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同じ礼拝なのに

礼拝堂では毎週日曜日、礼拝があります。どんな思いで礼拝に集っておられますか。どんな思いで賛美し、交読を読み、祈りを献げ、使徒信条を告白し、聖書朗読や説教に聴き、献金をし、交わりをしているか。そしてどんな思いでそれぞれの生活に帰っているか。「今日は恵まれたわ〜」とウキウキ帰るか。「今日はいまいちやった〜」とションボリ帰るか。「お金と時間をかけてきたのになんじゃこりゃ」と腹立たしく帰るか。一体礼拝って何?と考えさせられるのが本日の箇所。10月20日(日)の礼拝は、マルコによる福音書第3章1節〜6節から、「同じ礼拝なのに」と題してメッセージでした。

安息を奪う人ではなく 1-2節、6節

『イエスがまた会堂に入られると』。これより前に、第1章に会堂での礼拝シーンが記されます。第1章の礼拝では『ちょうどその時、けがれた霊につかれた者が会堂にいて』イエス様はその人をけがれた霊から解放されました。『ちょうどその時』たまたま。人々はイエス様の教えとわざによい意味で驚嘆し、「この人スゲー!」と、周りに伝えました。そして第3章の礼拝。『そこに片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って…いやされるかどうかをうかがっていた』。『うかがって』とは「悪意をもって見ていた」という言葉。たまたまではなく意図的。イエス様はその人を癒されます。それを見届けて出て行く人あり。パリサイ人です。律法学者、民の教師、指導者。その中でも律法に厳格な人々。ユダヤ人の王を求め、ユダヤ人の自主独立を願っている人々。彼らは『すぐにヘロデ党の者たちと、なんとかしてイエスを殺そうと相談しはじめた』。ヘロデ党はユダヤ人ではない現在の王ヘロデを支持する政治団体。パリサイ人とヘロデ党は相容れないはず。共通の敵ができて仲良くなった?第1章の礼拝にも第3章の礼拝にもイエス様がおられ、人が解放され、癒された。同じ礼拝なのに。人々の反応はこうも違う。パリサイ人は人が癒されたことを全く喜ばない。逆にけしからんと思っている。これを口実にイエス様の命を奪う相談まで始めた。外面は礼拝や安息日を厳守していたパリサイ人。しかし内面に安息はあったか?人に安息を分かち合っていたか?いいえ。安息日の主の命を奪おうとしていたのです。

安息を与える人に 3-5節

『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか』。イエス様が片手のなえた人を癒やそうとされる時、彼らに質問されました。しかし彼らはだんまりを決め込んだ。よくわかっていたのに。善を行い、命を救うことが大事だと。しかしそれを認めるとイエス様の行動も認めることになる。それは律法に矛盾する。答えられない。沈黙。しかし彼らの心はこれだけにおさまらないでしょう。「しのごの言わずに早くそいつを癒せ」。イエス様の命を奪う理由がただ欲しかった。だから『うかがっていた』。感動の礼拝、殺意あふれる礼拝。同じイエス様がいるのに。こうも違う。しかしイエス様は変わらない。イエス様は安息日の主。どんなに大人数の礼拝でも少人数の礼拝でも、時代や国や文化が違う礼拝でも、どんな思いで人々が集まっていようとも、イエス様は変わらずおられます。私たちに安息を賜い、善を行い命を救うために私たちを派遣されます。私たちはイエス様と家族なのですから。客ではない。献金という料金を払って講演を聞いて「面白かった」「つまらなかった」と帰って行くようなものじゃない。礼拝は神の家族が帰ってくる場であり、神の家族の日常はここから始まるのです。そして私たちは礼拝を「献げる(持ち寄る)」のです。礼拝は自発的、能動的でもある。神様の声に耳を傾け、イエス様の姿を思い巡らし、互いの賛美、祈り、献金、持てるものを神様の前に持ち寄り、献げ、分かち合う。そういう営みの中に、「神のかたち」「神の子」としての安息と養い、善を行い命を救う新たな生活のスタートがあるのです。

私たちは同じ礼拝に集っています。毎週変わらず礼拝を献げています。あなたは何を感じ、考え、受け取り、持ち帰り、分かち合うことができますか。

10月27日(日)の礼拝は、詩篇第8篇1節〜9節から、「幸い。小さくなるほど見えてくる」と題してメッセージです。


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