の帰りを待ちわびる父(神様)や迷える羊を探す羊飼い(イエス様)に重なります。いずれの話も失われたものを見出す喜びで終わります。神様にもイエス様にもパウロにも、その人の過去を問わず、探し求める苦労を厭わず、回復する喜びだけがある。それが神の愛なのです。

成長を願う愛 19節

パウロは自身の誇りや自己弁護のためにこの手紙を記したのではありません。『神のみまえでキリストにあって』、必死で向き合いながら、『あなたがたの徳を高めるため』に語り続けてきました。「遠くの親戚よりも近くの他人」と言いますが、パウロはコリント教会から離れていても、決してほったらかしではありませんでした。私が小学生の時、鍵っ子でした。防犯カメラもホームセキュリティもスマホもない時代。頼りになるのは母の言いつけでした。私が母の言いつけを守り無事であるかは、母が帰ってみるまでわからない。母は仕事が終われば急いで帰ってきてくれました。パウロは『三度目にあなたがたの所へ行く用意をしている』と記します。手紙の往来にも時間がかかる2千年前の世界ならもっと心配があって当然。20,21節にはそんな子を案ずる親のようなパウロの心情が吐露されます。愛がなければこんな心配はしません。偽教師なら知らん顔です。かけがえのないコリント教会の成長を願ってやまない愛があったからこそのパウロの心情。それが神の愛なのです。

私たち天授ヶ岡教会も、神様は様々な牧師や先輩クリスチャンを通して、向き合い続け、回復と成長を願って働いておられます。パウロ以上に神様は諦めない。だから私たちも諦めない。共に何度でも原点に立ち帰り、何度でも修正し、何度でも挑戦し続ける。地上では完璧も完成もありません。大いにやり直していい。そのあきらめない営みに神の愛がにじみ出るのです。

9月8日(日)の礼拝は、コリント人への第二の手紙だ13章1節〜10節から、「真理に従えば力がある」と題してメッセージです。


Copyright © 2010  天授ヶ岡教会 All rights reserved