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きよめのプロセスと目的

天授ヶ岡教会が所属する日本イエス・キリスト教団は「きよめ」を大切にします。あちこちで「聖会」が開かれますが、テーマの多くも「きよめ」。10月には京都聖会が開かれますがやっぱり「きよめ」。そして長らく『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え』(ローマ12:11)という言葉が掲げられてきました。私たちが『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕える』ための「きよめ」のプロセスとその目的を知りたい。ということで、9月29日(日)の礼拝は、ローマ人への手紙第12章1節〜5節から、「きよめのプロセスとその目的」と題してメッセージでした。

体を献げる 1節

まずは私たちの体を神様に献げること。パウロは『そういうわけで』と切り出します。何がそういうわけか?それは第1章から第11章にかけて記してきた、恵みと命と力にあふれた、豊かで壮大で全時代を貫くイエス様の救い。パウロは、その救いに与った私たちに『あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい』とお願いするのです。『ささげる』とは「側に置く」という言葉。小さな子どもが父の膝の上で、父にいろいろと教えてもらうイメージ。父の子として生まれたなら、子自ら父の膝の上で父の子らしく成長する。イエス様の救いに与り神の子として生まれるなら、神様の側に自分を置いて動かない。取り下げない。それが「献身」。牧師になることだけを言うのではないし、それが「直接献身」なのでもない。直接も間接もない。神の子として生まれた者全てが自発的にすべき、当然で自然なこと。そこから神の子らしくなっていく「きよめ」が始まるのです。

心を新たにする 2節

次に『心を新たにすることによって、造りかえられ』なさい。体の次は心。ここでは「御霊によって変えられなさい」とは言わず、「自分が心を新たにすることによって、自分を変えることによって、変えられなさい」。私は鬱になって長い間リハビリしました。その最初にしたのは自分の心の歪みを知ること。私を育てた人間関係、時代背景、社会的立場によって身につけた心の歪みや色眼鏡がある。それによって物事の見方・感じ方・行動も歪んでくる。そしてその歪みの修整方法も学びました。いずれも教えられなければわからなかった。そして歪みの修正は、自分が実際にやってみなければ、実感することはできなかった。『造りかえられ』とは「中身が変わる」という言葉。さらに継続も意味します。罪人から神の子へと立場が変わるだけではなく、中身も神の子らしく変えられ続ける。体の変化は知れています。心の変化は実に大きい。難しい?私たちは生まれた時から『この世』の物事の見方・感じ方・行動を教えられ、自ら苦もなく率先して体験を積み重ね、『この世と妥協した』自分を造り上げてきた。神の子とされたなら、神様の物事の見方・感じ方・行動を教えられ、自らそれを行い、形造り、神の子らしく変えられ続けるのです。そうやって「きよめ」は自分のものになっていくのです。

キリストの体を営む 3節-5節

これが最後にして目的。きよめは個人にとどまらない。「孤高のきよい人」になるのではないし、似たり寄ったりの人を増殖させるのでもありません。イエス様の救いは、私たちの歪みを転じて、豊かな個性や賜物にするのです。歪みは罪ではないし責めるべきものでもない。歪みを知ることは誰にもマイナスにならない。自分の個性・能力・働きの再発見のチャンス。今ある持ち場・立場・責任の範囲や限界を捉え直すチャンス。出過ぎることも引っ込み過ぎることもなくなり、自分にあるものを引き出し、自分の分を果たせるようになる。互いの間がゴリゴリギスギスすることなく、ピタッと結び合い、組み合わされていく。『わたしたちの数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである』。互いの営みが、教会全体として、イエス様の大きくて多様で豊かな働きを現すようになるのです。その具体例が6節以降に記されるのです。

1節では私の体を献げ、2節では私の心を変え続け、3節以降、互いの心と心は結び合い、私たち全体でキリストの体となり、多種多様な働きを世に現す。それが『霊的な礼拝』。日曜日の礼拝は私の体を献げ、教えられる更新の時。始まりに過ぎない。献げた体をキリストの体として用いる一週間へ続く。それは目に見えない何かではなく、私たち教会の、目に見える、日常の具体的な営みを言うのです。そのために『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え』てまいりましょう。

10月6日(日)は、詩篇第6篇1節〜10節から、「幸い。極限でも交われる祈り」と題してメッセージです。


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